松城アパート~
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2014.9.27
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建設時期大規模な空襲を受けた浜松では、
終戦直後に浜松市がとった応急策は、日本楽器など軍事物資をストックしていた企業に呼び掛けて。バラック住宅として売ってもらう事だった。 昭和20年9月から建設が始まった「1000円バラック」は5.4m x 3.6m、畳8畳分がベニア板敷き、残りが土間。台所・押入・風呂場は無く壁はベニア、屋根は板葺き、ガラスが無いので明かり取りには板戸が付けてあった。 昭和21年にはこれが「2600円住宅」となって、広さは同じだがちゃんとした柱梁に羽目板、トタン屋根、ガラス窓の入ったものになった。 市営松城アパートは大正時代の建物、と勘違いしている人もいたが、昭和23−24年の建設で、昭和25年4月から入居が始まった。ただし国による戦災復興のための集合住宅の設計が発表される前なので、設計は大正12年の関東大震災の後で震災復興のために、同潤会が作成した標準設計を元にしている。
同潤会の標準設計の行なわれたのは、ヨーロッパ各国で戦災復興が盛んに行なわれた時期で、そこで考えられた近代的都市住宅建設に学び、世界の最先端デザインが取り入れられたのが特徴(教科書p177−)。1920年代の都市型集合住宅のデザインが、現在に至るまで都市型集合住宅の基礎となっているのは確かだ。 寿命の問題コンクリート自体は硬くなり続けるので、寿命は半永久的なものだ。ローマ時代の建築物は多くが石を積んだ壁を型枠に使い、内部にコンクリートを詰めたものとなっている(教科書p86)。鉄筋コンクリートの寿命は鉄筋が錆びるかどうかに関わる。表面仕上げが適切にメンテナンスされていれば、鉄筋の建物も半永久的に持つはずだ。 鉄筋コンクリートの躯体と寿命の違うのが設備。戦前の上水道は鉛管で供給される事があった。鉛は錆びにくいとして19世紀以降水道管・屋根材などに広く使われていた。ところが後には鉛管から溶け出す微量の鉛が、人体に有毒だと明らかになり、代替素材が求められる事となった。 市営松城アパートでは鉛管を使う予算が無い、鉛管の毒性に配慮、ということで鉄管が使われたと思うが、30年程度で錆びによる赤水の発生する可能性のある鉄管を使う為に、どのような設計が必要か、という課題がきちんと解決されないまま、鉛管の時代と同じ「打込み工法」がとられたのでないだろうか。
という感想を持つものが多かった。しかしこうしたイメージが逆に、現代に受け入れられて「魔女の館」として人気を集めている様だ。
ちょっとした工夫で市営松城アパートも大人気、ということになりそうな気がする。 間取り現在の間取りは台所・浴室周りの増築によって変わっているが、広いのか、狭いのか、住宅に「適切な広さ」はあるのか無いのか、簡単に答えは出ないだろう。 「玄関のすぐ横は台所ではないですが、台所と浴室とトイレとバルコニーがとても近くにあります。お風呂を洗って、洗濯物をして、ご飯を作って、バルコニーに洗濯物を干す時に、動線が短くて済むので、お母さんに優しいです。」 という感想は女性らしい細やかさだが、男と女の役割分担をどう考えるかでもある。
昭和32年に募集された住宅公団の最初の2DKは12坪であったが、応募倍率が2,000倍を超えたそうだ。この時代にはまだ男が勤めに出て一家を支える事が出来た。現在では子供を学校にやろうと言う頃には、女も外に出て共稼ぎ、というのが一般的ではないだろうか。
自家用車が一般的ではなかった頃、夜になると街中の飲屋街は、勤め帰りの男達で賑わっていた。今では代行も高い、家で呑むのが一番、という人も多かろう。亭主がカウンターの向うに立って「へい、らっしゃい。」という「居酒屋風ダイニング」も増えているだろう。
高さ天井の高さが低い、という観察もあった。これは日本人の体格にも関係する事だろう。明治初年の日本人の身長は今より15cm程低かったそうだ。古代より江戸時代まではは殆ど変わりが無い。江戸東京博物館には、江戸時代の吉原の遊女の着物と、鹿鳴館のパーティで使われた夜会服が展示されているが、どちらも身長140cmくらいなので、子供のマネキンに着せてあるのが気持ち悪い。 ドアノブは床から90cmまたは36インチ、というのが多い。襖の手掛は床から2尺5寸というのが定寸だ。あれは立ったまま開けるのもではないのだ。 昭和32年に公団住宅が出た時には、日本人の身長は今より10cmくらい低かった。それで調理台の高さは80cmになったのだが、その後バブル前まで、日本人の身長が伸び続けるのにも関わらず、調理台の高さは80cmが標準、ということになってしまった。 団塊の世代のばあさん連中の腰痛の原因には調理台の高さが関係しているに違いない。 米国の調理台は91.5cmのキャンビネットに2.5cmのカウンターを乗せて94cmというのが標準で、調理台の台輪部分を切って高さを調節する。 地下市営松城アパートは一階の床高が地盤面から1m程になっていて、階段室の下に物置がある。欧米の住宅で良く見掛けるものだ。欧米と言うが、緯度から言えば北海道程度なので、凍結震度が1m近くになるところもある。基礎をそこまで根入れしなければならないので、簡単に地下室を作る事が出来る。物置にするだけでなく、そこをボイラー室にすれば、廃熱の多い昔風のバイラーなら、そのまま床暖房が出来る仕掛けだ。
ベランダ・物干
市営松城アパートでも屋上に選択設備があった様だ。同潤会の標準設計だろう。やがて洗濯機というものが出来、屋上でたらいにウォッシュボードを乗せてというのが、ベランダの洗濯機にと変わり、浴室の脇の脱衣室が選択脱衣室に変わっていったのがベランダの変わり方だろう。 戸建て住宅でも2階に台所を作る場合には、台所から出られるベランダを作るよう心掛けている。これで食生活がぐんと豊かになるからだ。 敷居松城アパートは階段が急で狭いだけでなく、敷居があるからバリアフリーでない、という観察もあった。今の日本の住宅文化の貧困さを著す様な知識だ。
階段が狭ければ、両側の壁に手を付いて上がり下りが楽ではないか。敷居に至ってはここ150年の日本の近代住宅の歴史を象徴する様なものだ。 | ||
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これは森町三倉の友田家住宅(重要文化財)の敷居。近世以前の豪族の住宅だが、板敷きの床の上に敷居が置かれている。 | |
常には板敷きで会議の時だけ畳を敷いた頃の名残だ。(教科書p44左上)平安時代には畳は「畳むもの」だった。百人一首の挿絵を参考にせよ。 | ||
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天王町竹山家離れの敷居。昭和の初め頃のエリートの住宅はバリアフリーだった。 | |
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ところが庶民住宅ではエリート住宅の様に厚い板を廊下に使う事が出来ない。 | |
敷居も薄いものを使うので、段差を付けないと踏めば敷居が割れてしまう。昭和11年に「戦時木材統制令」が出来て、一般住宅の柱は3寸角、ということになり、それまで柱梁の仕口で水平荷重を支えていたものが、北米式の筋交いになってしまった頃から、日本の住宅建築はおかしくなっている。 | ||
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昭和30年代になると「モダンリビング」が流行し、「洋間」が増えた。 | |
「板の間」というのが「洋風」なのだろうが、外壁の断熱が充分でなく、ドアを締め切って部屋ごとに暖房をする、というのが「和式」だった。そのためにはドアの下の気密性を高めるため、相変わらず「敷居」が必要だった。こうして現れた「床上の戸当たり」に年寄りが蹴つまづくのだ。 「洋風」ということで「セントラルヒーティング」とか「ワンルーム」というのも宣伝されたが、何れも外壁断熱を欠いていたので、全滅してしまった。 現在北米で行なわれているのは荒床から1インチ=25.4mm取ってドアを取り付けると言うもの。「洋風」でなく、外壁断熱を充分にした「洋式」ならば、「洋間」と「洋間」の間には敷居は要らない。
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建売ではこの上にカーペットを敷く。ドアとカーペットの間は1/4インチ=6mm開けて通気を取る。 | |
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フローリングは19mmの荒床の上に19mmのものを打つので、がっしりしている。「洋式」だと「洋間」の上は靴なのだね。 | |
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フローリングとカーペットの間は、フローリングの端部をドアの向きに流せばオシマイだ。 | |
敷居から見ても市営松城アパートが出来た頃から現在までの技術は、設備の様に変化の激しいものと、「洋風」か「洋式」という観点からすれば、断熱の様に江戸時代の裏長屋と変わらないものが混在している事が分かる。
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