ルネサンス

2014.11.13

ドゥオモのクーポラ その3

外的状況

ブルネレスキ
ドゥオモのクーポラその1
ドゥオモのクーポラその2
ドゥオモのクーポラその3

パルラーディオの徒弟時代
建築家パルラーディオ

その後の古典建築

ドゥオモのクーポラその3

不平は無くなり、感情に左右されず、この建物に必要な才能は、古今の芸術家の誰にも勝るフィリッポの働きによって、工事は順調に進んだ。

こうした思いは彼が細部にわたって、暗がりの事故を防ぐ内外の窓・はしご、急で危険な場所で打ち込まなければならない、様々な形の鉄製かすがい等々、検討しなければならないと考えた課題を解決するために、細部にわたる模型製作を進めたことからきていた。

これと同時に彼は塗装とモザイクのための内部足場、最も危険の少ない場所に設置する雨樋についても、隠すべき場所と隠し方、風圧を逃がすための隙間、台風と地震に耐える構造なども考案していた。これらは彼が過ごしたローマでの歳月の賜物であった。

彼が接合・釘と縛り・石の繋目・仕口にいかに注意を払ったかは、細部を見るにつけ、一人の人間がここまで注意を広げることができるものかと、震えを感じるまでである。

いかに困難で難しい仕事であっても、彼は必ずや解決できるものだと考え、実際に解決することで彼の才能は花開いていった。

例えば重量物の荷揚げに滑車と釣り合い荷重を使って、それまで6頭の牛が引いていた荷を、1頭の牛で引き上げられるようにした。

建物の工事現場はこの頃には地上から高くまで進み、職人が昼食のために上り下りする時間は暑さもあって大変な苦痛となっていた。

これを解決するため、フィリッポはクーポラの上に飯屋を呼んで店を開かせ、そこで料理をし、酒を売ることにした。これで職人は1日の仕事が終わるまで、地上に降りずに済み、職人は楽になり、工事の進捗にも効果があった。

彼はたびたび煉瓦工場に赴いては手で土をこねて良し悪しを確かめ、石切場に出かけては硬さや弱い石目を確かめ、木とワックス、時にはカブを切って作った仕口の模型見せ、大工、鍛冶屋にも同じように工事の細部を示した。

彼は頭トピヴォットからなる蝶番も考案し、建築工事に少なくともトスカナ地方にはそれまでなかった、大きな進歩をもたらした。

1423年の5月6月フィレンツェはサン・ジョバンニ広場でフィリッポをシニョーリ就任と、サンタ・クローチェ広場でリッポ・ニッコリーニの司法担当ゴンファニエーレ就任を祝った。 フィリッポはこの時フィリッポ・セル・ブルネッレスコ・リッピの名で登記されている。しかしこれはラピではなく祖父のリッポを正しく継いだもので、驚くには当たらない。登記には他にも同じような例があり、当時のこととしては普通に考えられていたものだ。

フィリッポはシニョーリの官職を他のシニョーリ同様に努めたが、彼の採決は常に最も重きをなすものだった。 この時点で架構はほぼ終わり、灯明台の据え付けが始まろうとしていたので、フィリッポそれまで公開されていたものに加え、さらに多くの模型をローマとフィレンツェで製作していたが、どのようなものをクーポラの上に置くかを最終的に決定しなければなかった。

これに伴ってギャラリーの完成に向けて決定する必要もあり、様々なデザインが検討された。それらはオペラに置かれたが、管理人の不注意から彼の死後、失われてしまった。

こんにそれらのうち、クーポラの8面の模型の一つの一部が残されているが、これは他のものと違い、ミケランジェロ・ブオナロッティの助言で取りやめになったもの、とされている。

彼は8面からなる灯明台の模型も製作した。その独創性、多彩な装飾で、美しいものである。

彼は球体に登る実に美しい階段を作ったが、入り口には小さな木片が置かれて彼以外にはその存在がわからなかった。

彼の仕事は賞賛され、多くのものの妬み、傲慢さを乗り越えていた。しかしまだフィレンツェの親方の全てを納得させ、灯明台の模型の製作をやめさせるには至らなかった。親方衆は様々なファッションで灯明台の模型を作り続け、ガッディ家令嬢までもが彼に対する灯明台の挑戦に裁きをつけようとしていた。

彼は他の親方の厚かましさを笑うだけで、友人が他の芸術家が何かそれから学ぶために、模型を見せる必要はない、と忠告すると、真の模型は一つだけで、後は皆偽物だと述べた。他の親方たちはフィリッポの模型から一部を真似したりしていた。

模型の美しさへの賞賛は集まったが、球体へ上る階段が無いため、あれは失敗だというのが人々の結論だった。

とうとう理事会と檀家総代がフィリッポにこの仕事を任せることを決めたが、その前に球体に登る階段を示せと求めた。フィリッポが模型の下部にある小さな木片を外すと、柱の一つの中に、ヴォールト型の筒の片方にブロンズの輪を打ち、一足ごとに頂上に登る、現在と同じ球体への階段が現れた。

彼は灯明台の完成を見ることはできなかったが、遺言で模型と同じように作ることとし、細かく作業指示をしている。

彼は架構がオギーブ形をしており、構造が安定するためには、頂部に十分な荷重が必要であり、遺言方法以外の作り方をすれば、構造全体が崩壊すると書き残している。

彼は全ての石材が完全に準備されなければならないとしていた。

人々は灯明台の材料を見て驚嘆し、ヴォールト頂部にこのような巨大なものを載せるのは不可能だと信じた。

多くの技術家の意見ではこれでは荷重に耐えられない、というものであって、これはここまで高いものを建てた地域の為の、高さへの誘惑ではないかと言った。

フィリッポはただ笑って、すべての機械配置、工事準備に万全を期していた。彼の頭脳は常に、荷揚げ・据付に際して、大理石の角が欠けないことに至るまで、あらゆる細部に渡っての準備のために回転し続けていた。

かくして聖堂の全てのアーチは木製足場の中に納められ、彼は作業手順と模型を置いて休養に向かった。

構造の類稀な美しさは目にも明らかであった。

その高さは地上から灯明台までが154ブラキア(103m)、灯明台自体が36ブラキア(24m)、銅製の球体が4ブラキア(3m)、十字架が8ブラキア(6m)で、全てで202ブラキア(135m)となる。

古代の人々がここまで高い建物を建てることはなく、フィレンツェの周辺の山々に肩を比べるような、天を摩する大きな危険を伴う建物が現れたと、疑いなく断言することが出来る。

天はこの建物に間断なく雷を下して、その香りを高くすることだろう。

ドゥオモの公式ページ
http://operaduomo.firenze.it/en
http://www.museumflorence.com

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ドゥオモのクーポラその2
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