建築の
1930年代

2015.6.3

測量原図
大正12年9月1日午前11時58分
建築の1930年代
筋かいボート不適当

1914年-1918年の第一次世界大戦(当時は「世界最終戦争」と呼ばれていた。)では日本は連合国側に同盟して参戦。欧州の産業が停止している間に繊維産業などが非常な好況を見せた。江戸時代とあまり変わらなかった一般庶民の生活にも消費ブームが押し寄せた。いわゆる「大正モダン」と呼ばれるものだ。

しかしそれもつかの間、1923年の関東大震災で、関東の産業設備は大きな被害を受けた。その後の日本は急速に軍国化してゆく。軍部は「一等国としての軍備」に邁進、「世界最終戦争」での「戦争は儲かる」という空気から抜けられなかった庶民もそれを歓迎した。そこへ1929年の世界大恐慌が襲いかかる。もはや「建設の時代」とは言えなくなってしまった。

時流に乗って「日本のお城は世界一、日本の耐震技術は世界一、世界一の耐震技術で世界一のお城を作れば世界一の建築になる」という帝冠様式(教科書P206)の設計をするものもあれば、ブレなかった建築家もいる。中村與資平は困難な時代にあって、静岡市役所・浜松銀行協会のようなスパニッシュ・コロニアルの建物を設計した。

もう一人紹介したいのは遠藤新だ。東大建築学科在学中に、「東京停車場と感想」を読売新聞に発表して、辰野金吾が設計した東京駅のデザインを酷評し、学会を「破門」になった彼は、帝国ホテル設計のために来日したF.L.Wrightに弟子入りし、帝国ホテルの実施設計を担当する。



関東大震災に際しては、筋交いで壁構造にすれば、柱は3寸で良いという、昭和11年の「戦時木材統制令」につながる、筋交い構造を、伝統和風建築を破壊するものとして、鋭く批判している。

「東京停車場と感想」では、よく読むと辰野金吾への批判は、素人である発注者、中でも大名小路を二束三文に買い取った三菱に、阿諛迎合していないか?という問いかけであり「筋交いボルト不適切」では、北米の住宅構造をよく知るところから、壁構造の安易な導入を批判している。

遠藤新は福島県相馬郡福田村出身であり、明治大正期に自由民権運動を唱えた目黒重眞先生と同郷だ。声咳に接し、薫陶を受けのだろう。

福田村には目黒重眞先生の顕彰碑があるそうだ。 目黒重眞先生が設立に力のあった公立学校は「観海堂」と号したが、今回の津波で綺麗さっぱり無くなってしまい、敷地には常磐線の線路が作られている。常磐線新地駅前だ。

残された遠藤新の写真はニコニコと笑顔のものだが、是々非々という気骨は自由民権運動の筋金入りだったのだろう。

福田村の隣村、埒木崎村には昭和11年、英国国教会の聖ヨハネ教会が設立された。吹き荒れる軍国の暴風に抵抗するというのが、自由民権運動以来の是々非々だったのだろう。 St John’s on the Seaside Hill



測量原図
大正12年9月1日午前11時58分 建築の1930年代
筋かいボート不適当

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