平野美術館だより9812


「浜松には文化が無い。」と良く言われます。
「楽器の街であって、音楽の街では無い。」
「職人の街だから、、、」
ま、そうでしょう。その代わりと言ってはナンですが、繊維に始まって楽器、 バイク、自動車からコンピュータに至るまで、近代日本の正体を造り出したものは大抵揃っています。 ゲージツなどというものには関係無さそうな人々が営々として築き上げてきて現在の浜松の姿が出来上がった訳です。

明治34年、慶喜公を迎えた駿府府中の人口4万5千人に対し、遠州浜松町は2万2千人でしか有りません。 その田舎町を地方都市の中では我が国を代表する工業都市にしたのはやはり職人の力です。 浜松人には他所に較べてそうした職人の力を信じるところがあった訳です。

大正元年に鉄道省の浜松工場が出来た時の誘致運動が記録に残されていますが、 警官隊を避けて数百人の誓願隊を国会に送り込む、と言う凄まじいものだったようです。 この鉄道省浜松工場の機械鍛冶から分かれた職人がやがて織機を作り、 自動車を作りして現在に至った、というのが浜松の姿であり、日本の近代の姿でも有りました。 そんな訳で浜松人は、近代日本人の平均よりゲージツへ関心が高いとは思えません。しかし

「ひと時代前の技術は芸術になってしまう。」
と言われてみると「職人の街」にとって芸術とは何かを考えるヒントが有りそうです。 現在、私たちが使っている「芸術」と言う言葉は、大方明治時代に"art"といった外国語を翻訳したようなものだと思うのですが、 この言葉には「人の手業」と言う趣が有ります。
"art"というと狭く純粋芸術を指す様にも聞こえますが、"art of ..."という場合には、かなり「職人の業」みたいな響きが有り、 「職人が作ったもの」という純粋芸術の起源を感じます。

フィレンツェのメディチ家の家業は元々「呉服・小間物・化粧品」であったようです。 「メディチ家所蔵書簡集」によると当時は交通・通信技術も今とは比べ物にならず、 ベニスあたりから番頭さんがフィレンツェへ出した手紙の文頭には必ず

「旦那様に神様の御加護が有ります様に。」に続けて
「同じものをもう一通認め、誰兵衛に持たせました。」とあります。
そうした時代のメディチが、後に大芸術家と呼ばれる「絵描き職人」を何故大切にしたかと言えば、 現代のコマーシャル・アートと同じ役割が想像できます。 数百年を経て家業の「呉服・小間物・化粧品」の方は措き、 メディチ家のオフィス(ラテン語でウフィツィ)に並べられた「呉服・小間物・化粧品御支度の御参考」は今も世界中の人を引き付けています。
15世紀のフィレンツェで栄えた「呉服・小間物・化粧品」は東インド初めその後の世界の在り方に大きな影響を与えました。 同じ様に今世紀の世界に日本の近代産業が与えた影響は、人類の歴史に長く残るはずだと思います。

今世紀の初めに2万2千人だった遠州浜松町は15世紀のフィレンツェがルネッサンスを代表するのと同様、 20世紀における日本の近代地方都市の典型と言って良いでしょう。

「職人の街だからゲージツなんて、」
と言っている当の浜松人を、後の人がどう見るか、興味の在る所です。