ルネサンス

2014.11.13

ドゥオモのクーポラ その1

外的状況

ブルネレスキ
ドゥオモのクーポラその1
ドゥオモのクーポラその2
ドゥオモのクーポラその3

パルラーディオの徒弟時代
建築家パルラーディオ

その後の古典建築

フィリッポがローマから帰った1407年、教会の檀家総代と毛織物組合によって、その地の建築家・技術者を集めてサンタ・マリア・デル・フィオーレにクーポラを架ける方法を検討する委員会が設けられ、フィリッポもその委員に任命された。

ここで彼はクーポラを架ける為には屋根を取り除くことが必要であること、アルノルフォの設計に従うのでなく、それまでの壁をさらに15ブラッキア(約10m)高くすること、それぞれの面に丸窓を設けることで重量を軽減し、クーポラの架構をしやすくすることを提案した。これに沿った模型が作られ、工事が始まった。

彼がフィレンツェに帰ってから数ヶ月後のある朝、彼は、サンタ・マリア・デル・フィオーレの広場でドナートや他の芸術家と古代彫刻について語った。ドナートはそれに関連し、ローマから帰って、オルヴィエトへ有名なドゥオモの大理石の外壁を見に行ったこと、そして数々の名手の作品を見たこと、その時に気がついた大切なこと、後にコルトナを通ってピエヴェに入り、我々の意時代には数多くが発掘されているが、その時にはまだ貴重だった、バスレリーフのついた古代の素晴らしい棺をを見たこと、などを語った。

ドナートはさらに古代の名手がいかに優れた仕事を残しているかについて、今に残る完璧さ、美しさについて語った。これがフィリッポにそれを見たいという、燃えるような願いに火をつけて、職責もそのままに、フードと作業靴のまま、仲間にはどこへ行くかも告げずに、芸術への愛と情熱に従ってコルトナへ向い、棺を見て賞賛し、絵に写すと、ドナートも誰もフィリッポが、設計の仕事をしているか、他のことに関わっているのだろうと思って、どこか行ったと、気付かれぬうちにフィレンツェに戻った。

フィレンツェに戻って、注意深く描いた絵を見せると、ドナートはフィリッポの芸術への情熱を大いに称賛した。

それからフィリッポは数ヶ月間フィレンツェ離れずに、「デブとマテオ」などという冗談を仲間と交わしながら、秘密裏にクーポラの工事のための幾つもの模型、機械の製作にあたった。

気晴らしのために、ロレンツォ・ギベルティが扉を磨く手伝いにもしょっちゅう行っていた。

しかしある朝、気まぐれからローマへ出かけることにした。しかしこれはクーポラ架構の技術者の選定が近づいており、フィレンツェ市内から呼ばれるよりも、遠方から呼び寄せられた方がハクが付くと考えてのことだった。

その通りローマ滞在中に、彼以外の大家は全くのお手上げで、工事人たちはクーポラ架構の工法は永久に見つからず、これだけの梁間を渡し、その過重に耐える梁は存在しないと結論付けていたので、工事の性格上、これまでの経緯、余人が見せなかったのに対し、フィリッポが示した自信と勇気に照らして、フィレンツに来ることを願う、という便りが届いた。

フィリッポにとって、これ以上良い知らせはなく、直ちにフィレンツェへ戻った。

彼が帰るとサンタ・マリア・デル・フィオーレの総代さん達と、毛織り物組合の役員が集まっており、些細なことから最大の課題に至るまで、仕事の困難なことを告げた。これを指摘した名工達もそこに同席していた。

フィリッポはこれに答えて次のように述べた。

総代の皆様、偉大なことには常にその実現に困難がつきものです。特に今回は、おそらく皆様が想像されているよりも、はるかに解決が困難な問題があります。

私には古代の名工さえ、このような途方も無い架構を実現できたとは思いません。私はこれまでその骨組みについて、外部から、内部から、そして安全に施工ができるがどうかを、考え続けてきました。私には高さもそうですが、それよりもそのその幅が解決できません。

もしこれが円形であれば、ローマにあるパンテオンその他の円形神殿で取られた解決法に学ぶことが可能ですが、ここでは八角形に従って架構し、石を固めなければならず、大きな困難が考えられます。

しかし私は大聖堂が神と聖母に捧げられたものであるからには、知識の足りないところが、主と聖母のお導きによって助けられ、建築家には力と英知と創意が授けられることを信じて疑いません。

しかしこれは私の仕事ではありませんから、私はどうお力添えすれば良いでしょう。この仕事について私を信じていただければ、私は困難なく架構する方法について考えるために、身を捧げるつもりでおります。しかし私はまだその方法について考え至っておりません。それにもかかわらず、皆様はそれを探し出せと仰せです。

しかし架構を成し遂げなければならないとしたら、私だけにそれをお求めになるべきではありません。私にはこのような偉大な仕事に助言するに足るとは思いません。そこでこれから1年のうちの定められた日に、トスカナあるいはイタリアのみならず、ドイツ、フランス、その他の国の建築家に来てもらい、助言を求め、課題について討議し、課題を解決し、工事を成し遂げる力のある人に仕事を委ねて、工事は再開できるのではないでしょうか。私にはこれ以上良い助言はありません。

フィリッポのこの提案は組合役員と総代の人々を喜ばせるものであった。しかしその間にフィリッポが課題の解決に集中し、模型を作ることを望んだ。しかし彼は無頓著にいとまを告げ、ローマから迎えの手紙が来ているのでと言った。

毛織組合の役員は彼らの望み、それは檀家総代の望みでもあったが、彼を引き止めることはできないと感じ、友人たちに彼を引き止めようとさせたが、これも効き目は無く、彼を満足させるため、1417年5月26日、総代会は彼に手当の支払いを定め、オペラの帳簿に記載された。

しかし彼はあくまで彼の目指すところに固執して、フィレンツェを離れてローへ向かい、この偉大な仕事の準備のための研究にに没頭した。彼には、彼以外にこの仕事を成し遂げるものはいないという自信があったためだ。

助言のために新しい建築家を雇うという彼の提案には、彼の天才的な才能を示す証拠になる、という以外の目的はなく、彼が毛織組合と総代会がクーポタ架構の方法を見出し、この困難な課題を解決すると考えたわけではなかった。建築家が招集されるまでに、長い時間が過ぎ去った

新しい建築家は、探すためには費用を惜しまないという毛織組合と総代会によって、フランス・ドイツ・イングランド・スペインに住むフィレンツエの商人の情報を基に、それぞれの地の主要な、経験深い、才能のある人々が招かれた。

長い時間の後1420年に、これら外国および地元の名工の全員と、フィレンツェの芸術家の全てとがフィレンツェに集まり、フィリッポはローマから帰ってきた。

全員がサンタ・マリア・デル・フィオーレのオペラに集まって毛織組合と総代会、有力市民の前で、一人一人の提案を聞き、大聖堂の架構について討議することとなった。

建築家が一人ずつ呼ばれ、提案を聞かれた。

この課題についての奇妙な、様々な提案を聞くのは驚きであった。あるものはアーチを支え、梁にかかる荷重を受けるためには柱が欠かせないと言った。

また別のものはヴォールトの骨材に軽石を使って重量を軽減すべきだと述べた。

サン・ジョバンニ教会堂と同じく、大聖堂の中央に柱を立てて、テントのような構造にする、という提案は多くの名工の賛同を得た。

工事中は大聖堂を小さなコインを混ぜた土で満たし、入場料を取って人々にコイン探しをさせれば、建設コストが削減できる、という提案は賛同が得られなかった。

ただ一人フィリッポのみが梁や柱やコイン入りの土を使わなくとも、アーチの大きさにかかわらず、費用を軽減して架構が可能だと述べた。

組合役員たちは簡単なスケッチを求めた。檀家総代、市民もフィリッポが気でも違ったように喋り続けると感じて、あざ笑い、彼の計画が狂気の沙汰だと思われ、別のことをしゃべれといった。

フィリッポは怒り、こう述べた。

皆様、この仕事は私の考えた方法以外では実現できません。それにもかかわらず皆様が他の方法では不可等だと知りつつ、私を笑うならば、この仕事は成し遂げることができないでしょう。

私の考えた方法ではオギーブ形でなければなりません。そして内外間を人が通れるようにした、二つのヴォールトが必要です。石造の構造体は八角形のダブテイルをなして、その上に樫のつなぎを入れますす。

これに加えて光、梯子、雨水を逃す樋が必要になります。皆様が誰もお気づきでなかったかもしれませんが、内部の仕上げにはモザイクを張るための作業スペースが必要です。そのほかにも困難な課題がありますが、私には大天蓋の姿が見えており、私が申し上げたより他の方法では、それは不可能です。

彼がその考えを説明し、困難ではあるが不可ではないことを明らかにしようとするにつれて、内容は明らかになり、疑問が膨らみ、皆は彼の言うことが信じられなくなり、頭がおかしいと感じられた。

委員たちは幾度か彼を下がらせ様としたが、彼は退かなかった。ついに何人かの若者が彼を捕まえて運び出した。誰もが彼は完全に気が狂っていると思った。

フィリッポが後で語ったところによると、この時には「気狂いだ。」と言われるのが嫌で、街のどこへも出ようとしなかったそうだ。

委員会に出席した人々は名工たちが考えた受け入れがたい難題と、フィリッポが述べた、巨大な重量となるであろう二重殻と、仮設の枠組無しの施工という、先の見通を邪魔する巨石に思える理解しがたい考えによって、混乱状態に陥った。

これと間に、この仕事を得るために何年も考え続けていたフィリッポは、何をしたら良いのかわからず、何度かフィレンツェを離れようとした。

しかし仲間の市民達がいかに移り気なのかを心得ていた彼は、忍耐で身を守らなければならないと考えた。

手元にあった小型の模型を見せても良かったかもしれない。しかし委員たちはそれを見ても理解できないであろうし、他の芸術家の妬みと、今度はこれ、次はあれという市民の気まぐれさを考えて、模型を見せようとはしなかった。何故ならば市民の誰もが名工たち同様、今度の仕事の内容をよく知らないのだから。

しかしフィリッポは組合役員・檀家総代の前では何もさせてもらえないので、一人一人を攻めることにした。役員を説得し、総代を説得し、さらに多くの市民を説得し、図面の一部を見せたた。コレによって彼は仕事を彼か、外国から来た建築家の誰かに任せると決めることができた。 これに後押しされて毛織組合役員と檀家総代会、市民代表と建築家たちは計画について話し合った。この時すでにこれらの人々はフィリッポに説得されていた。そのためにフィリッポは「卵を立てる」トリックを使ったと言われている。

彼らはフィリッポに計画案の詳細を公表するよう求めた。彼はそれを拒否し、他の建築家たちに集まってもらい、能力の証明として平らな大理石の上に卵を立てることが出来たものが、大聖堂の大円蓋の仕事をすることを提案した。

建築家たちはやってみたが、誰も出来ず、それをフィリッポに委ねた。

フィリッポは卵の下に穴を開けて、たやすく卵を立てた。

建築家たちは「それなら私にだって出来る。」と口々に叫んだ。しかしフィリッポは笑いながら、皆さんはそれを知りながら、私の模型を見る前に「なぜ委員会にそれを提案しなかったのですか。」と言った。こうしてフィリッポが計画を担当することが決まり、組合役員と檀家総代会に説明するよう求められた。フィリッポは家に帰り、最大の注意を払って設計の骨子を次のように認めた。

皆様、この仕事の困難さに鑑み、私は何人もこれを完全な円形にすることは、不可能だと解りました。灯明台の乗る場所はあまりに高く、力が加われば全体がほどなく崩れてしまいます。

しかも私にはこの建物が永遠であることに、思い至らない建築家は記憶を顧みず、取りかかろうとする仕事が理解できていないよう思えます。

これに鑑みて私は、大円蓋内部を外側と同じようなポインテッドアーチとし、分割することで解決しました。これにより最も高くまで達することが可能です。そしてこれに灯明台の重量がかかることで全体の耐久性が向上します。

内部大円蓋の基部は厚さ3ブラキア3/4(2.5m)で、次第に薄くなり、灯明台に接するところでは1ブラキア1/2(1m)となります。

外部大円蓋は内部大円蓋を天候から守るもので、厚さは基部で2ブラキア1/2(1.7m)、これも同様に上に行くほど薄く、灯明台に接するところでは2/3ブラキア(0.4m)となります。

8つの面のそれぞれにバットレスが付きます。面の中央を含めそれぞれの面に2つずつ、合計16本となります。

それぞれの面の中央には内外二つのバットレスが付くこととなり、その厚さはそれぞれ基部で4ブラキア(2.7m)です。

これら二つのヴォールトは向かい合って次第に薄くなりつつ上方に伸び、最上部で宴となって光明台に飲み込まれます。

こうして24本のバットレスがヴォールトに付き、硬石で出来た6箇所の大アーチが鉄のブレースで締められ覆われます。石造部分とバットレス全体は鉄のチェインで結ばれます。

石部分は隙間の無いもので、5ブラキア1/4(3.5m)の高さに達し、ここからバットレスが出ます。

最初の円と第二の円は下部に水平に置かれた、マシーニョ石のブロックにより補強され、これにヴォールトが乗ります。

ヴォールトには9ブラキアごとに、内部ヴォールトを支える、樫のつなぎを入れた小アーチがバットレスとバットレスとをつなぎます。樫のつなぎには鉄の板でアクセントがつけられます。

バットレスの石造部分は、24ブラキアの高さまでは全てマシーニョで作られ、バットレスに結ばれてクーポラ側面を成し、さらにここからは最大の軽量化のため、レンガか軽石で作られることを、工事担当者が決めれば良いでしょう。

外部には丸窓より上に、下部のギャラリーと同じく、テラスと高さ2ブラキアの透かしパラペットによる歩行用通路を付けます。通路が上下2段になるので、これが飾り破風の代わりとなります。上段の通路は屋外になります。

雨水は幅1/3ブラキアの大理石の樋と、各部には樋を通り、硬い石の樋受けに落ちます。 大天蓋の胴部外部は各面に8箇所の大理石のリブが付きます。必要な大きさと、1ブラキアの高さを持ち、頂部で2ブラキアの幅となります。必要な各部に破風と樋を付けます。上に向かって細くなります。

前に申しましたように、大天蓋は仮設の枠組みを用いないで20ブラキアの高さに建設されます。そしてこれ以外の部分は、これまでに仕事をした名工が好んだ作法に従って造られることが、最も良い結果を生むでしょう。

フィリッポはこれを書き上げると、朝にはそれを委員会に提出した。組合役員と檀家総代はそれの検討に入った。彼らは書かれた内容をしっかり把握できないものの、フィリッポの自信に満ちた様を見、他の建築家が誰もが、これまでにこうした場所を10編も架構したことがあるような、立派な返事をする割には、ここまでしっかりした裏付けを持たないことから、委員会を解散し、フィリッポにこの仕事を任せることを提案した。

ドゥオモの公式ページ
http://operaduomo.firenze.it/en
http://www.museumflorence.com

外的状況

ブルネレスキ
ドゥオモのクーポラその1
ドゥオモのクーポラその2
ドゥオモのクーポラその3

パルラーディオの徒弟時代
建築家パルラーディオ

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