ルネサンス

ブルネレスキ

2014.11.6
外的状況

ブルネレスキ
ドゥオモのクーポラその1
ドゥオモのクーポラその2
ドゥオモのクーポラその3

パルラーディオの徒弟時代
建築家パルラーディオ

その後の古典建築

町並みの歴史



それまでの「職人」ではない「芸術家」の誕生に力のあったのが、ジョルジョ・ヴァザーリだ。後にメディチ家のウフィツィ宮殿の設計にも参加したヴァザーリは「美術史の始まり」という著作「画家・彫刻家・建築家列伝」がむしろ有名だ。

ヴァザーリは本書で再生」 (rinascita) という用語を用いており、ヴァザーリが中世とは異なるルネサンスの時代を強く意識していたことが示されている。(Wiki)

芸術家列伝
ジョルジョ・ヴァザーリ 1550
田中/森 訳
白水社 2011

という訳書が出ているが、部分訳で肝心な建築家は含まれていない。

当時の画家・彫刻家は建物のかざり職人みたいなもので、宮殿を作るにあたっての、芸術家の総大将は「建築家」だった。ところが絵画彫刻は持ち運べるが、建築は持ち運べないので、日本の西洋美術史の先生は肝心なところが解っていないのだ。

グーテンベルグが活版印刷を発明して(中国ではすでに9世紀以降活版印刷は普通に行われていたが「金貨を紙に変える術」同様のヨタ話と考えられていた。)から100年ほどしか経っていないので、芸術家列伝の原本はめちゃくちゃなものが伝えられているようだ。手写本も多く、のちの人が書きたいことを書き込んで出版しまったりしたのだろう。ここからフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレのクーポラ=丸屋根を設計したブルネッレスキについて見てみよう。(教科書p123−)

フィリッポ・ブルネレスキは、フィレンツェの公証人の子として1377年に生まれた。幼少期から読み書きと算術のほかにラテン語を学んでいたが、家業は継がず、 1398年12月18日には絹織物業組合に金細工師として登録されている[Wiki]。以下は

Lives of the Painters, Sculpters and Architects
Giorgio Vasari 1550
Edited by William Gaunt
Everyman’s Library 1927/1970
より 古山訳 2014

フィリッポ・ブルネレスキ

フィレンツェの彫刻家・建築家

ブルネッレスキは、1401年のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉の作成競技に参加する。最終選考に残ったのは、ブルネレスキとロレンツォ・ギベルティの作品であった。ブルネレスキが共同での作成を辞退したため、扉の制作はギベルティが請け負った。

扉の作成競技をギベルティが請け負うことが決まると、フィリッポはドナートと会い、二人でフィレンツェを離れて1年ほどローマに行くことを決めた。一人は建築を学ぶため、もう一人は彫刻を学ぶためだった。フィリッポがこれを決めたのは彼がロレンツォ、ドナートよりも上に立つ為だった。建築は絵画や彫刻よりもはるかに人々の役に立つ。

フィリッポがセッティニャーノに持っていた小さな土地を売った後で、二人はフィレンツェを離れてローマへ向かい、そこでフィリッポは偉大な建築と教会の完全さに、心を奪われて阿呆のように見えた。

彼はすぐさまこれらの建物の破風を図り、平面図の作成に取り掛かった。フィリッポとドナートは常に二人で行動することで、時間と金を節約した。彼らはローマ市内と近郊のあらゆるところを訪れ、機会があればあらゆるものの寸法を測った。

フィリッポには家族の心配をする必要が無く、関心はすでに崩れた建築のみで、寝る時間も食べる時間も惜しみ、その頃広く使われていた、野蛮なゴシックスタイルではなく、優れた古代のオーダーの研究に没頭した。

彼には二つの大きな理想にとらわれていた。ひとつは真の建築を取り戻し、光を当てることで、ジオットやチマブーエに劣らない名声を得ること。

もう一つはもし可能であれば、難しくてアルノルフォ・ラピの後、巨額を必要とする木製の屋根以外に無いとして、誰もが尻込みし、試みるもののなかった、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレにクーポラ(ドーム)を架ける方法を発見することだった。

しかしながら彼はこの目的をドナート始め、生ける誰にも相談せず、ローマではパンテオンなどの丸屋根を架けることが、いかに難しいかを隅々に渡って研究していった。

彼は古代のヴォールト・ドームの全てについて記録し、図面を残した。そして地中に埋まっていた柱頭・柱・破風・基礎のかけらが発見されると、ドナートとともに現場に行ってそれらを掘り出し、この問題についての研究を進めた。

そこからローマには彼らの情報が広まった。彼らは降霊術で埋まった財宝を掘り出そうとしていると信じられるようになり、汚れた身なりで二人が街を歩くと「宝探し」と呼ばれるようになった。 これはある日、二人が古銭の詰まった古代の壺を掘り当て、金が底をつきかけていたフィリッポが友人の金細工師に売ろうとして広まった噂だった。

ドナートがフィレンツェに帰ることになり、ひとり残されたフィリッポは一層熱心に入念に、古代建築の遺跡を調査した。

彼は円形・四角形・八角形の教会・バシリカ・水道橋・浴場・アーチ・コロシアム・半円劇場など、あらゆる種類の建物を図面に移し、レンガ積みの教会ではヴォールトの曲線からレンガの固め方、締め方に至るまでを広く調べた。

調べによって古代に使われた巨石は、すべて底面中央に穴が開けられており、現在ではウリヴェーラと呼ばれている鉄の道具で、巨石が立てられていたことが明らかになった。フィリッポはこの方法を復活させ、のちに広く使われることとなった。さらに彼はドリス式・イオニア式・コリント式オーダーを次々と研究し、それによって頭の中に古代ローマの建物が崩れる前、どのような比例を持つ姿で立っていたかを頭の中に思い浮かべることができるようになった。

1407年になると、街の雰囲気は少し気まずいものになってきた。友人からは所を変えたほうがいいと忠告された。彼はこれに従って、彼が旅に出ている間、多くの建物に不具合が生じていたフィレンツェに帰ることにした。フィレンツェに帰ると幾つもの建物の仕事があり、助言を与えたりもした。同じ年、彼は教会の檀家総代と毛織物組合によって、その地の建築家・技術者を集めてサンタ・マリア・デル・フィオーレにクーポラを架ける方法を検討する委員会の委員に任命された。



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