江戸時代の建築

2016.12.13

江戸時代の建築
上屋敷と下屋敷
大名の私生活
掛川城御殿
百間長屋と盲長屋
マンション?

仕来たり通り

近世の日本建築については、教科書p46−68がわかりやすいので、よく読んでおいてください。現代と違うところは、一般的な建築では細かなところまで法令で決まっていて、現在の意匠設計というものが無なかった点でしょう。仕来たり通り=それまでしてきた通り、というやり方です。

これは江戸時代の日本経済は年貢を基盤にしているので「成長」という発想がなく、仕来たり通りのゼロ成長経済だったからでした。そのためには「我慢」が生活の基本でしたが、それでも17世紀から19世紀半ばまで日本の人口は3,500万人程度で変化がなく、平均年齢は下がり続け、平均身長も減り続けました。

越後屋さんのような商家では、奉公人の食事の内容も、春夏秋冬ごとに一日から月末まで、仕来たり通りで決まっており、同じものを3回食べたら季節が変わる、というものだったようです。

大きな神社仏閣などは三代将軍家光公の代に「天下普請」で建造されたものを、永代変わらない状態に保つ「営繕」だけとなりました。城、武家屋敷についても赤門・黒門など、色や構造まで、格式によって細かく定められており、違反すればお家取りつぶしとなります。

新規の建設工事は一切ないので、幕府の建設部門は縮小され、営繕係=「小普請組」と呼ばれました。給料だけでは生活できないので、各種のアルバイトが盛んでした。

町屋の構造も同様に細かく定められており、間口によって固定資産税額が決められていました。また軒高九尺以下、二階を作る場合は火消しが梯子を据えるように三尺下がる、といった消防上の定めもありました。江戸の町の、通りに面した部分は土蔵造り・瓦葺にせよ、というお達しが度々出されていることからは、不燃化が幕府の思うように進まなかった、という姿を示しています。

こうしたことが250年以上が続いたので、江戸時代の建築物には年代による変化が少ないのです。

東照宮・浅間神社

三代将軍家光公の代に作られた久能山東照宮は、日光東照宮の仮宮であり、静岡浅間神社などとともに江戸時代の天下普請の様を伝えています。浜松市の五社神社・諏訪神社も同様に三代将軍の時のものですが、昭和20年に空襲で焼失してしました。しかし旧国宝建造物なので、現在の社殿も焼失前と同じように作られています。

城は慶長20(1615)年家康によって一国一城とされました、それ以前の城は軍事施設であり、天守閣など敵の目標になりやすい建築物は作られませんでした。県西部では徳川軍と武田軍が対峙した時代の高天神城などがこれにあたります。三方ヶ原の合戦の折の、徳川方の本陣は現在の普済寺に置かれ、現在の浜松城の位置にはあったとしても物見櫓程度でしょう。

これ以外にも地元の国衆が備えとした天方城のようなものもありますが、いずれも建築物としては仮設建築と見るのが合理的です。清見寺が清見ヶ関の本陣となるように配置されている通り、寺院も非常時には軍事施設となりました。

一国一城令以降の城は軍事施設としてよりも、行政施設と考えられます。掛川城二の丸御殿は国内最古のオフィスビル、と考えてよいでしょう。現在各地に残る城の多くは、大手門の側は立派ですが、裏側はそれほどでもなく、実戦に対して程んど防御の用に立っていないことは、戊辰戦争の折の各地の戦闘記録からも知ることができます。

町屋

町屋も表通りに面した部分は、お定め通り質素な造りにしなければなりませんでしたが、中庭の路地伝いに離れまで行くと、ご隠居の住む離れがあり、一目見てもわからないところに金をかける、というのが当時の金持ちの「隠れた楽しみ」だったようです。浜松祭りの法被の裏地にサンローランのスカーフを使うようなものでしょう。

殿様連もそれは百も承知で、江戸で言えば隅田川の向こうの向島、深川などの下屋敷や料理屋などへ「お忍び」で息抜きに通っていたようです。

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