目黒重眞先生頌徳碑

彼は諱を重眞といい幼名を義助又は穪義蔵という。
相馬郡福田村人、加藤嘉兵衛の第二子で文政十一年六月に生まれた。
里正目黒氏の養子となり、常盤緑陰に従って漢学や兵書を学んだ。
嘉永六年里正となり、明治二年に亘理郡長に任じられ、学校を設立す
るときには中心的役割を果たした。漢学及び数学諸科を儲け、
学事を奨励し、十三年村会及び区会議員に選ばれた。県会議員会の
福島獄興に亦連座し、石陽支社を儲け、板垣、河野などの諸士が唱え
る自由民権を説くことにより官の忌み嫌うところとなり、重禁錮一年
之刑を受けた。二十二年条約改正之議が起き翁は相馬郡委員となり、
元老院にその不当を訴え、十一月保安条例により在京することを禁じ
られた。二十三年県会議員に再選され、県会議長となった。
二十九年に又県会議長となり三十三年退職。三十四年病没。
年七十四才であった。翁の性格は剛直で深く教育に留意し、
明治初年学田を二十有町歩、新地福田両村に設けた。
之今日の実があるのは翁の力である。
又公共之事に力を尽くし、多くの人を喜ばせた。