工房だより9801
地元の専門学校が高校生を対照に主催した「私の住みたい家」みたいなコンテストを見る機会があった。
応募作品を一通り見て廻って、暗澹としてしまったのは、殆どの家に「外」が無いのだね。
外壁はあるんだろうが、それがどのような世界に囲まれているかを全く考えていないものが多かった。 工業高校建築科の生徒は教師の教えを忠実に守って、どこかで見た建て売り住宅のようなものを描き、 普通科やら商業科の生徒はオブジェじみた家を描いたり、お人形屋さん、バイクショップ、 ロックスタジオのような場所に住みたいと思っているようなのだが、全てがこれ「塀の中の素敵な暮らし」なのだね。 「俺の敷地に俺が何をしようが勝手だろうが」
という日本流社会常識が、高校生の頭に徹底して叩き込まれている様を見るようで恐ろしかった。
今の高校生には「まちづくり」などという発想があることを知る機会が無いのではなかろうか。
部屋に閉じ篭り、テレビゲームに熱中する子供も、はっきりと言葉にしないまま、
そうした「塀の中の素敵な暮らし」だけしか、この世の中にはありえないのだと知っているのだろう。 大賞作品はポンペイの遺跡に見るような中庭を囲んだコートハウスで、なかなかに力を入れて作ったらしい奇麗なものだった。 なるほどこうすれば「塀の中でも素敵に暮らせる」という説得力があるにはあった。 しかしどうも、私なんざ天の邪鬼だもんで、「それ程までして塀の中で暮らしたいもんかね」という感想でしかない。
客家の円楼に見られる通り、塀の中の暮らし、と言うのは大陸にあって地続きの隣国同士、永年に亘って戦禍に苦しんだ人々の編み出した住まい方である。 "Community"なる、近代都市構造を支える近代市民社会の原単位も、「コミュニティ」とカタカナに訳されて、文献に踊っている割りには、内実は輸入されない。 であるから高校生のお手本も「徒な姿の洗い髪、死んだはずだよお富さん」の時代と変わらぬ 「塀の中の素敵な暮らし」に終始する。 環境、環境と言う割には二酸化炭素に終始して、「都市環境」という言葉も専門家の間からなかなか拡がらず、"built environment" という言葉の適切な訳語、 「近代市民社会を触れるものにしたのがこれだ」という言葉はなかなか出て来ないようだ。 |