静岡新聞 文化欄9805
建築家も人の子である。であるから親がいる訳で、 歳老いた我が親を独居老人にする訳にも行かない。 という訳で浜松市の中心部に住むハメになった。 街中に住むのも大変である。近くに畑があって味噌汁のタネを自給する訳にもいかない。 近所に公園でもあれば見た目は緑が多いが、その実廻りの敷地も建て混んでいる。 事務所も作りたい。となると、いきおい上に伸びざるを得ない。 和風の、軒下で一仕事できる様な作りにはならず、箱状の建物となる。 箱状の建物であれば枠組壁工法というのが適している。 実はこの工法、北米で発達したものなのだが、彼の地では結構自分で家を作ってしまう人が多い。 西部開拓史の名残である。 「おい小僧共、自分の部屋が欲しけりゃ、自分で作れよ。」玄関ドアが付いたから、と引っ越してしまったら、 「内壁を張り終わってないと、登記出来ない。」とのことであった。 かくて夏休み中を掛けて断熱用のグラスウール(あれは良くない、と思いつつ、今だに良い建材を見つけていない)を入れ、 石膏ボードを張り、米杉の羽目板を張る。という作業が続いた。 遊びに来たヤツにはいい迷惑であっただろうが、「憲法学者の壁」とか「工芸作家の天井」が出来た。 いずれも本職ではないので、日当といえば缶ビールのみであった。 というのが七年前で、実は今だに工事中なのです。休みが近づく度に妻の目がスルドクなる。 かっての小僧共に声を掛けると「バイト代出るの、出ないの。」 という声が返ってくる。妻は図面の上に理想のすまいを実現したときの建築家の満ち足りた心を知っているのだ。 なんせ「結婚指輪の代わりにキbチンをあげる。」 という言葉を信じたばかりに、扉の無い調理台を5年間も使い、 調理台の下が子供の遊び場になってしまった、という前歴があるのだから。 しかし「家づくり」は面白い。暮らしのなかでのものづくりの王道でありましょう。 晩酌の肴を自作するのも結構面白いのだが、比べ物にならない。 なにせそこで暮らせるのだ。ただ「消費」するだけでは得られない大きなものも見えてくる。
環境問題が叫ばれ出して久しい。溢れる「もの」にうんざりしている生活から抜け出すためには、
すまいを「買う」から「作る」にするだけで、きっと新しい満足感が手に入りますぞ。
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