ルネサンス

外的状況

2014.11.6


外的状況

ブルネレスキ
ドゥオモのクーポラその1
ドゥオモのクーポラその2
ドゥオモのクーポラその3

パルラーディオの徒弟時代
建築家パルラーディオ

その後の古典建築

地中海の地図を見るとわかる通り、イタリア半島東岸には島がないものの、アドリア海に面した対岸には多くの島が大陸海岸に沿って並んでいる。宮崎駿が「紅の豚」で描いた通り、この辺りはローマ時代から「海賊の本場」だった。

また半島南端に接してシシリー島があり、島伝いにアフリカ北岸に達することができた。ところが地中海西部には、1日漕げば辿り着ける、というような島は見当たらない。コルシカ島、サルデニア島の西はマヨルカ諸島東端に至るまで、海上400kmを隔てている。ここにたどり着くにはイベリア半島からでないと無理だ。そしてイベリア半島も、アフリカ大陸北岸も、「砂の海から水の海へ、砂が流れ込む」という人外魔境だ。

こうした地中海西部を人間が往来するには、二つの技術が必要だった。

  • 一つは人力ではなく、風力によって長距離航海が可能な船。
  • 一つは島影の見えない海原で、目的地を見定める航海術だ。

船は東地中海で発達した三角帆ではなく、ノルマン人が開発した四角な横帆だった。そして航海術は砂漠での星読みをインド洋で磨いたイスラム教徒からもたらされた。こうして15世紀にはジブラルタル海峡を通ってアルプスの南北が結ばれ、西ヨーロッパは一つの世界になった。

それまでのヴェニスを中心とする東地中海から、交易の中心は西地中海に移り、ジェノヴァが港として栄えた。南フランス産の帆布セルジュ・ドゥ・ニーム=デニムがイタリアのジェノヴァから各国に輸出されたので、ジェノヴァを指すGenuaが英語でjeanという言葉が生まれた。

1295年にはマルコポーロが中国から生還し、東方の神秘を人々に伝えていたが、

  • 中国では金貨を紙に変える術がある。旅先で紙をもう一度金貨に変えてもらえば良い。
  • 中国では矢が火を吹いて自分で空を飛んで行く。
  • 火鼠の皮衣というものがあり、それを着れば火も熱くない。
といった、当時のヨーロッパ人が誰も信じられない話ばかりだったので、マルコは「嘘百万」と呼ばれるようになってしまった。今でこそ紙幣だのクレカだのが普通に使われるが、当時中国で使われていたような紙幣はヨーロッパにはなかった。1970年ごろの英国の空港の両替屋には、貨幣を目方で測っていた頃の名残らしい、秤が置いてあるのを見たことがある。



東方貿易は未開地であったヨーロッパに様々なものをもたらした。それまで毛皮の服みたいな着物を着ていた娘たちは、厳格な修道院の戒律から解き放たれ、東方からもたらされた絹で「まるで裸」のような装いで春を楽しんだ。ボッチェリの「春」は、東方貿易で莫大な富を得たフィレンツェのメジチ家が、絹の販売促進のために描かせた、コマーシャルアートとも言えるだろう。

15世紀に入ると、それまでイスラム教徒が独占していた東方貿易と、マルコポーロの話を結びつけて、イスラム教徒の世話にならずにインド・中国へ達する道を探そう、という話が現実味を帯びてきた。

1492年にはアフリカを廻らずとも、西の海をどこまでも西に向かえばインドへ辿り着ける、という話に乗ったスペインのエンリケ王子のプロジェクトが、別の「新世界」を発見してしまった。大航海時代の始まりだ。

ヴェネツィアなど、東方貿易で栄えたアドリア海沿岸の諸都市に対抗して、フィレンツェは海港ピサを擁して東西両世界の富のたどり着くところとなった。

共和国と称しながら、裏で議会を操るメジチ家はフィレンツェの僭主だった。もともとは銀行家だったものが、東方貿易に投資して富を蓄えた。当時の商いは重要書類をアドリア海や東方各地の支店に伝えるのに、同じ手紙を別々のルートから3通出したそうだ。3通とも同じ内容であれば信じられる。1通が他のものと違っていれば、途中で何かが起こっているかもしれない、というもの。

東方貿易で王侯貴族が栄えるに従って「芸術家」が誕生した。ロマネスク・ゴシックの時代には、お寺の坊さんが職人を使って、昔ながらの変わらぬ建物を作り続けていたが、王侯貴族は「芸術家」個人の才能を掘り出して、他国に無い優れた芸術品を作らせるのが、権威を高めるために利用されるようになったの だ。

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