お大名の暮らし

2015.2.1

上屋敷と下屋敷
大名の私生活
掛川城御殿
百間長屋と盲長屋
マンション?

昭和五十年九月二十九日 目白徳川黎明会

    大石 慎三郎
    徳川 義宣
(司会)朝倉 治彦

ほとんどわからない
大名の私生活

朝倉

近世の大名といいましても、近世に入ってだいぶたってから大名になった人もいますし、足利時代から続いている家もありますが、大名の生活の様式は、室町時代からの引継ぎなんでしようか、それとも新しく徐々に出来上がつてきたものでしようか。

徳川

これは歴史学者によって個々に見解も違うと思いますけれども、私は中世大名と近世大名というのは、まったく違うと思うんです。中世大名というのは、むしろヨーロッパの封建諸侯に共通する要素がかなりありますね。なんといっても封土に密着している。もちろん近世大名のなかにも、江戸のはじめ から終わりまで、国替えを受けなかったうちだって多いのですが、私は封建という名で唱えられないと思って見ているんです。むしろ今日の知事に近いですね。土地を持つているわけじやないし、司法、立法、行政の三権も将軍から委託されているだけでしよう。ですから、預かつているんだという考えです。だから後に大政奉還という、還し奉るという思想が生まれてくるんです。

朝倉

まったく私のほうの生活はどうでしようか。家康ならば三河でやつていた生活をそのまま江戸城に持ち込んだのか、それとももうちよつと前の足利幕府がやっていた生活を取り込んだのか。

大石

私生活がわかる記録というのはほとんどないですね。研究もいままであまりやられたことがないですしね。とにかく大名の私生活が江戸時代の研究のなかでいちばんわかつていないところなんですね。いちばん責任があるのは歴史家なんですが。ほんとうに、歴史学そのものがいちばん見残しているところです。だから現在具体的にものを知らなくちやいかんという要請が起ってくると、歴史学者はものの言いようがないんですね。三田村鳶魚さんなどが珍重されるのは、断片的ではあるが具体的に実証的に研究をすすめていられるからですね。

徳川

現在残っている記録というのは、みんなほとんどが編纂された記録ですが、ときには編纂のために資料をかき集めた状態で残つているものも、ごくまれにあります。それを見ますと、日常生活のほんの一端が記録されています。ときには手紙等もそのまま残っています。面白いのは、家光の病状を連絡してきたのがありまして、御所様でしたか、上様だつたか覚えていませんが、虫が出たというんですな。長い虫が出た。真田虫でしようね、それが出て、ご気分もすきすきとよくならせられたというようなことを、わざわざ江戸から尾張に知らせてきているんですよ。けれども、いったん編纂されたものを見ますと、絶対そんなものは残らない。全部いわば公人としての行動だけにしぼって残してしまう。少し熟を出した、病気になつたということでさえも、公式行事にかかわりのあつたところだけ残して、風邪をひいたんで、このとき対面しなかつたとかいうのは出ますけれども、そのほかのはめったに出てきませんね。

朝倉

日記をつけていた方というのはいらつしやるんですか。

徳川

うちの場合は、幕末のときの当主ですね。それ以外に日記は残つていません。この人はかなり克明に日記を残しています。鉛筆で書いていますけれども。

大石

いろいろな日記を見ても、私的なことを書き残しているケースは非常に珍しいですね。やはりああいうような時代ですから、先規、先格、先例だとかいうことが大事だから、この折にこうしたということをきちっと書いておいて、あとあとの参考にする、つまりあとの生活の指針のためにというようなつもりで、日記を書くことが多かつたんでしようね。

徳川

ですから、わずかにうかがい知ることができるのは、往復書簡ですね。これを見ますと、やはり大名も人の子でして、人情こまやかなところがずいぶんあります。うちの三代と四代の往復書簡を見ますと、まだ四代がせいぜい十歳くらいでしようか、子供でして、このあいだ自筆で手紙をもらってありがと う、ずいぶん手もよく習い込んできた、うまくなつたぞというようなことを、親父がほめているわけです。それから返事のほうは、親父は祐筆に書かせていまして、きまりきつた文句を祐筆が書く。そのあとへ続けて、自分で筆をとり、今度は打ちとけた様子で、いろいろとこまやかな愛情なり、忠言を与えるといったようなものがあります。そのなかにはそれこそ、何々が好きだからといって食べ過ぎちやいけないとか、だれだれの言うことはよく聞けとかいうような注意を書いています。プライベートな生活としては、今日とそうたいして違いないんじやないか。少なくとも人情的な問題としてですね。

それから家康の手紙もあります。ついこのあいだ見つけたもので、息子の松平忠吉にあてて、手習いをおろそかにするなというようなことを書いていますね。それからうちの初代が疱瘡にかかったときの手紙がありますけれども、家康、秀志がつれだつて、鷹狩に行つているときに、駿府にいた義直が庖疸にかかつたという知らせを聞きまして、家康も秀志もたいへん心配して、鷹狩を中止して帰ってくるんですが、その帰りがけによこした手紙です。家康からも、秀志からも見舞いがきています。庖盾にかかったそうだけれども、もうどんどんよくなつているそうだ、たいへんめでたい、うれしいというようなことを書き送つてきていますね。

朝倉

享保の改革で幕府と対立した尾張徳川家の宗春の書いたものはそうとう残つているんですか。

徳川

有名なのが『温知政要』ですが、それだけではないでしようか。ただ『温知政要』のほかに、だれが書いたかは覚えていませんが、宗春が例によって吉宗の使いに問責を受けまして、それに対して宗春はこう答えたという記録が残っています。

大石

『御話次第三箇条』というんですね。

徳川

あれはなかなか面白いですね。

大石

そうですね。あの中で僕がいちばん面白いと思いましたのは、幕府と尾張とは同格だという主張です。本来両者は同格で、将軍の家来じやないんだといっているんです。それがいつの間にやら変なことになつたからうんぬんというようなことが書いてあります。

徳川

ところが、その問題はわりに早くから、寛永のころからありまして、当時御三家というと、将軍家と、尾張家と、紀州家をいうんだと主張してます。水戸家というのはぜんぜん別格で、これはバイスプレジデントであって、将軍様にくつついている補佐役なんだ。江戸に事あったときは、尾張がかわつて執放言となる。それにさらに事故あったときは紀州がとってかおる。だから格として同じなんだという考え方を唱えている記録があります。たとえば、その当時大名が亡くなりますと、将軍に対して誓詞を差し出すんですね。そうすると将軍さんのほうは、いねば安堵状を出してくるわけでしよう。うちはそういった書類が全くないんですよ。紀州にもありません。おそらく水戸にもないでしよう。ですから、各大名は、将軍家の代かおり、または自分のほうの代かおりごとに黒印状なり、判物なり、あるいは将軍家に向つて誓詞なり差し出しているわけです。ですから、江戸時代尾張を治めた根拠というのは、ご承知のとおりの、秀志が慶長十二年に出した、尾張一国を出し置くという、領知状ですね、あれ以外ないですよ。

大石

あれもほかの大名の領地目録に比べると、ぜんぜん異例ですね。普通は″一国を″というような出し方をしないですからね。

徳川

非常に異例で、禄高も書いてなく、知行状とはちよつといえないんです。仕方がないんで、われわれ領知状と呼んでいます。

朝倉

大きな蕩ですと、加放蕩なんかもそうですが、尾張藩でも、小さな大名みたいなものが、家来に何人かおりますね。

徳川

いちおう一万石以上が大名であるということになりますが、それが将軍に直接仕えていれば諸侯ですし、直接仕えてなければ陪臣になります。陪臣だって大きいのがありますね。加賀の本多さんなんて五万石くらいでしよう。さすが加賀さんですね。五万石といつたら、下手な直参大名そこのけですもの ね。うちの場合犬山の成瀬氏ですね。

朝倉

成瀬氏に関してはなにか書付を出すわけですか、土地を与えるとか。

徳川

成瀬氏の場合はちよつと特殊でして、私、必要あって調べたことがあるんです。元和二年に犬山を正式にもらうんですよ。ところが、本来尾張一国はその九年も前の、慶長十二年に義直に与えられていますから、義直からもらうのが事の順序でしよう。ところが『成瀬家譜』を見ましても、『台徳院殿御実記』を見ましても、秀志が判物を書いて犬山を与えているんです。ほんとうはちよつとおかしいといえばおかしいんです。しかし、そのころはそんなことなんでもないんですね。それがある意味では成瀬氏に対して重味をつけることにもなつたんでしようが、ただ成瀬氏はもともと家康の子飼いの臣でしたから、義直につけられて陪臣となることは、はなはだ心よくなかつたふしもあるようですね。初代のころは覚悟してついたんでしようが、代々成瀬氏は、おれはほかとは違うんだと。

大石

なんかそんな感じですよね。吉宗が将軍になるにあたって、継友との間で争ったときの記録なんか見ても、成瀬の動きはにぶくて彼がいい加減なことをやつたんで、尾張は将軍になれなかつたんだと考えた人が当時かなり多いようです。どうもなんか素直に動けんという感じはあったようですね。

徳川

私も面白い話を、成瀬正俊さんから聞いたんですが、成瀬氏の人がなんとかして自分を別格に扱わせたいというんで、名古屋城のなかで鉄砲を撃つたらしいんですね。これはたいへんなご法度なわけです。それを見ていた家臣が、あるやつが名古屋城のなかで鉄砲を撃つておる、まことにけしからんと成瀬氏に申し出たわけです。そうしたところ、成瀬隼人正が、それはけしからん話だ、この名古屋の城のなかにおいて鉄砲を撃てるのは、上様と私をおいてほかにない、そのほかに撃つたやつがいるというのはけしからんと言つたという話なんですがね。

ただし、尾張の成瀬、紀州の安藤は、水戸の中山はちよつと知りませんが、少なくとも成瀬と安藤は幕府でも扱いが少し違いますね。本来は陪臣は直きの御目見得もありませんし、それから江戸城の奥まで行かれないはずですけれども、成瀬も安藤も御目見得していますし、江戸城中へ入ると、どこか奥のほうまでついていっていますよ。それからなにか事があると、別して御目見得を賜わるというようなことが、しょっちゅう記録に出てきます。

大石

あれは成立上は、普通の藩の家来とは別ですからね。だからそういうことはあるのかもしれませんね。


以下、三田村鳶魚か、矢田捜雲か、幕藩時代のことを記した薀蓄本の中に「将軍様は普通の子供だった」という記事があった。

江戸近在--今で言うと山手線の中の既存集落の百姓の子供が5-6歳の頃、遊びに夢中になって武家屋敷の庭というか、畑のようなところへ迷いこんでしまったそうだ。「あっちへ近づくとお侍さんに斬り殺されることがあるから、近づいてはいけない。」と言われていたにもかかわらずだ。

早く家の方に帰ろうとすると、同じ年くらいの子供がやはり一人遊んでいて「一緒に遊ぼう。」ということになった。話し方も普通の江戸の町人と同じようなものだ。気になって「ひょっとしておぬし将軍様?」と聞くと「そうだ。」と言う。「どうして普通の喋り方をするの?」ときくと「左様で御座有る。なんてのは表座敷に出て大人の前ではやるけど、そうじゃなきゃしゃべらないよ。」ということだそうだ。将軍様の暮らしはどうか聞いたら、大人の侍ばかりで、子供と遊べないのがつまらん、という様なことだった、と記憶する。また出典を調べておこう。

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