お大名の話

2015.2.1

上屋敷と下屋敷
大名の私生活
掛川城御殿
百間長屋と盲長屋
マンション?
三田村鳶魚全集第2巻
お大名の話

百間長屋と盲長屋

水戸のが名高い

大名屋敷は今日も錦絵に残つていますから、昔の有様が知れます。どの大名屋敷でも、正門の左右に長屋が建て連ねてありました。これを表長屋といって、皆往還を控えて建ててあります。その表長屋で名高いのが、水戸様の百聞長屋でした。そこは明治三年以来の造兵司-砲兵工廠になっていたので、誰にもよく覚えられていますが、ほかの大名屋敷と違って、地形によったものではあるが、水戸の上屋敷は、前面の江戸川の流れに対して、少しの歪曲もなく、真一文字に線を引いたような位置、それで短くない表長屋を、殊に長く見せますので、江戸に二つないと言い囃して、水戸の百聞長屋を顕著にいたしました。*¹

長屋の住居



毛利家江戸上屋敷

日本建築史圖集 新訂版
日本建築學会編
彰濃國社刊 1980年

諸大名の表長屋は、上屋敷-本邸に必ずありました。中屋敷・下屋敷となりますと、大抵はありますが、あるいはないこともございます。上屋敷の表長屋は、いずれも二階建てで、出入りは御門からいたします。往来に向って建ててありますが、塀があるので、そこからの出入りはないのです。二階の窓から筑へ紐をつけたのを下げて、買い物をしたり、大道芸人を呼び止めて、二階から見たり聞いたりするようなこともありました。

表長屋は連続して隠ててありますが、一軒一軒に仕切り、別々に門というほどではありませんが、入口がついておりました。井戸は共同ですが、干し物をするほどの余地は、銘々囲いの内にありました。

中長屋というのがあります。これは多く棟割りであって、幾軒もつづいて、幾側にもなっておりました。これを続き長屋とも申します。表長屋は士分以下が住み、中長屋は士分以下、足軽までの住い、用人・人目付・奥家老・重役の住いは、一軒建ての門構え、庭もあれば玄関・客間もチャンと備わつております。中長屋は、入口一間が土間の沓ぬぎ、他の一間は床あげ板、これに一間二枚の建付けの格子戸がついておりました。長屋は側ごとに木戸がありまして、庭伝いの往来はありません。士分以上といえば、若党一人、草履取一人、挟箱一人、槍持一人はきまつております。何程手狭でも、五室より少い居宅には住われません。しかし士分以上と申しても、禄に上下がございますから、きっとそれだけの人数を拵ってもおりません。臨時に人入れから雇って間に合わせるのも、珍らしくないことです。概して平常は、女中二人、若党一人、下男一人、または女中一人、下男二人というくらいのが多い。それほど簡略な暮しにいたしましても、士分以下の者は中長屋などには住えません。それでまた中長屋に住える人々の様子も考えられましよう。

九尺二間が原則

大名でも旗本でも、禄高は軍役に当ったもので、詳細に比率が取ってあります。住宅にしても、若干の人数で暮らすものとして建造したもの、決して漫然と拵えたものではありません。武家の住宅は、中長屋を基準として営造されたものです。民間の裏店、いわゆる江戸ツ子等の住宅、木戸があって真中が泥溝板、突当りが雪隠と掃溜め、その両側に九尺二間の住い、これが武家からの持越しで、長屋建てといえばこの式にきまつておりました。中長屋と申して、畢竟九尺二間に変りはない。ただその他に変りがあるだけのこと。

表長屋は二階建てでもあり、間取りも諸大名それぞれに異同がございましたそうです。従って士分の者も住居することがありました。住えるように出来ていたのもあったのでしょう。

中長屋の九尺二間、これは戦国時代に山城が多く、その麓に根古屋とも、寝小屋とも申して、兵卒の休泊所がございました。後々も簡易な建築を寝小屋普請と申しました。『堂洞軍記』に大桑城中の中間部屋のことを書いて、梁九尺長さ二間の長屋の中に、三間柄の鑓をかけるのに、身の方の二間は家の内に、石突きの方は外へ出ていると書いてあります。それをそのままに、民間の裏店も九尺店と申しておりました。武家も町家も、最低生活となれば同様なのが知れます。*²


島原藩下屋敷(現・慶應義塾大学)1860s
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/list.php?req=1&target=Beato

盲長屋のある理由

盲長屋は何として出来たのか。

元禄の大火に本郷の加州邸が焼けた時に、あの松雲公で通つていられる綱紀という殿様が、前田四世光高の時から、脇々とは違って、長屋の外通りに窓がない、先代が何と思ってなされたことかしれないけれども、今度新築するのに窓をつけることはよろしくない、在来のようにいたせと申し付けられました。それで盲長屋は加州のが一番あとまで残りもし、名高くもありました。 桜田の井伊邸のは、彦根の二世直幸が、家来等に江戸の風俗を見習わせたくないと言って、藩外の交際一切を禁じ、その上に長屋の窓から往来を見ても、目の毒になるから、気の移らぬように、窓をつけさせなかつたと言い伝えられました。直孝という彦根の殿様は、いろいろおもしろい話のあるお方ですが、時世の浮華に移り行くさまを嘆き、一藩の自粛を求めただけでなく、それを実に天下の憂いとして、誰にも知れ易いように、ことさらに盲長屋を拵え、当代の一般に見せつけて、覚醒を求めた気味もありましよう。

芝の薩摩屋敷の盲長屋は、その名が中絶して、ほとんど忘れられました。と申すのは、正徳年中薩邸が火災に罹り、その普請奉行を承りましたのが、江戸家老の島津帯刀という人でした。帯刀は十六代の藩主薩摩守光久の庶子、その頃は五十有余にもなっており、文武に達し、世故に通じた、あっぱれな人物ゆえ、藩中でもすこぶる尊敬しておりました。

名家老島津帯刀

帯刀は藩邸新築を指揮して、従来長屋の外面に窓がなかつたが、今度は尋常に窓を明けるようにせよと命じました。掛りの者は先規の変革に驚いたのみならず、その費用も少くないので、一応国許へ伺つてでなくてはと、躊躇いたしました。その時帯刀は、若い面々が本国では広々と寛かに住居していたのに、はるばると海山を越して、旅の空、一年有余の江戸勤番は、さこそ窮屈であろう、よくも気欝せずにおる、せめて窓からなりと差し覗き、往きかう人のさまをも眺めて心遺りにもさせたい、その費用が多いといっても、もし咎められることがあれば、我が一年の禄をもって償えばよい、彼等の気伸ばしになることなら、実に安いことであると申されまして、この時以来、盲長屋をことごとく上下に窓を開けさせました。当時藩中の者を憐む名家老の心遺いに、感心しないものはなかつたと中します。

傑物の腹の底

あるべきはずの長屋の窓をなくすのも時世、わざわざない窓を開けるのも時世、時世のほかに当藩と幕府との機微な事情があります。徳川譜代の井伊家と、中途から幕府に追随した外様大名の加州や薩州の気兼ねは、その辺にほとんど頓着のない譜代大名は、全くお話にならない懸隔がございます。こうしたことを考えますと、建築ということも、単にその型式だけの詮議で済むものではありません。

水戸の百聞長屋の方は、モれだけのもので、あまり複雑な考慮を要するわけでもないのですが、盲長屋の方は、何故に不便な非衛生な構造をしたものか、それにはよんどころない理由があり、やむを得ない事情があるのです。その説明は前田光高なり、島津光久なり、井伊直孝なり、それぞれの傑物の腹の底を叩いてみなければならないのであります。また模様替えを敢行した島津帯刀の働きの中心が、どこにあるか、これも見遁しにはなりますまい。講釈師の手際を見せた拵え話なら、笑ってしまえばそれでよろしいのでしようが、そんな片付きのよいわけではなさそうです。


平安時代の大邸宅は方一町(60間x60間)方二町(120間x120間)といったものだったようだ。足利尊氏の先祖もそのようなところに住んでいた様だ。足利市に残る邸宅跡は方二町(現在の鑁阿寺、右下は世界最古の大学と言われる足利学校)。室町時代、京都における足利尊氏の幕府オフィスと尊氏の住宅は「花の御所」と呼ばれる間口60間x奥行き120間のものだったようだ。


江戸時代の屋敷はこれより大きく、水戸徳川家の上屋敷の面積は全体では方二町の10倍くらいであるようだ。 明治以降住宅部分とその庭園である後楽園を残し、周辺が陸軍砲兵工廠として使われた。「百間長屋」と呼ばれたのは右下に見えるその入り口部分だろう。

当時の「二階建て」長屋の雰囲気は掛川城二の丸御殿勝手口付近が似ているかもしれない。


明治時代巣鴨に建てられたという「百軒長屋」は、路地裏の低所得者向け賃貸集合住宅だった。



一学期に「住宅建築の変遷」でも触れたように、江戸時代の都市型住宅は借家が多かった。

高密度な長屋では図のような「九尺二間」と呼ばれるものが多かった。図は大名屋敷の長屋と同じ「九尺二間」を背中合わせに二列にしたもの。



平屋だけでなく、屋根裏を中二階として使えるようにしたものもあったようだ。

白須賀宿の町屋と同じような矩計によるものだろう。木造共同住宅の防火規定で、界壁の防火壁は天井で止めず、屋根まで達すること、とあるのはこの辺りだ。



これは北田町で見かけた飲食店。2階の軒高が4尺ほどに見える。



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