ルネサンス

2014.11.13

その後の古典建築

外的状況

ブルネレスキ
ドゥオモのクーポラその1
ドゥオモのクーポラその2
ドゥオモのクーポラその3

パルラーディオの徒弟時代
建築家パルラーディオ

その後の古典建築

ルネサンスはローマ建築の「復興」という意味だろう。15世紀のブルネレスキがフィレンツェにサンタ・マリア・デル・フィオーレのクーポラをかけた時には、ローマのパンテオン、ビザンチウムのアヤ・ソフィア、各地のゴシック建築を研究し「それを超えるもの」という意識があったに違いない。



教科書p131に「盛期ルネサンス」という言葉が取り上げられているが、16世紀、パルラーディオが「完全な建築」を目指していた頃が、古典建築の頂点であるようだ。

16世紀イタリアではパルラーディオ始め、古典建築の研究書が数多く出版された。パルラーディオは「完全な平面」を数多く発表してもいる。



 各地の宮殿建築の中でもビラ・カプラはパルラディオによる「完全な建築」に最も近いものとして有名だ。(教科書p129)



しかしこうした古典建築の研究を通した「建築の原理」の追求は、それを実現するために多額の費用を要した。

そしてそれを可能にしたのは、16世紀以降に新大陸からもたらされた富と、その富を元に発展した各地の王国であり、それらのキリスト教王国の国王に力を及ぼしたローマ教皇だった。

もともと「個人に始まり個人に終わる」はずの信仰を利用しようとするものは後を絶たなかった。「完全な建築」もまたそうした権威に奉仕するものになっていった。

「権威」は「完全な建築」であるとか「建築の原理」に利益を見出しているわけではなく、それが「権威のために利用」できる限りの関心しか持たなかった。建築デザインは完全なものの追及から、権威を高めるためのものに変わっていかざるを得なかった。

やがて古典建築は、権威のためならなんでもあり、という道をたどり、もともとは「荒い・不完全な」を意味する「バロック」(教科書p134-)が権威のために建築を歪めて行き、人々をびっくりさせるためには何でもアリの、建築吃驚劇場のようなものになっていった。典型的なものに遠近法による「だまし絵」の効果を狙って、「偉大な人」を大きく見せるスカラーレギア(教科書p137)があり、

彫刻によって大理石をねじり曲げたように見せる柱もある。やがてこうした珍奇建築にも人々は飽きてしまった。「マンネリ」という言葉はこの時代の珍奇建築=マニエリスムから来ている。

18世紀後半に至ると、それまでの古典的帝国には「科学」と「革命」の波が打ち寄せた。滅びゆく帝国のために「新古典主義建築」(教科書p144−)が姿を表す。

各種の科学の多勢毛を借りて発達し始めた近代的な考古学の成果の上にローマ時代の建築をもう一度イメージとして再生しようとする、




Giovanni Battista Piranesi(1720–1778)

当時専売品としてルイ王朝の重要な財源であった「塩」の精製設備など、実現した建物もある、




Claude-Nicolas Ledoux (1736–1806)

新しい天文学を題材にしたニュートン記念堂や、それまでの建築物の概念をひっ売り返すような規模の巨大建築の計画案を発表していた、






Étienne-Louis Boullée (1728–1799)

などがこの時代の人だ。

中村與資平が靜銀の建物に採用しているように、その後の古典建築は「大丈夫なもの」「無くならないもの」というアイコンとして利用されていると言っていいだろう。

外的状況

ブルネレスキ
ドゥオモのクーポラその1
ドゥオモのクーポラその2
ドゥオモのクーポラその3

パルラーディオの徒弟時代
建築家パルラーディオ

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