パルラーディオ

2014.11.7

外的状況

ブルネッレスキ
ドゥオモのクーポラその1
ドゥオモのクーポラその2
ドゥオモのクーポラその3

パルラーディオの徒弟時代
建築家パルラーディオ

その後の古典建築

パルラーディオの徒弟時代

福田晴虔さんの年譜から、パルラーディオの徒弟時代を眺めてみよう。現代とはかなり違うところもあるので、そうしたことも頭に入れておくと、建築家とはなにか、ということがよく分かるぞ。

パルラーディオが生まれた頃、ヴィチェンッァ市は戦争をやっていたようだ。「貴族達の多くは、反ヴェネツィアの態度をとり神聖ローマやフランスの手先となったが、一般市民はヴェネッィア側についていた。」とあるのは近代の戦争と違って、当時の戦争はオサムライサンがやるもので、一般平民は見物しておればよかったのだ。19世紀に入り、ナポレオンが出てくるまではそうだった。ナポレオンがめちゃくちゃに強かったのは、オサムライサンがやって、平民は見物していた戦争というものを「全員参加」でやることにしたからだ。この話を読んで「これはヨイ。」と手を打ったのが長州藩の吉田松陰で、全員参加で戦争を始めたので、幕府軍は手も足も出なかった。

パルラーディオが彫刻師の工房へ年季奉公にやられたのが12歳の時だ。日本でも第二次大戦の前までは同じようなものだった。

ところがパルラーディオは2年で連れ戻されてしまう。遊びたい盛りだったのだろう。親父と一緒にいた、とあるから、末永君みたいなものかもしれない。

千利休が生まれたのが1522年というから、パルラーディオが年季奉公に出た頃だ。戦国武将のお抱え芸術家、というのが似ている。

王侯貴族の男芸者みたいなお抱え芸術家に比べると、クソ真面目な方なので、若いオネーサンを追っかけまわす、というより、頭の中は古典建築で一杯、という方だったのではなかろうか。

それでも10年ちょっと我慢して「ピエトロの伜、石工親方アンドレア」になり、結婚して31歳には「建築家アンドレア氏」になることができた。それまでの研究とそこからの研究をまとめて「完全な建築」「究極の建築」について「建築四書」を出版したのは1570年59歳の時だ。

パッラーディオ
世界の建築家
福田晴虔/著/鹿島出版会/1979
 より

パッラーディオ

ヴィチェンツァ周辺 他地方

1504年

建築家マウロ.コデュッチ死
1506年

画家マンテーニヤ死

ブラマンテ,サン.ピエトロの工事を開始(ヴァティカン)。

1507年

J.B・ダ?ヴィニョーラ生

0歳 1508年 11月30日
誕生・父はバドヴアの粉屋ピエトロ・ダッラ・ゴンドーラ、母はマルタ。聖者の名をとってアンドレアと命名。

カムブレエ同盟戦争始まる。

この戦争においてレオナルド・トリッシノ等をはじめとするヴィチェンッァ貴族達の多くは、反ヴェネツィアの態度をとり神聖ローマやフランスの手先となったが、一般市民はヴェネッィア側についていたといわれる。

10月17日~11月17日
ヴィチェンッァ市は皇帝マクシミリアンの軍隊に占領されたが、後ヴェネツィア軍の回復するところとなる。

アリオスト≪カッサリア≫(フェッラーラで初演、ペッレクリーノ・タ・ウディネの舞台背景)

1歳 1509年 10月31日
G.トリッシノ、神聖ローマ帝国側へ加担したことを理由に財産を没収され、ヴィチェンツァ市から追放される。

市当局はパラッッォ・デッラ・ラジォーネ の修復計画の検討をはじめる.


2歳 1510年 夏 フランス軍がヴィチェンッァ市占領。

建築家ピッロ・リゴリオ生


3歳 1511年 画家ジォルジオーネ死
ニコラ・ヴィチェンティーノ生(音楽理論家)

建築家B・アムマナーティ生
建築家B・ジォルジォ・ヴァザーリ生
フラ・ジォコンド版ヴィトルヴィウス


4歳 1512年 建築家アントーニオ・ダ・ボンテ生

建築家カレアッツオ・アレッシ生

5歳 1513年 ダニエーレ・バルバロ生
この頃、トリッシノはヴァティカンに入り、教皇側近となる。
マキァヴェッリ≪君主論≫
ウルビノにおけ為≪カランドリア≫初演
ジロラモ・ジェンヵの背鍛
ブラマンテ、カムピドリオに木製劇場を造る。

6歳 1514年 ブラマンテ死。ラッファエッロがサン・ピエトロの工事をひきつぐ。


7歳 1515年 トリッシノ≪ソフォニスバ≫


8歳 1516年 画家ジオヴァンニ・ベッリーニ死
画家ドメニコ・ブルサゾルチ生(c.1516)

アリオスト≪狂えるオルランド≫
トマス・モア≪ユートピア≫
ジゥリアーノ・ダ・サンガッロ死


9歳 1517年 ウィッテンベルクのマルチン・ルター教皇庁に対し95ケ条の質問書を発表。
アントーニオ・ダ・サンガッロ(il G.)、バラッッオ・ファルネーゼ開始(ローマ)
マキァヴュッリ≪マンドラゴーラ≫


10歳 1518年 ティントレット生
画家ヤーコポ・ダ・バッサーノ生


11歳 1519年 レオナルド・ダ・ヴィンチ死
ルター破門
ラッファエッロ、ヴィッラ・マダーマ開始(ローマ)。
(~1522)マゼランの世界周航(ヴィチェンッア人ピガフェッタもこれに同行)。

12歳 1520年 ジォヴァンニ・ダ・ペデムーロ等、パラッツォ・テッラ・ラジォーネの修復工事にあたる。(ヴィチェンッァ)。

ラッファエッロ死
建築家ジァコモ・デル・デュカ生

1521年 10月31日

バドヴアの彫刻師、バルトロメ・カヴァッツァ・ダ・ソッサーノの工房に6年間の年季奉公に入る。

チェザリアーノ版ヴィトルヴィウス

13歳 1522年


14歳 1523年 4月28日
カヴアッツァの工房から逃亡.父親と共にヴィチエンツァに居たのを発見され連れ戻される。カヴァッツァと新たに3年の契約を結ぶ。

戦争終結。 ミケランジェロ、ビブリオテーカ・ラウレンツィァーナ開始(~1559年フィレンツェ)


15歳 1524年 4月 ヴィチエンツァの石工組合新規加入者名簿中に、「パドヴァのピエロの伜アンドレア、ヅァーネ親方及びジェロリモ親方の徒弟」の記載あり.これがアンドレア・デイ・ピエトロ・ダッラ・ゴンドーラを指すものとすれば、彼はまたしてもカヴァッツァのもとから逃亡したものと思われる。
「ヅァーネ親方」とはジォヴァンニ・デイ・ジァコモ・ダ・ポルレッツァ、「ジェロリモ親方」とはジロラモ・ピットーニ・ ダ・ルミニャーノを指すと思われる。彼等は市内のペデムーロに共同の工房をかまえ,ジォヴアンニは「イル・ペデムーロ」 の名で呼ばれていた。

アルヴィゼ・コルナロ、パドヴァのヴィッラエ事開始(G.M・ファルコネット設計)
ジゥリオ・ロマーノ、マントヴァのパラッツォ・デ・ル・ルテ開始(~1536)。
ドイツ農民戦争(~1525)。
バレストリーナ生(c1525)


16歳 1525年 彫刻家アレッサンドロ・ヴィットーリア生


17歳 1526年 画家ヴィットーレ・カルペッチオ死
画家ジォヴァンニ・ハッティスタ・セロッティ生


18歳 1527年 ヴィチェンツァでペスト流行。
この頃のヴイチェンツァ市の人口は2万人程度。

マキァヴェッリ死
建築家ペッレグリーノ・ティバルディ生
サッコ・デイ・ロ-マ(神聖ローマ帝国軍のローマ 劫掠)。サンソヴィーノ、サンミケーリ等ヴェネトに逃れる。


19歳 1528年 画家パオロ・カリアリ(通称ヴェロネーゼ) 生


20歳 1529年 ジェノヴァ共和国成立
バルダッサーレ・カスティッリオーネ死


21歳 1530年 3月29日
「バドヴァのビール造り(?)のアンドレア親方としてパラッツォ・デッラ・ラジオーネの1階に工房を取得。
「ビール造り」というのは、父親の職業と混同されたものと思われるが、この記録はアンドレアが「親方」の地位を得たことを示すものと見倣されている。この工房はその後まもなく他人に譲渡した。
この前後からペデムーロの工房における建築関係の仕事をほとんどまかされるようになつたと考えられる。

ボローニャ会談、トリッシノはこのときフランス国王から叙爵をうけた。
画家アントーニオ・ファゾーロ生(c1530)
サンミケーリ、ヴェローナの3つのパラッツォ(ポムペイ、カノッサ、ベヴィラクア)。この頃ヴェネトに南米産とうもろこ移入。

アンドレア・デル・サルト死

22歳 1531年 建築家B.ブオンタレンティ生


23歳 1532年 いくつかの公証人記録に「ピエトロの伜、石工親方アンドレア」としてあらわれる。 神聖ローマ皇帝、ボローニャからの帰途、ヴィチェンッァにたちよる。
この頃古典学者レリオ・ソチーノ、三位一体説を否定。


24歳 1533年 サンソヴィーノ、パラッツォ・コルネル・力・クランデ(ヴェネツィア)開始(~1560頃)。

ロネドのヴィッラ・ゴーディ、この頃からジォヴァンニ・ダ・ペデムーロによって開始(?、バルケッサにこの年の刻銘り)

アリオスト死
ジァコモ・デ・ツラ・ポルタ生
ルカ・マレンツィオ生(c1533)


25歳 1534年 4月14目
指物師マルカントー二者の娘アッレグラドンナと結婚、ペデム一ロに住む。

サンソヴィーノ、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ(ヴェネッィア)開始。
この年、ヴェネツィアの建築家スカルペニーノが、ヴィチェンッァのバラッツォ・デッラ・ラジォーネの修復計画に助言するため来訪。
ジォヴァンニ・ダ・ペデムーロ、カッテドラーレの工事に従事。
サンミケーリ、ヴェローナのポルタ・ヌオヴァ開始。(34/35)

イエズス会創設
コレッジオ死


26歳 1535年 G・マリーア・ファルコネット死。
トーマス・モア処刑


27歳 1536年 サンソヴィーノ、ヴェネツィアの≪ラ・ゼッカ≫開始。 B・ペルッツィ死
B.ブオンタレンティ生
エラスムス死


28歳 1537年 サンソヴィーノ、サン・マルコのリブレリ ア.マルチアーナー開始。
セルリオ≪建築の規範≫第4巻出版.(ヴ ェネッィア)


29歳 1538年 2月19日 ポッツォ・ロッソのジァンジョルジオ・トリッシノの家において、二人の錺職人と同席、何らかの工作契約のために立会う(アンドレアとトリッシノの接触を示す最初の例)。
この前後にトリッシノから「パッラーディオ」の名を与えられる。(?)

サンソヴィーノ、ペラッツォ・デッラ・ラジォーネの計画のためヴィチェンツァに招かれる。
ヴィチェンッァにおいて宗教会議を開≪ことを検討。(開催できず→トレント)
この頃トリッシノのクリコリのヴィッラにおいて≪アッカデーミア≫がはじめられる。

対トルコ神聖同盟

30歳 1539年 セルリオ、パラッツォ・デッラ・ラジォーネの計画のためヴィチェンツァに招かれる。
セルリオ、パラッッォ・ボルトの中庭に木造の劇場を造る。

建築家A.ヴィトッツイ生

31歳 1540年 ヴイッラ・ゴーディの工事に関し、はじめて「建築家アンドレア氏」として報酬をうける。

サンソヴィーノ、ヴィッラ・ガルゾーニ(ポンテカサーレ)。
サンミケーリ、パラッツォ・デッラ・ラジォーネの計画のため、ヴィチェンツァに招かれ、ペデムーロの工房に逗留。
セルリオ≪建築の規範≫第3巻出版。(ヴェネツィア)
画家フェデリコ・ズッカロ生

ロッソ・フィオレンティーノ死
パルミジャニーノ死





外的状況

ブルネッレスキ
ドゥオモのクーポラその1
ドゥオモのクーポラその2
ドゥオモのクーポラその3

パルラーディオの徒弟時代
建築家パルラーディオ

その後の古典建築