お大名の暮らし

2015.2.1

江戸時代の建築
上屋敷と下屋敷
大名の私生活
掛川城御殿
百間長屋と盲長屋
マンション?

気をつけておかなければならないのが、「江戸は京都と違って都ではない。」という点だ。征夷大将軍=東北日本人掃討作戦総司令部の本陣の所在地に過ぎない軍事都市であって、首都機能は初めから考えられていなかった。「都市計画」の代わりとなったのも「縄張り」と呼ばれた「築城計画」だった。

江戸もそうだが、「巴の縄張り」と呼ばれる、城の中心から渦巻き型に軍事施設や市街地を開発してゆく、というグランドデザインがあった。外から敵が攻めてきたとき、城の中心への距離をなるべく稼ぐ、という発想だが、市街地が一方向でなく、四方へ均等に拡大できる、という利点もある。

市街地の8割を占める武家地で、大名屋敷を取り囲んだ長屋、組屋敷に作られた長屋は戦国時代、合戦に際して砦周辺に作られた「寝小屋」が原型であるという(百間長屋と盲長屋)。

これと似た語感を持つのが英語の”barrack”。現在の日本で「バラック」というと、質素な仮設建築という趣だが、英語の意味は「兵舎」だ。質素な仮設建築という点では震災被災者のための仮設住宅が近い。

17世紀中頃の江戸の人口の男女比は7:3くらいだったという説がある、女は人質である諸侯の妻女とそれに仕える使用人、町方でも武家の奥向きの用を足すものがほとんどで、男女比から言っても軍事都市だ。そうした軍事都市で、人々がどう暮らしていたのか、探ってみよう。

以下は 三田村鳶魚全集第2巻月報
中央公論社 昭和50年 より


昭和五十年九月二十九日 目白徳川黎明会
            http://www.tokugawa.or.jp/institute/
    大石 慎三郎
    徳川 義宣
(司会)朝倉 治彦



上屋敷と下屋敷

朝倉

本日は、尾張徳川家を継承されている徳川義宜さんに出席いただいておりますので、大石先生をまじえて武家の生活とか、大名の生活とかをおうかがいしたいと思います。ところで、大名の下屋敷、中屋敷、上屋敷というのは、いつごろからあるんでしようか。

徳川

うちでは最初、元和二年にはじめて江戸城の中に屋敷地をもらいます。ちようどいまの吹上です。地名としては鼠穴というんです。そこへ尾張・紀伊・水戸の御三家がそれぞれ軒を接してもらうわけですが、これは明暦の大火で焼けてしまいます。その後城中に大名屋敷をおくのはよろしくないというので、全部外へ出たわけです。それまでも市ケ谷はうちの屋敷だつたかどうか、そこまでは知りませんが、いずれにせよ明暦以降はいまの市ケ谷の自衛隊のところが尾張家上屋敷ということになります。

朝倉

中屋敷はどこにあつたんでしようか。

徳川

中屋敷というのは知らないんですよ。江戸の地図を持ってくるとすぐわかりますが、尾張殿と書かれたところが猛烈に多いんです。おそらく江戸時代はうちが、全国一の江戸の土地持ちじやないですか。そして初代のときに戸山に屋敷ができます。これは別邸、別墅と呼んでいます。あと年々歳々ふえたんだと思いますがね。大大名に限らないと思いますけれども、上屋敷があって、下屋敷があって、そのほかにいわゆる別墅、これを持つているところがかなりあります。いわゆる一種の別荘ですね。そのほかに尾張家の場合は隅田川の近くにお狩場を持っているんです。そこで鴨をとったり、将軍様を舟遊びに誘ったりという記録が出てきますね。

朝倉

上と下と、なにか役割があるんでしようか。

大石

よく存じませんけれども、上というのは、本邸といいますか、要するに江戸に大名がいる折の、正規の住宅といったようなものですか。下というのは必ずしもそうじゃなくて、たとえばいろいろな物資を入れておいたり、それから別宅用に使ったり、そういうところじやないでしようかね。例えば領主が隠居、謹慎などを命ぜられると、たいてい下屋敷に押し込められます。そのほか、記録を見ていますと、世嗣ですね、跡継ぎはお屋敷が別になります。それから大名の正室、これも江戸に住まつておるわけですが、これも往々にして、例えば尾州藩の場合ですと戸山にいるというようなことがあります。時代によって、時によって違うと思いますが、参勤交代で領主が国許から出てくると、上屋敷で奥方といつしよになるというようなことをやっていたようですね。

朝倉

公のほうの仕事の分担ですね、公のほうの仕事をする人と、それから私のほうの仕事をする人と、はつきり分れているものでしようかね。

徳川

分れてないといったほうがいいと思いますね。これは両極端をとれば、完全に公の仕事だけをしている人もあれば、完全にプライベートな仕事をしている人もいると思いますけれども、今日の基準で考えてみると、大名の生活というのはどこまでが公だか、私だかわからない。鷹狩ひとつにしてもそうですね。プライベートなレクリエーシヨンだといえばそうですし、国情視察だといえば公ですし、わかりませんね。

大石

幕府の場合は表と奥とはつきりしているんで、大名の場合もだいたいそれに準じていたんでしようね。

徳川

だいたいほぼそれに準じていたと思います。

大石

江戸の大商人になると、同じ建物の奥のほうに生活の場があって、表が商売の場になっています。おそらく大名というのは、もつとランクが上ですから、当然そうだと思いますね。

徳川

言葉のうえでも、表お座敷、奥お座敷というようなこともずいぶん出てきます。これは奥のお道具だなんて、しいていえばプライベートなお道具だといいなおしてもいいんじやな いかと思います。

朝倉

やはり奥のほうにいらつしやるのは、女性のほうが多いわけですか。

徳川

もちろん当主も奥に住まうわけです。ところが公だった行事のときは、表座敷へ出てくるわけです。たとえばどこどこからあいさつに来た、そうするとそこへ出てきてあいさつを受けるということをやるわけです。女子供はめったに表に顔を出すことはないんだろうと思います。

大石

表女中、奥女中という言葉がございますから、別だつたんでしようね。

表道具と奥道具

朝倉

いまお道具の話が出ましたけれども、名古屋の徳川美術館にはそういう調度品が全部納まつているわけですか。

徳川

美術館を作つたのは昭和十年ですが、だいたいそのころまでに残されておった道具は全部納めてある。といって、明治ご維新のときにあった道具を、すべて納めておるわけじやありません。その当時、大幅に処分したと思います、ですからいわば公に役人が使うような道具ですね、これはほとんど残っていないと思います。もつぱら大名の個人に属するようなものが、主として残つているといってもいいでしよう。ですから、いまでもうちの美術館の性格を問われたときに、大きく分けて、表道具、奥道具という分け方をして説明するんです。表道具といった場合には、大名の生活のなかでなおかつ表に属するんであつて、行政官庁としてという意味ではないんです。ですから、公人としての大名はいかなるものを待つていなければならなかつたかという説明になります。簡単に申しますと、大名というのは武士ですから、筆頭道具は刀剣です。それに付属して槍であり、薙刀であり、さらに鎧兜に馬具といった、いねば合戦用の道具です。これが一つのジャンルとして取り上げられると思います。

そして、文武両辺に相励むんですから、その文のほうも大切ですし、大名の表芸としての文は、だいたいどの家でも共通していえることは、お茶と、能と、本でしようね。人を接待する、あるいは教養として身につけるお茶は欠くべからざるものになっています。しかも今日の、いわゆるお嬢さんがお稽古するお茶とはかなり違いまして、大きな広間、座敷をいくつも使って、いわゆる広間のお茶ですから、たとえば掛物でも、それ,こそ三幅対であり四幅対である。そして各座敷座敷にいろいろな飾りつけをするわけです。これもいちいちいい出すときりがないんですけれども、形式はだいたい室町桃山のころのもの、すなわち秀吉も踏襲した規式ですね、それをお手本にして江戸初期に完成されました。江戸初期の記録としていちばん詳しいだろうと思うのですが、元和九年に二代将軍秀忠が尾張邸へやつてきたときの記録『元和御成記』が幸い残っています。これがいわば将軍の公式訪問、江戸将軍の御成のもとになったようですね。というのは、その翌年に紀州家に御成になるんです。紀州家の記録をみますと、すべて昨年の尾張家御成の規式に習ったと出てくるんです。水戸家に対する御成、これまた見ますと、その例に習うと出てきます。何回か御成が繰り返されますが、つねに第一回の元和九年の正月、うちへやつてきたときのものが規格になっています。ただ猛烈に金がかかつたので、どんどん簡略にされて、なるべく金がかからんようにしますけれども、たまには別なものを床に掛けたらいいだろうと思うのに、将軍さんがやつてきたときにこの掛物を掛けたとなると、必ず同じものを掛ける。茶杓も必ず同じものを使うというような規格になつちやうわけです。

それから同時に能が必要なのです。お茶事まではプライベートな服装で来ているわけですが、終わりますと、今度は納矩の間といいます部屋に通って衣服を改めて、長袴と烏帽子でもって出てくるわけです。そして広間へ移ってあいさつを受け、三献の儀という杯のやりとりが行なわれるわけです。今日でいえば、よくいらつしやいましたというようなものですね。そこで今日のおみやげがこれこれとご披露があり、それに対して亭主側のほうはお礼としてこれこれを献上とやるわけです。そこで今度はお膳部が出て、お料理が出るわけです。そのお広間ご出座のころから能がはじまつているんです。ちよつとした庭を隔てて舞台ができています。五番能をやるんですよ。たいへんだつたでしようね。もつとも室町将軍の例を見ますと、夜どおしで十何番やつていますけれどもね。もつとも、江戸時代、武家の式楽として能は高い位置を与えられ、公式には必ず演奏されますが、これまた記録を見ますと迷惑がつていますね。家光なんていやでいやでしょうがないんですな。ですから五番能のところ三番しかやらないとか、途中で端折つちやうんですよ。退屈だったんでしょう。ですから能道具もかなりあります。楽器もありますし、能装束、そのほか帯であるとか、頭といったものがあります。

あとはやはり本ですね。各大名どの藩でも、ことに大きくなればなるほど、必ず文庫を設けていたし、うちの場合はなんといっても、駿河お譲りの「御本」が中心になっていました。そのうえ初代がああいう儒教好きでしたから、儒教関係の書籍もずいぶん集めていますね。それがだいたいの表道具じやないでしようか。

奥道具のほうは、公式の行事に用いるわけではない道具とでもいいますか。ですから、女子供の用いるもの、金銀蒔絵の調度類です。例えば絵ですが、これも表座敷に飾る絵は表道具に入るわけです。もつと具体的にいえば、狩野派である、土佐住吉である、あるいは中国水墨である、あるいは墨蹟といつたものは表道具なんです。それから屏風にしてもそうです。そのほか、うちには初期浮世絵もあるわけです。これは表座敷は飾らないですね。奥で婦人たちの枕頭を飾る、あるいは座敷を飾るというものですね。それから大和絵ですね、うちの場合、「源氏物語絵巻」なんか有名ですが、もちろん巻物も床飾り棚飾りに用いられもするんですが、絵巻を飾つたという記録は、私はまだ見ていません。ただ、これはよく誤解を受けるんですけれども、今日美術館等ですと、はなはだ豪華な金銀高蒔絵、宝石類まで象嵌したような道具類がある。大名の生活というのはぜいたくだなというふうにいわれるんですが、あんなものは日常使わないんですよ。お嫁入り道具として持っていくんです。持っていくと、一、二度は飾つたでしようけれども、大切に箱にしまって蔵に入れちやうんです。その証拠には、ほとんど使った形跡がないんです。日常使ったらどんどん手ずれしちやいますし、建具ももつとすり傷があるんですが、ほとんどないです。大切にしまっておいたんでしょう。

大石

つい最近ですが宇和島の伊達家で、佐竹から嫁に来た女の道具一式を公開して、評判になりましたね。NHKでも二三度取り上げて。それを私もちよつと見てきたんですけれども、輿入れの時持つてきて大事にしまつてあつただけで、使ったものじやないですね。非常にきれいで、ぜんぜん一度も使つてないんじやないかと思うのばかりです。

徳川

いいものほどそうだと思いますよ。死後それを寺に納める場合があるのですが、寺はわりにぞんざいでしてね。かつては立派な道具だつたと思われるものが、今日寺に伝わつていると、ひどくやつれていますね。

朝倉

さきほど本の話が出ましたけれども、現在、名古屋市立になっています蓬左文庫にある本ですね、あれはお手元の本がかなり人つているんですか。

徳川

蓬左文庫はちよつと性格が変わつていまして、いわば当時殿様の奥におった文庫以外に、表職におった記録類ですね、これまでいつしよに入っているんです。ですからあれは性格が二つに分れる。そして本来記録類は林政史研究所に残すべきであつたと思うんです。大半の記録は研究所に残つていますが、見てくれできれいに装慎されているものは強引に書冊に加えて、名古屋に移してしまったようです。

朝倉

江戸の終わりごろになると、奥でも草双紙のようなものは読まなかつたんでしようか。

徳川

それにストレートにお答えするんじやなくて、私の知つていることをお話ししますと、うちの美術館に通俗的な意味の浮世絵なんて一つもないんです。それから青表紙、黄表紙本もぜんぜん残つていないのです。ところが、そういうものは大名がいつさい見なかつたというようなことは、けつしてないのですね。必ず見たり、読んだり、楽しんだに違いないんです。ただしお道具と思わなかつたんです。今日の週刊誌、漫画本のようなものですね。うちの代々の墓を全部改葬したときに、子供の墓から浮世絵が出てきています。東海道五十三次、その他、おそらく女子供に江戸みやげだとか、道中みやげだとか与えて、みんな喜んでいたんだと思います。ただお納戸の分野には当然なりませんから、残らないんだと思います。

江戸時代の建築
上屋敷と下屋敷
大名の私生活
百間長屋と盲長屋
マンション?

町並みの歴史