パルラーディオ

2014.11.27

外的状況

ブルネッレスキ
ドゥオモのクーポラその1
ドゥオモのクーポラその2
ドゥオモのクーポラその3

パルラーディオの徒弟時代
建築家パルラーディオ

その後の古典建築

建築家パルラーディオ

パッラーディオ
世界の建築家
福田晴虔/著/鹿島出版会/1979 より



パッラーディオ

ヴィチェンツァ周辺 他地方

29歳 1538年

2月19日
ポッツオ・ロッソのジァンジォルジオ・トリッ シノの家において,二人の筋職人と同席,何らかの工事契約のた めに立会う(アンドレアとトリッシノの接触を示す最初の例)。

この前後にトリッシノから「パッラーディオ」の名を与えられる。(?)

サンソヴィーノ,ペラッツォ・デッラ・ラジォーネの計画のためヴィチェンツァに招かれる。
ヴィチェンッァにおいて宗教会議を開くことを検討。(開催できず→トレント)
この頃トリッシノのクリコリのヴィッラに おいてくアッカデーミアがはじめられる。
対トルコ神聖同盟
1539年

セルリオ、パラッツォ・デッラ・ラジォーネの計画のためヴィチェンツァに招かれる。
セルリオ、パラッッォ・ボルトの中庭に木造の劇場を造る。

建築家A・ヴイトッツイ生。


31歳 1540年

8月26日
ヴイッラ・ゴーデイの工事に関し、はじめて 「建築家アンドレア氏」として報酬をうける。

サンミケーリ、パラッツォ・デッラ・ラシォーネの計画のため、ウィチェンツァに招かれ、ペデムーロの工房に逗留。 セルリオく建築の規範>第3巻出版。(ヴェネツィア)
画家フェデリコ・ズッカロ生
@1540 サンソヴィーノ、ヴィッラ・ガルゾーニ (ポンテカサーレ)。

ロッソ・フィオレンティーノ死
パルミジャニーノ死


32歳 1541年 トリッシノに伴われて、はじめてのローマ旅行(?)。

ルイジ・グロト(別名チェコ・デイ・アドリア)
1585にテアトロ・オーリムピコで「オイディーブース」を演じた役者)生

カルヴァン、ジュネーヴで宗教改革を唱える。

33歳 1542年 10月10日
サント・ステファノのマルカントーニオー・ティエーネの家で、新築工事契約に「石工親方アンドレア・デイ・ピエトロ」として立会う。

12月
ジゥリオ・ロマーノ招請の使者に同行してマントヴ ァに行く。(?)

G.ヴァサーリ、アレティーノ作「タラン」のための舞台を造る。(ヴェネツィア、コムパニァ・デッラ・カルヅァ・セムピテルニの主催)
ルッヅァンテ(アンジェロ・ベオルコ〕死
ジゥリオ・ロマーノ、パラッツオ・デッラ・ラジォーネの計画のためヴィチェンッァに 招かれる.ベデムーロは彼の仕事の援助を命ぜられる。(−1543)


34歳 1543年 9月初
ヴィチェンツァ司教リドルフィ枢機卿歓迎のための「アッパラート」を造る.
9月15日
リボルフィ枢機卿ヴィチェンツァ着任。全市をあげての徽迎式典が行なわれる。

ドメニコ・フォンタナ生

コペルニクス「地動説」


36歳 1545年 6月2日
「アンドレア・バッラーデイオ、建築家、ピエトロの倅、ヴィチェンツァ住民」として市の公文書(司教歓迎の支払い)にあらわれる。
秋~46年2月
トリッシノに伴われ、画家G.B.マガンツァ、詩人マルコ・ティエーネ等と共にローマへ上る。
この途中およびローマ滞在中、古代遺跡の実測調査を行なう。

サンミケーリ,サン・ポロのパラッツオ・コルネル(ヴェネツィア)開始。
セルリオく建築の規範>第1、2巻出版(ヴェネッィァ)

トレントの宗教会談(~63)

37歳 1546年 3月5日
2月中に単独でローマから帰っていたパッラーディオは、パラッツォ・デッラ・ラジオーネの計画案を帰るなり市当局に提出していたが、この日、市当局は「絵ではよくわ からない」ので、模型を提出することを命令。

サンミケーリ,ヴェローナのポルタ・パリオ開始。 ミケランジェロ、カムピドリオの計画開始。
アントニア・ダ・サンガッロ死
G.ローマーノ死
ミケランジェロ、サン・ピエトロの工事を引受ける(~64)。

38歳 1547年 1月31日 パラッツォ・デッラ・ラジオーネの木製模型提出

5月〜7月
再びマガンツァなどとローマに滞在。ティボリなどの実測を行なう。

7月末
ヴィチェンツァに戻る。

ヴィチェンツァ宗務会の報告「このまちはこの異端に甚だしく害されており,これまで告発された者のうち25人もが逃亡した。」
セルリオく雌築の規範>第5巻出版.(ヴェネツィア)
トリッシノ「ゴートより解放されたるイタリア」

ピエトロ・ベムポ死。


39歳 1548年 ヴィチンッブ市はパラッツォ・デッラ・ラジォーネの3つの計画案検討のための特別委員会を設腫。


40歳 1549年 4月11日
バラッツオ・デッラ・ラジオーネ計画案の正式採用決定。月俸は5スクーデイ
9月初着工。

11月〜12月
ローマ旅行。(?)
アントーニオ・スカルパニーノ死
彫刻家ジロラモ・カムパーニャ生

ジォルダノ・ブルーノ生


41歳 1550年 9月
ブレシアのパラッツオ・ミュニチパレの計画のため現地へ招かれる。

この頃から長男レオニダ、父の手助けをはじめる。(?)

サンミケーリ、ヴィッラ・ラ・ソランツァ(トレヴィッレ・デイ・カステルフランコ)開始。
ヴィチェンッァの異端摘発。ジゥリオ・ティエーネ、ジゥリオ・トリッシノ(ヴィチェンツァ・カッテドラーレ主任司祭、ジァンジォルジオの長男)、フェデリコ・ヴァルマラーナ、ジゥリオ・カプラ等の名が聡げられる。彼等の大半は他国へ逃亡。

G・ヴァザーリ「列伝」第1版
ピッロ・リゴリオ、ヴィッラ・デステ開始(ティヴォリ)。
ヴィニョーラ、サン・タ ンドレア・スッラ・ヴィア・ フラミニア(ローマ)開始。
アントーニオ・ダ・サンガッロ、バラッッオ・ファルネーゼ開始(ローマ)。
マキァヴュッリ「マンドラゴーラ」

1551年 3月19日
ジロラモ・キエリカーティ、ヴィチェンツァ市当局に対し、自宅建設のため公共広場の割譲を求める。

ヴィニョーラ、ヴィッラ・ジゥリア(ローマ)開始。
G.アレッシ,ジェノヴァのストラータ・ヌオヴァの整備計画。

42歳 1552年 2月8日
ヴィチェンツァ市公証人記録「ピエトロの倅アンドレア、ヴィチェンッァ市雁い建築家、ヴィチェンツァ市民、 姓はパッラーディオ」。 12月
トレントの司教に招かれ出張、その足でインスブルックまで行く。(?)

ヴィンチェンッォ・スカモッッィ生 A.ラバッコ「建築書」

1553年

ピッロ・リゴリオ「ローマの古代遺跡」


45歳 1554年 ヴェネツィアのリアルトの橘の計画案(?、第1次)。ヴェネツイアの「プロト・アル・サーレ」の地位を争うも果さず。
この年、ダニエーレ・バルバロと共にローマ旅行。彼地でピッロ・リゴリオと知己を得る。
ローマの書肆ヴィンチェンツォ・ルクリーノから「ローマの古代遺跡」及び「ローマの教会」出版。ヴェネツィアのマッテオ・パガンからも同時出版。

ヴィチェンツァの文人ジロラモ・グァルド「アッカデーミア・デイ・コスタンテ」結成。

ピエトロ・カタネオ、「建築四書」
セルリオ、フランスで死


46歳 1555年 10月31日
ヴェネツィア、パラッツォ・ドゥカーレ内のスカラ・ド・オロ競技設計に参加し、僅差でサンソヴィーノ、サンミケーリの共同案に敗れる。
次男マルカントーニオ、この頃より「石工親方」として「バシリカ」の工事に参力。

アントン・フランチェスコ・ドニ「セコン ダ・リブレリア」〔ペッラーティオについての賛辞あり)
「アッカデーミア・オリムピカ」創設(1556?)


47歳 1556年

バルバロ版ヴィトルヴィウス出版(ヴェネツィア)
パッラーディオはこの中の多くの図版を提供。
また、バルバロはパッラーディオが建築書を出版する計画をもっていると記す。
4月
ウディネヘ出張

ピエトロ・アレティーノ死
サンミケーリ、パラッツォ・グリマニ(ヴェネッィア)開始。

ホントルモ死
建築家カルロ・-マフールノ生


48歳 1557年 フエルトレヘ出惟。

サンソヴィーノ、「スカラ・ド・オロ」開始。
2月
謝肉祭「アッカデーミア・オリムピカ」は、テレンティウス作「アントリア」を上演。
シロラモ・キエリカーティ死。

49歳 1558年 3月
「アッカデーミア・オリムピカ」はヘーラクレースを讃え、「オリムピック」を開催。
バッラーディオはそのために「アッバラート」を準術。

ヴィニョーラ、ピアチェンツァのヴィッラ・ファルネーゼ開始。 G・アレッシ、パラッツォ・マリーニ(ジェノヴァ)開始。


50歳 1559年 5月
洪水のためヴイチェンツァ市内の多くの橘が破損または流失。パッラーディオはその復旧工事を命ぜられる。

サンミケーリ死
10月
飢伽のため,パラッツォ・デッラ・ラジオーネの工事賀を半額に削減。
このため工事は63年頃まで停滞
アゴスティーノ・タ・チッタデッラ、異端の罪でカムポ・マルッォにおいて焚刑。

ピッロ・リゴリオ、ヴァティカンのピオIV世のカジノ開始。
ヴィニョーラ、カプラロ ーラのヴィッラ・ファルネーゼ開始。


51歳 1560年 5月~7月
市議会はパラッツオ・デッラ・ラジオーネの工事に対するパッラーディオの月俸を、不正流用の疑いありとして削減することを検討。ジロラモ・フェラモスカの擁謹により事なきを得る.
マルカントーニオ.ティエーネ死

G・ヴァザーリ、ウフィッツィ(フィレンツェ)の工覗開始。
アムマナーティ、パラッツォ・ピッティ(フィレンツェ)完成。
バルトロメオ・ネローニ、シエブーのアッカデーミア のために、プロセニアム付きの舞台を造る。
アンニハーレ・カラッチ 生


52歳 1561年 2月
「アッカデーミア・オリムピカ」はパラッツォ・デッラ・ラジォーネ階上大ホールでピッコロミーニ作「変らぬ愛」を上演。パッラーティオはこのために木製の劇場を造る。この仮劇場は翌年の「ソフォニスバ」上演の際にも用いられた。

画家バッテイスタ.ブランコ死。




53歳 1562年 7月18日
G.A・ルスコーニとともにブレシアのパラッツォ・ミュニチペレの計画に関する意見書を提出。

画家フランチェスコ・イル・モロ死

ミケランジェロ、ポルタ ・ビア(ローマ)開始
ヴィニョーラ、「建築の五つのオーダー」


54歳 1563年 2月
ウディネヘ招かれる。市の中心広場の整備計画につき助言。
この頃から三男のオラツィオ、父の手伝いをはじめる。(?)
3月2日
バドヴァ市のウフィッツィオ・テル・ポルコにおいて、自らがパドヴァ生まれであることを申立てる。
これは末息シッラをパドヴァの貧民のための寄宿学校へ入学させるため、その権利を主張しようとしたものといわれる。
翌日3人の証人が喚問され、バッラーデイオの申立てを支持。
10月12日
友人のファビオ・モンツアのヴェネツイアのノバ宅に「さまざまな魚を賞味する会」に招かれたが、客のパッラーティオがオリーヴ油やスペイスの買い出しに出かける。

2月
アレッサンドロ・トリッシノ、異端に間われ拘禁されるが、脱獄しヴィチェンッァから逃亡。
また、G.アンガラーノの帥、マルカントーニオ・ガリアニも同じ疑いで拘禁される。
この年、ローマで、すでにフランスへ逃亡してしまっていたジゥリオ・トリッシノの画像を焚刑に処す。
ヴェネツィアのコムバニア・デッラ・カルヅァ「アッチェジ」海軍からからガレー船を借受け洋上競技を開催。


55歳 1564年 5月娘のセノビア、筋職G.マリーア・デイ.アントー ニオ・ダッラ・フィデの倅、バッティスタと婚約。
当初パッラ ーディオは持参金を400ドゥカーティにすると広言したが、後で三男のオラツィオに交渉させ、これを分割払いとしてもらった。
G・アンガラーノはゼノビアの身元保証人を引受ける。
3日
モンタニャーナのドゥオモのコロ計画案に側し助言。
この頃から末息シッラ、父の手助けをはじめる.。

ヴェネッィアのコムペニア・デッラ・カルヅァ「アッチェジ」G.A.ルスコーニに『ラ・カッパ」というからくり船を造らせ大運河を走らせる。

ガリレオ・ガリレイ生。
ミケランジェロ死。
ヴィニョーラ,サン・ピエトロの工事をひきつぐ。
ベッレグリーノ・ティパルディ、パヴィァのコレッジォ・ポッロメオ着手。


56歳 1565年 3月27日
ヴェネツイアのコムパニア・デッラ・カルヅァ「アッチェジ」が、アントーニオ・タ・モンテ作の悲劇「アンティゴーノ」を上演。パッラーティオが「コロッセオのような 木製の劇場」を造る。(ヴェネツイア、パラッツオ・トルフィンの中庭)。
ジゥゼッペ・チェレディの記すところによれば、パッラーディオは「水を高所へ導くための器械」を考案。

ヴィチェンツァの若手貴族達、「乗馬・武術アッカデーミア」を創設。
バッラーディオの友人シルヴィオ・ベッリ「測量術」出版。
彫刻家カミッロ・マリアーニ生


57歳 1566年 4月~7月
サヴォイア公の招きをうけ、三男のオラツィオを伴って、ヒエモンテから南仏を旅行。中部フランス、シャムボールあたりまで足をのばした可能性もある。
この年ヴェネッィアでヴァザーリと会見。「建築四書>の原稿を示す。フィレンツェの「アッカデーミア・デル・ディゼーニョ」会員に推挙。
この年ないし翌年、上記アッカテーミア通じマドリッドのエル・エスコリアルの計画に関与した可能性がある。

アルヴィゼ・コルナロ死。
ジロラモ・クァルド死ー「アッヵデーミア・ディ・コスタンテ」解散。会員の大半は 「オリムピカ」に吸収される。
バラッッォ・デッラ・ラジォーネの工事統括をひきうけていた石工アルヴィゼ・ズバリ死。
ヴェネッィア共和国、対トルコ開戦(ヴィチェンッァ出身の軍人も数多くこれに参加)。

1567年 オドアルド・ティエーネ、異端の疑いをかけられ、スイスへ逃亡(一説にはパッラーディオが秘密裡に逃亡をすすめたともいわれる)。
ジロラモ・ピットーニ(ジォヴァンニ・ダ・ペデムーロの同僚)死(?)
画家ドメニコ・プルサゾルチ死

ペッレグリーノ・ティバルディ、ミラノのドゥオモの工事に従事。


59歳 1568年 多忙を理由に、神聖ローマ皇帝からのウィーンへの招柵を断わる。



ヴァザーリ「列伝」第2版
ヴィニョーラ、ローマのジェズ教会開始.


61歳 1570年 ヴェネツィアの書肆ドメニコ・デ・フランチェスキから「建築四書」刊行。
7月
ミラノのドゥオモの計画案をめぐって、マルティノ・パッシから恵見を求められ、「古代傑式」のすぐれたることを力説した手紙を送る。
この年おそらくヴェネツィアヘ移り住んだと思われる。

ヴィチェンツァは対トルコ戦のため、12, 000ドゥカーティをヴェネッィアに供出。
タニエーレ・バルバロ死(4月911)、パッラーディオに15ドゥカーティを遺贈。
モンターノ・バルバラーノは、フェデリーゴ・サレゴ宛の手紙の中で、バッラーディオが現場を訪れる約束を果してくれないことを訴える(7月)。
ヤーコポ・サンソヴィーノ死(9月27日)。

ガレアッツオ・アレッシ、ミラノのサンタ・マリーア・う・レッソ・サン・チェルソのファサード計画

1571年 10月7日
ヴェネッィア、レパントの海戦においてトルコを破る。

ベンヴェヌート・チェッリーニ死


63歳 1572年 1月
長子レオニダ
3月
三男オラツィオが疫病のため相次いで他界。
ヴィチェンッァ市からの使者がロッジア・デル・カピタニアートの工事などのため同行を求めるも肯ぜず。
5月
ボローニャのサン・ベトローニオのファサードの計画を依頼される。
7月
ボローニャ訪問。
10月
ボローニャ宛の手紙によれば妻が高熱のため危篤であったという。

画家.G.アントーニオ・ファゾーロ死
音楽理論家ニコラ・ヴィチェンティーノ死

ガレアッツォ・アレッシ 死
1573年 1月25日
三方原の合戦
マルティノ・バッシ,サ ン.ロレンッォ(ミラノ)の再建計画。
J.B,ダ・ヴィニョーラ死
ジァコモ・デッラ・ポルタ、サーン・ピエトロの工事をひきつぐ。

1574年 1月
サヴォイア公よりカエサルく回想録>出版特許を与えられる。

65歳 5月
キオッアの要塞視察のため、軍事建築の専門家達と同行。
5月11日
ヴェネッィァのパラッォ・ドゥカーレ火災。(パッラーディオはルスコーニとともに復旧工事にあたる(~77)。
7月7日
新フランス国王アンリ3世歓迎式典。パッラーディオはリドにセプティミウス・セヴェルスの凱旋門を模したアーチとポルティコ・デイ・オッターヴィオからヒントを得た「ロッジア」などの「アッパラート」を造る。
この年、妻アシレグラドンナ死亡か。(?)

G・ヴァザーリ死
B.ブォンタレンティ
ウフィッツィのポルタ・デッラ・スップリケ(フィレンツェ)


66歳 1557年 3月「ジゥリオ・チェザーレ(ユリウス・カエサル)回想録」出版(レオニダとオラツィオの遺稿をまとめたもの)

ヴェネツィア各地にペスト流行。(〜77) ジァコモ・デル・デュカ、トラヤヌスの円柱の周囲の擁壁(ローマ)。

67歳 1576年 8月
ヴィチェンツァ市はペスト禍を避けるべく、モンテ・ベリコの聖地教会の拡張を検討。パッラーディオに計画依頼。

ティツィアーノ死
9月7日
ヴェネツイアの総督はペスト退散祈願のためレデントーレ(救世主)教会の建設を発表。
11月
上記教会をジゥデッカ島に建設することを決定。
スカモッツィ、ロニゴの「ラ・ロッカ」「ヴィッラ・ピサーニ」開始。


68歳 1577年 2月17日
レデントーレ教会のためのパッラーデイオの案を承認。

彫刻家ロレンツオ・ルビー二死
12月20日
パラッツオ.ドゥカーレ火災。

ジァコモ・デル・テュカ、サンタ・マリーア・デイ・ロレトのド ーム


69歳 12月27日
バラッツォ・ドゥカーレの復旧計画に関し、議会で惹見陳述。その直後、改めて文書として提出。

1578年 1月II日
ボローニャのサン・ペトローニオ教会ファサードに関し、「ドイツ風」に対し、「古代風」のすぐれることを説 く長文の手紙を書く。
5月
末息シッラはヴィチェンツァのサンタ・コロナ教会内に家族の墓所を取得。

アントーニオ・ダ・ポンテ、パラッツォ・ドゥカーレの修復工事の指揮をとる(パッラーディオの意見をとり入れた修理法がとられたとみられる)。
スカモッツィ、ヴィチェンツァのパラツォ・トリッシノ開始(現カーサ・デイ・リスパルミオ)。


70歳 1579年 1月
ベッルーノのドゥオモの補強修復などについて助言。ただし多忙のため現地は訪れず。

10月
「アッカデーミア・オリムピカ」は劇場を造るための敷地を物色。


71歳 1580年 2月15
「アッカデーミア・オリムピカ」は「すでに会員ぱッラーディオによって造られた模型とプロスペッティヴァの図に従って造られる劇場の建設を視察する」ことを決議。
8月19日
パッラーデイオ死亡。死地は不明。サンタコ ロナの墓地に葬られたというが所在は不明。
次男マルカントーニオは1600年頃まで、「彫刻師」として活躍していたことが知られるがその後の消息は不明。
末子シッラは1611年頃まで公証人記録に名があらわれているが、その後不明彼は結幡しなかったらしく、その死後、家系は絶えてしまったと思われる。
2月
「アッカデーミア.オリムピカ」はピァッツァ・デッラ・イゾラの旧監獄跡を劇場として利用することを決定。
9月
「アッカデーミア・オリムピカは シッラを支援してパッラーディオの遺作図集を出版することを決議。しかしこれが実現した様子はない。
ジァコモ・デッラ・ポルタ、ローマのサンタ・マリア・アイ・モンティ開始。


外的状況

ブルネッレスキ
ドゥオモのクーポラその1
ドゥオモのクーポラその2
ドゥオモのクーポラその3

パルラーディオの徒弟時代
建築家パルラーディオ

その後の古典建築