東京停車場と感想     遠藤新



 東京停車場が出来た、そしてこの老大家の力作に向かって建築家はひとしく目を張りその東洋一の前に群衆は歓呼した、けれども自分は一種の寂寞を感ぜざるを得ないというのは建築界につきまとうた回避的な空気と冷たい不関心、それにいうまでもない群衆の無理解を認めるからのことである。もっとも透徹した議論もそのうち出てくるのであろうなれど、自分はこの眼前の事実は、遠き未来は知らず、ここしばらくの間建築の社会的立場を暗示するという予感を禁ぜないのである、いささかこの感を正直に録して先輩の叱正をまとうと思うにもこの辺に所因するところがある。

 第一東京停車場の位置であるが、大都市の玄関としての自分の真価や権威を好んでけなしたものということが出来る、何となれば最も東京停車場を尊重した解決は都市経営の上から市の一方の眼目たる役目を与えるにあって、これを他の中心や眼目に適当なる連絡をなすところに妥当なる都市問題の解決を見出すことも出来、停車場も充分面目を発揮すると信ずるからである。 東京の動かすべからざる中心として、だれしも千代田城馬場先一帯の地域に首肯する、自分は昔ながらの櫓や松やを見るたびに、荷風氏のいうような陰惨ないたましい江戸趣味と反対に、一種の晴れやかさ、新しく生まるるものにも、ふさわしい輝きを認めて、国民精神の帰一点、歴史的情味のみちみちた一団の地区をめぐりて造り得る新東京の幸福を感ずるものである。 自分のこの考えとは異なる意味ではあるけれども、実際三菱原一帯の地が、かなりの注意を払われて、重要なる地位を占めてきている、すなわち東京のビジネス・クオタアとして。

 そしてここに突亢とつこつとして東京停車場が出来たのである、動的中心というべきこの眼目が、到底静的なるべき大中心に突入するという乱暴は白日の電撃のごとく、美しい瞑想を破った、果然、行き詰まりを見るように、東京は全く余韻や奥行を失った、大商店の並ぶべきメーンストリートに背き、帝城の目のあたり、乾燥無味なる銀行会社のただ中に立ちあがった停車場ステーションに自らをけなすというはいではない。

 これからいかに発展するものかもしれぬ、しかし大きな座敷を持ちながら、道路に接して玄関を取り突き当たりに奥座敷があるような「浅い」ものにした第一歩の誤りは執拗な禍をなすではないか。

 馬場先通りを生かし、銀座通りを殺さない工夫がないものか、せめてこれらを織り込んだら、不充分ながらも東京市が一種のリズムを持つというものだろう。世紀末の科学の横暴にもたとえようか、明らさまな打算を見せつけられるような味気なさ、さりとは余りにもせわしいではあるまいか、さる博士の「外国の大都市はその停車場と周囲の結構が好歓の情趣に充ちていかにも遠来の客を遇するというよい第一印象を刻してくれるのだが」といわれた言葉をそのままに東京停車場に当てはめたならと思い半ばに過ぐいうべきではないか。

 もっともこのことは市区改正や、都市計画の根本にさかのぼるべきものであり、さらに地図を開いて見、市の実況に照会して見ると、地勢上の障害や、実行上の困難や、市そのものの不整頓もあって容易な問題でないし、軽々に断じ碍べきものでもないが、忘れてならぬのは日本人に取り去りがたい、弥縫びほうや、無理想をここにも見ることが出来るということである。 建物自体についてはどうかというに、自分は全一なる対象としての建築を考える際到底陥るべきファラシーをおもんばかりて、エレヴェーション、プラン等に分けることを避けたいと思う。

      二

 停車場設計として根本のいろんな問題もあったとして自分の考え得るのは、あの三つの出入口をいかに取り扱うか否、さらにあからさまに帝室用の部分をいかにするという、打ち明けたところやっかいな問題が苦しいところであったと思われることである、のみならず、この部分が、とかく実質以上に論点になりやすい事情も思い合せられるのである。 そして東京停車場は、帝室用を中央に、公衆用を左右にと、一見簡明な、そして難点を無難に納めるような解決に出たと自分は察知する、それは建築家のいわゆる楽な仕方ではあった。しかしこれ賢き楽な仕方が、おぞくも、幾多のつまずきの石であったことを認めねばならぬ。

 すなわち、勢い、出口入口が非常に隔絶して、帝室用がこれを中断する、建物内の連絡は全くなくなり広庭においても依然中断の趣があって、細長い建物は、有機的連絡の感を失い、部分部分の主張をまとめるに急になって、全体としての統合に及びかね、出口停車場、入口停車場、帝室用停車場の三つが、何の脈絡もなく、自分の立場を主張して割拠するということになってしまった、これが殊に出入口が逆なために起こる困難とともに将来大きな不便を語っているのである。

 第二の困難は出入にあるいは公衆用のホールの表現である、これはやがて停車場の表現であるが、あのような長い建物にあっては特にその用意を必要とする、ここに向かって設計者は、ホールの上に大なるドームをのせることによってし.さらにそのドームをば全体の建物にわたっての基調にしようと考えられた、誠に当然なことであるけれども、だれもあの停車場に入って第一に感ずるのはあのホールの頭上空間の大に失するすなわち天井が高過ぎるということである、ドームの下を採光に役立ててはあるけれども、あのホールを三階でとめて天井をかけても採光は工夫次第で出来るようになってることはホールのプランが証明している、しかもそうすれば非常に気持のよい楽な感じのするホールになって、あのような洞然として威嚇的な不愉快を見ぬばかりか極めて順当な表現を壁面にすこしの無理もなしに出来たと思うのである、停車場の前に立ってあの大なるドームの裏までホールの天井がのびていると考えて来て自分は愕然とせざるを得ない、夜になって眺めると中空に朦朧もうろうとした黒い異形の間にほのと光っている一連の窓明かりの怪奇的に見えるというのもやがてこの不都合なる事実を裏切ってるものであるまいか。

 こう考えるとドームはなくてすんだのである、なくてすむものをつけるはすでに非である、それが不必要に天井を引きあげて第二の非を逐げたは忍ぶことのできぬものである、

 これがやがて、地階のものの表現を屋根に取るという非理にはらんで、ドーム自身がかなりまとまって力があるとしても、全体の上から大なる誇張を感ぜずにいられないのである、そしてこの誇張はやがて、そのおのおのの強靭なストレスとなって全体の調和を破って対立するという結果になってしもうたのである。

 しかしドーム自身はその壁から起こるところにアクセントが欲しいとは思われるが、大建築としての簡素な間の雄勁ゆうけいをもっていることを挙げねばならぬ、そしてあの気持が全体を蔽うようにしたらばと他の部分のあまりに繊巧に失するに併せて考えられるのである。 さらに中央の部分で一段高くなった屋根が、長い両側の棟を伝うて左右のドームに連絡するまでの間、殊に停車場に近づくにしたがって(停留場から)棟をブリークする小塔のつくりなしたる一連の輪郭スカイラインは誠に気持のよい美しいものである(この際ドームは視野フィールドオブヴジョンの外にある)。

      三

 かく考えてきた、その正面帝室用の部分を思うと、その気に留まらぬような卑小を感ずるのである、これは全体を損うた一つの理由であるが、さればというて、ここに全体の調子を収攬するドームを置くというような議論は誠に思わざるものである、もし初めにあって削られたというのが真実ならば自分はそれを一段の進歩であると喜ぶのである、何となれば病根はそのプランに由来してその不当なるドームの誇張に発しているからとこの帝室用の部分の手法は際立って繊弱な、その車寄のごときはあまりに細か過ぎるということに存するからである。(試みのこの部分の絵葉書を取って、車寄せと建物の本体の比較をするならば一方は百分の一他方は五十分の一のスケールだと感ぜらるるという事実を発見する)正面中央を、幾多の便利を犠牲にして提供しながらこの絶好な地位をかくまで卑小にするとは解しがたい矛盾であるまいか。 その他各部分についていうならば大ドームの半円筒形の屋蓋と妻、隣の隅塔の独特な、むしろ崎形な手法に見る不検束、または出入口の部分に取りつけられたろうそく形のタレットに見らるる見え透いた技巧の大人気なさに裏切られて、全体の階調の上に無遠慮な侵入者イントルーダアとしか思われぬというようなうらみもある。

 さらに最も法意すべきは、正面一連の柱形ピラスターの憎むべき虚偽である、ギリシャのコラムの完成は実にその完全に具備した意義によるのであった、しかしこの完成されたる柱が、ピラスターとして用いらるるとき、すでに「真実」は一段の弛緩を見た、そしてこれを壁面に張りつけたるがごとくして、あるいは何らの根柢を有せず、曲芸的技巧の上の存在をなすに到って全然許しがたい虚偽に堕落したものであって、盲目なる伝習と、校知なる「都合よさ」とがその存価を是認してきたにすぎない、自分の浅い経験では、良心の呵責のゆえにこのピラスターを用いることが出来なかった。 しかも、驚くべきはこれがルネッサンス建築道徳において何らの批判を受けないことである。 もし、全き意義において「真実」にかえった建築が出てくるとすれば第一この種の偽善を絶叫するに違いない新しい建築を呼ぶ声はここにも潜んでいる。

 かく考えてきてこの停車場が、ルネッサンスという禁域にいわゆる独特の手法を用いたものとして、はしなく思い当ったのは、現時の建築界における「真面目なる様式」という不思議なる通語ウッチ・ワードである。 問題に深入りするのを避けて筒単にいうてみれば自分は、元来クラシックのオーダーに我々が何ほどの理解と交渉があるかについて久しく疑いを持っている、しかも我国の時勢においてやむを得なかったとしても、現在このオーダーが部分的に用いられた際にも信用あるパスポートとなり、あるいは奇怪なるモデフィケーションを受け、あるいは虚偽を蔵しながらも、かのいわゆるルネッサンスが「真面目なる様式」なる套語の下に、滔々たる我国の建築家から偶像的権威を捧げられているは、自分が少なからずあきたらず思うところである。

 こいねがわくば、幾多の拘束を脱して純真な立場から、この青天白日下の奇怪なる通語を再思したいものである。

      四

 二三階はホテルに当てられると言うが、この部分とともに交歓の情味といったようなぬくみを欲しいものである。

 かの食堂のごときも、ことのほか殺風景を極め、レストランの心地よさなどは望むべくもない、未成のうちにあわただしく開業したというような落寞として落ちつきのないものであって、俗受けのしそうな料理材料を皿形にくりぬいた意匠なども引きたたぬこと甚だしい。

 全体にして感ずるところは室内装飾の手法があまりにくだけ過ぎた上に、洗練を欠いて、統一がなくなってるのが第一に気のつくところで、外観に比して不相応に貧寒である、殊に帝室用入口のホールのこなしは忌憚なく建築家の不用意を裏切って、かなりに注がれたせっかくの苦心が、さほどの効果を挙げぬのみか、かえって禍をなしている。

 壁画を二階の高さに応用していわゆる山幸、海幸、各種の産業を題材とするというようなことは、かかる場所がら月並なことなれど、月並なだけ依然としてこの場所には、結局好意匠たるに相違ない、自分のいはむとするのは、それではない。

 壁画結構なりとして、あのホールはあれほどの大きさの壁画に充分の働きを許すにはあまりに狭きに失するということである、殊に二階の床なみに取りつけたる欄干のおり廻したればほとんど壁画をアプレシェートするとは思いもよらず、しかのみならず、落ちつかぬ画面の人物は、浮き出して頭上に交錯するよう感ずるゆえ、画然たるべきホールはかえって、窮屈な、落ちつかぬ圧迫を感ずるものとなったのである。

 壁画をまったからしめようとならば思い切りホールを大にしなければならぬ、ホールをそのままに留むるならば、壁画は断然思い切るべきである、ところを得ざる装飾は常に積極的破壊作用をなすものであるをつらつら思わせるとともに、建築家と画家との連絡なき物理的混合の悲しき実例でなかろうか。

 皇室用の各部についてなおいうべきことがあるけれど、しばらくここに控えることとして、要するに消極的な色調に慣れた日本人は他国の積極的な色調をマスターするの困難と、数十年の学習や経験で、建物の外形だけは大体了解したけれども、その生活に浸潤した装飾にはまだ透徹な理解をもたないということがこのたびも証拠立てられたといい得るのである。

      五

 観じきたって、東京停車場の総勘定は何なりやというに、老大家の技量や、この停車場の世間的価値に対して充分の尊敬を持しながら、高き一面よりして到底失敗であるという現金と、残念ながら建築がまだ日本建築家に頤使いしに甘んじないという手形である。

 これは何に原因するか?建築家責めか、あらず、建築家以外の国民の罪か、あらず、あらず、原因は実に国民全体と建築の距離に存するのである。

 この距離がやがて、虚偽の棲家となる、誇張の入り込む余地となる、遊戯や不真実の侵入となる「必要以上」の根拠地となる、全ての芸術品から生命を奪い去る恐ろしい鳥地獄となる、そして生命をうしないたるすべての作品ば、不満足のそしりを受けながら官僚的難勢や、誇示をもって辛くも立場を主張しなければならなくなるのである。

 憐れなものはかかる情況に営々たる国民ではないか。

 ラスキンは国民芸術のために叫んで、国民一般の芸術に時する理解よりも、芸術家の国民を理解せんことを要望した、我国はこんな甘ぬるい叫びに満足出来るような呑気な事情ではない、まだ根本の国民生活が確定してないのだ。

 永年の歴史が続いた個人の萎縮と澎湃ほうはいたる泰西思潮の影響とに因する国民生活内容の貧寒。生活形成の動揺。

 さらに生活主張の薄弱の間に、あしたは夕に異なる星を目あてに荒野をたどらねばならないのではないか。

 けれどもそれも忍ぼう、それは試練である、将来の光明に対する当然の代価として「幸福なる惑乱」であるからには、それも忍ぼう。

 そして、たとえ、現下の文芸における、戦争によって促進された覚醒的な叫び「我ら自らのものを持たん」という気運が、いわゆる打切りの覚醒でなく、なお来るべき幾多の輸入時代、覚醒時代の一つの階梯にすぎぬとしても、到底来るべき、そして来たさざるべからざる新時代の光輝を一斉に憧憬せずにおられようか。

 建築家はもはや、在来のスタイルという言葉によって論議せらるるような一面的な建築対境を通り越して、一字を加うるあたわず一字を減ずるあたわざる底の生活に徹底した緊密不二の建築の醍醐味を了しなければならぬ。

 そこに建築家の精進安住の境地かあり、そこに、建築は、「装飾せられたる構造」というがごとき不徹底なる定義を脱し「科学的方面と美的方面」というがごとき無意義なアナリチックな論議を離れて、「建築とは何ぞや」という懸案に端的な断案を下し得るものがあるのである。

 そしてすべての他の芸術を自由に駆使して摩訶金光界が築くところに総合芸術としての建築の価値が決定せられるのである。

 以上は自分が東京停車場から得た感想の正直な記録である、老大家の作品に対して自ら量らざる妄言を謝するとともに重ねて先進諸兄の叱正を願うのである。       (完)

[読売新聞大正四年一月二十七〜三十一日]