静岡県建築士会・浜松支部 支部だより9805

5月5日午後5時過ぎ

中心市街地の交通規制が始まる。流れる車はおとなしく定められた車線に流れ込み、 浜松市の中心部は自分の足で立つ人々に解放される。大通りの真ん中を歩いて中心部を一周して見た。

いつも見慣れているはずの街並がまったく違う顔を見せている。多くの場合、ビルの設計者は、 人々が自由にビルに近づいたり、遠ざかったりすることができることを前提に、 ファサードのデザインをしているのではないだろうか。常日頃は車の中から斜めに、 あるいは横断歩道からちらりと眺める建物が、それとは違う、 「本来の」見え方をしているような錯覚を覚えた。
大通りを「横断する」のでなく、 通りの方向に沿って歩いて見ると、我々の日常的な都市の主人公が歩行者ではなく、 自動車であることをつくづくと思い知らされる。

祭の日、中心市街地の大通りの主人公が足で歩く人間となり、 自動車がそれを避けて「遠回り」をすることで現われる街並の姿から 「非日常的」な印象を受けるのはある意味では皮肉なことだ。

人間が歩くことに比べれば自動車に乗って「遠回り」をすることはそれ程の労力を要しない。 道路設計が適切であれば、「登り降り」もエンジンの力で行える。 いうまでもなく自動車とはそのために作られた道具であるからだ。
中心市街地の大通りの主人公が、足で歩く人間であり、 「遠回り」「登り降り」をするためにこそ自動車が発達したのだ、 という発想からまちを造ったらどうだろうか、という提案を東地区の街造りに際して我々は行ってきた。 車の姿の消えた中心市街地で思ったのもそのことであった。

6時

長笛一声と共にゆっくりと旗が動き出す。
旗の後ろには堤灯が続く。

凧場から走ってきたそのままのような足取りで、大通りにあふれ、太い流れとなって男達が練ってゆく。 160余町ということで、一ヶ町300人なら5万人、 1000人なら10万人が一つの流れとなって押して行くのだからその迫力には凄いものがある。

浜松が世界的な工業都市となったのも、この人間の力がエネルギーの源泉となっているであろうことを感じる。 幕末から明治にかけて日本を訪れた欧米の専門家が一様に驚いているのは、 日本人が家畜、動力機関といった人力以外のエネルギーに無頓着であること、 そして更に職人による手仕事が、 多くの分野で欧米の技術水準を遥かに凌ぐ高度な発展を遂げていたことであるという。

祭の日、いつもは浜松の産業を代表している数々の近代的企業が後ろに退き、 そうした近代的企業が成り立っているのも「我々あってのものだ」とばかりに、 街の主人公として現われてくるのが、揃いの法被を着て大通りを練って行く「町衆」であろう。
明治以降の日本が奇蹟の近代化を成し遂げたのも、 実は「町衆」の大きな部分を占める「職人の国」であったからだとも言える。 そうした「町衆」こそが町造りの主人公になってもよいではないか、 というのが東街区におけるわれわれの主張の根底にはあった。 「何処かの誰かが造ったまち」では結局、愛着の湧く「わが街」にはならないのでは、 と言う疑問が多くの人々の心に潜んでいるはずだ。

祭という非日常空間は、近代化と共に抑えつけられてきた情念の噴き出す場、 我々の中のどこかに潜む非論理的な感情が駆け出す場でもある。そこで「祭に喧嘩は付き物」となる。
祭に限らず我々は物事を行うのに「勢い」というものを大切にしている。 振り返って見れば1990年を前後するバブル景気も、 近代化を突き進んだ日本が「勢い」にまかせて走りすぎた、とも言える。 「勢い」が「理」にかなっていれば問題無かったのが、「理」よりも「利」に走ってしまった、とも言えるだろう。
「理」を尽くさないと「理不尽」となる。 「理不尽」が積み重なると「ええいっ、もう我慢できねえっ」となる。 祭にはこうした日頃の理不尽を御破算にする役割もあるのだ。

個々の建物を建てるのであれば建て主が身を切って「勢い」に任せても良いであろうが、 まちづくりはそうはいかない。 「より多くの人にとって」「より良い」答えを出すためには「理を尽くしてほしい」というのが我々の希いであった。 祭に付き物の喧嘩と違い、 一つの「勢い」が退いて別の「勢い」が「理不尽」に突き進むのは我々の望むところではなく、 それこそ「いらんこん」である。 「祭の後は寂しいもの」としないで、じっくりと「理を尽くす」チャンスと考えては如何であろう。