板屋町裏 |
2014.5.28
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「明治末期浜松の面影」より |
中央図書館に「明治末期浜松の面影」というアルバムがある。
明治40年頃の市内の様子を描いたスケッチブックのコピーだ。
書いたのは伊東彌恵治博士、千葉大学医学部の教授だった。
スケッチは先生が東大医学部への入学試験の勉強をしていた、18歳頃に描かれたものだ。ひょっとすると先生は医者ではなく、絵描きになりたかったのかもしれない。
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大日本帝國陸地測量部 明治23年測量二万分一地形圖「濱松」より |
その頃の板屋町は、東海道沿いには町家が並んでいるものの、裏へ回ると田んぼと畑が拡がっていた様だ。
下の図から寸法を見ると間口100mに16軒程の町家が並んでいる。1軒当り6.25mだ。
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濱松市大地図 大正7年 中根櫻編纂 平成 浜松史跡調査顕彰会復刻 |
明治42(1909)年になると板屋町から鹿島に通じる鹿島線、板屋町から中ノ町までの中ノ町線という軽便鉄道が開通し、大正(1914)年には金指、大正12年には奥山までの奥山線が開通した。
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濱松市大地図 大正7年 中根櫻編纂 平成 浜松史跡調査顕彰会復刻 |
板屋町駅は今の男女共同参画推進センター(フィーネの北側)の辺りにあったので、東海道から板屋町駅までが浜松を代表する盛り場になった。 現在の区画整理事業着工までは、映画館も残っていた。宝くじなんてのもそうした盛り場の記憶かもしれない。
駅の西側には浜名用水が流れており、小さな鉄橋が架かっていた。
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これは鉄道橋ではないが、やはり区画整理の敷地に残っていた橋。 | |
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用水堀の上に立つ工場、なんてものもあった。 | |
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浜松の繊維産業は、そうして浜名用水の上に成り立っていた。 | |
区画整理事業地では、浜松の産業を支えた用水堀は地下に埋められて、人目に付かなくなり、その上に見てくれのせせらぎが流れている。中心市街の川を暗渠にして、上を駐車場と鉄道用地に使うという、ヨーロッパの都市では考えられないことが起きている。 しかし区画整理で消えた街の一部が「東田町」として残っており、区画整理事業地から暗渠となった新川までの間の数十メートルだけが、今でも陽の目を見ている。 | ||
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まあ「お江戸日本橋」がこの通りだから、恥ずかしいことではある。
本来の川を人々が楽しめる様にするという試みは、東京では「野川」などが有名だ。
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