田園都市

2014.9.8

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田園都市
郊外分譲地
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19世紀に入り、農村から収入を求めた人々が都市部に集中した。マンチェスター周辺では綿紡績・綿織物の工場が労働者を集めるために大量の住宅を建設したが、その中には劣悪なものもあった。図は1844年に王立委員会に劣悪な住宅として報告されたもの。

裏庭には便所とともに豚小屋が作られたものもあり、汚水はそのまま溝に流されていた。



劣悪な環境にもかかわらず、人々は都市部に集中しし、大気汚染なども深刻になっていった。
  Architecture versus Housing
  Martin Pawley Praeger 1971
  建築vsハウジング
  SD選書 1978

雇用の場である都市では、人々は自然から隔離され、遠距離通勤や高い家賃・失業・環境悪化に苦しんでいた。

これを嘆いたイギリスのエベネザー・ハワードは1898年に「田園都市」という新しい都市形態を提案し、

都市の社会・経済的利点と、農村の優れた生活環境を三つの磁石と表現し、それらが結合した第三の生活を生み出すことによる解決を目指した。


Three Magnets

本書は1898年に

明日-真の改革にいたる平和な道
Tomorrow;
A Peaceful Path to Real Reform


としてまとめられ、さらに1902年

Garden City of Tomorrow

と改題されて、その後の都市計画、とくに住宅地計画に対して大きな影響を与えた。
  明日の田園都市
  SD選書 1968

ハワードの提案は、人口3万人程度に限定された規模の、自然と共生し、自立した職住近接型の緑豊かな都市を都市周辺に建設しようとする構想である。

そこでは住宅には庭があり、近くに公園や森もあり、周囲は農地に取り囲まれている。

不動産は賃貸とし、不動産賃貸料で建設資金を償還するので、都市発展による地価上昇利益が土地所有者によって私有化されず、町全体のために役立てられる。

この理論は一定の支持者を獲得することができ、1899年にはハワードを中心に田園都市協会が設立された。

この協会は、1903年にはロンドン北郊のレッチワースに初の田園都市建設に着工した。そこでは田園都市を運営する土地会社が住民たちに土地の賃貸を行い、土地会社の資金を元手に住民たち自身が公共施設の整備などをすすめた。



日本では1907年に内務省地方局有志により「田園都市」が刊行されハワードの理念が紹介された。

1918年には渋沢栄一らが田園都市株式会社を設立し、理想的な住宅地「田園都市」として洗足田園都市を開発、分譲した。またその地の足の便の確保のために鉄道子会社(後の東京急行電鉄)も設立した。そこでは

「文明の利便と田園の風致」
「天然(自然)と文明」
「田園と都市の長所を結合せる」

ことがうたわれていた。

しかし渋沢栄一の「田園都市」は

「大都市付属の住宅地」
「一時間以内に都会の中心地に到達し得べき交通機関を有すること」


という点がロンドンの”Penny Lane”と同じであり、職場・住居・自然の豊かな自己完結型の小都市ではなく、単なる駅前通勤住宅、という点がハワードの思想とは異なっている。

そして1923年9月1日、田園都市株式会社による「田園調布」分譲地の売り出し当日、関東地方は大震災に見舞われた。

ところが震災復興の波に乗り、大正後期から昭和初期に掛けて、東京急行東横線と同様の私鉄路線が次々と開通、ハワードが理想とした田園都市とは異なる、近郊住宅地が急速に拡がった。

近年の首都圏に見る狭小住宅など、ハワードが嘆いた通りの劣悪な環境に見えるが、よく考えると建物自体というより、敷地の狭いのが問題ではないだろうか。ビートルズのタイトルで言えば”PennyLane”だ。



2014.8.28

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