測量原図

2015.1.21

測量原図
大正12年9月1日午前11時58分
建築の1930年代
筋かいボート不適当

参考

五千分一東京図測量原図

江戸時代の江戸の地図というのは「切絵図」というものがたくさんある。公共機関ではなく、ゼンリンみたいな民間の地図屋が作ったもので、課税用にはこれとは別に「間口書き上げ」というものがあり、間口幅で固定資産税が決められた。幕末すでに伊能忠敬が作った「大日本沿海輿地全図」は近代的な縮尺、という考えで作られていたが、江戸の町の案内としては「切絵図」が便利だったのだろう。

城の周りを縮尺で描く、ということは軍事機密に属するので死罪だった。伊能図もトップクラスの国家機密だったはずだ。

江戸の町の、縮尺図は
五千分一東京図測量原図
参謀本部陸軍部測量局

が古いのではないだろうか。明治16年測量、とあるものが多いが、明治13年、西郷隆盛が政府に背いて、攻めてくるかもしれない、ということで作業を開始したのではないかと思う。ネットで閲覧できるので、参考にしてほしい。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/index.html



1/5,000だが、結構細かく書かれている。木戸や天水桶まで書き込んである。西郷隆盛が長州閥と事を構えて戦争になるかもしれない、という時代の地図なので、
 ここの天水桶の陰に鉄砲隊を隠しておいて、
 西郷がここまで攻めてきたら撃つ。
というノリだ。

将軍の江戸城以外に、御三家・御三卿といった徳川家各家は山の手に屋敷を構えた。「紀尾井坂」というのは紀州徳川家・尾張徳川家・彦根井伊家の屋敷のあたりを言う。「後楽園」は元は水戸徳川家の庭園を呼んだ。

それ以下の大名は現在の丸の内に「大名小路」というものがあり、各藩の公邸が並んでいた。明治維新の後に岩崎弥太郎が大名小路を二束三文に譲り受けたのが、現在のオフィス街の始まり。

有力な藩では大名小路の公邸だけでなく、各所に中屋敷・下屋敷を構えていた。現在の都心の公園はほとんどが幕藩時代の大名屋敷の跡と考えてよい。港区青山は篠山藩青山家の屋敷のあったところ。

番町は幕府の直参・旗本の中で、上位のものが住んでいたところ。各藩では国許に家族を置いて、単身赴任というのが基本型なので、教科書p53に見るような、大名屋敷の周りの、囲いのような「長屋」に住んでいた.

麹町区番町あたりは直参の旗本が住んでいたあたりだが、幕府からは「給米」が出るが、その他の生活必需品は給米を売って、買うか、自分で作るしかない。野菜は自給自足で、桑を植えて絹糸を作る、という人もいただろう。とはいえそれほどの面積はないから、ここで試して、在所の領民を指導する、といったものだったかもしれない。

明治政府は失業した旗本の救済策として「桑と茶を作って、絹と緑茶を輸出しよう。」という政策をとったが、こうした番町の街並みの様子が発想の元だろう。当然ながら限られた屋敷では生計を立てることができず、牧之原・新所原のような開拓が始まった。

駿河・遠江・三河は徳川家の在所なので、旗本領も多かった。

一つ問題があるのは、このインデックスがやたらに使いにくいことだ。測量原図には「第2号第3小測板」のように、図面名称の他に番号があるのだが、これを無視して通し番号を振ってある。しかもインデックスではそれが順不同に並んでいる。しかも全体の配列が記してない。どこぞの大学の、お出入りの「ホームページ業者」が、素人を使ってデタラメに作ったものだろう。

仕方がないからここにインデックスを作り直しておくので、ここから見るように。麹町区番町はno.30, no.20となる。(どうもpc専用らしく、パッド・ケータイでは繋がらない。)

28 26 15 13 03 04
29 27 16 14 02 05
32 30 20 17 08 06
33 31 21 18 09 07
36 34 24 22 11 10
01 35 25 23 12


01 東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下渋谷村近傍
13 東京府武蔵国本郷区本郷元富士町近傍
14 東京府武蔵国神田区駿河台及本郷区湯嶋近傍
15 東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍
16 東京府武蔵国麹町区飯田町及小石川区小石川町
17 東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍
18 東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍
19 東京府武蔵国麹町区宝田町近傍
20 東京府武蔵国麹町区代官町及一番町近傍
21 東京府武蔵国麹町皇城及永田町近傍
25 東京府武蔵国芝区芝公園地近
26 東京府武蔵国小石川区小日向水道町近傍傍
27 東京府武蔵国牛込区神楽町近傍
28 東京府武蔵国北豊嶋郡高田村近傍
29 東京府武蔵国牛込区牛込喜久井町近傍
30 東京府武蔵国麹町区番町近傍
31 東京府武蔵国麹町区紀尾井町及赤坂区田町近傍
32 東京府武蔵国四谷区四谷伝馬町近傍
34 東京府武蔵国麻布区市兵衛町近傍図
35 東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍
36 東京府武蔵国赤坂区青山南町近傍
02 東京府武蔵国神田区佐久間町及下谷区仲御徒町近傍図
03 東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近傍
04 東京府武蔵国浅草区浅草公園地及松清町近傍
05 東京府武蔵国浅草区須賀町及本所区横網町近傍
06 東京府武蔵国日本橋区濱町及本所区相生町深川区常磐町近傍
07 東京府武蔵国日本橋区蛎殻町及深川区佐賀町西大工町近傍図
08 東京府武蔵国日本橋区大伝馬町及神田区紺屋町近傍
09 東京府武蔵国日本橋区兜町及京橋区本八丁堀近傍
10 東京府武蔵国深川区越中嶋及京橋区石川島
11 東京府武蔵国京橋区新湊町近傍
12 東京府武蔵国隅田河口浅洲
22 東京府武蔵国京橋区本挽町近傍
23 東京府武蔵国芝区芝濱崎町近傍
24東京府武蔵国芝区南佐久間町及愛宕町近傍
25 東京府武蔵国芝区芝公園地近傍
33 東京府武蔵国赤坂区青山北町近傍


おさんぽ

明治時代の地図を頼りに東京の街を散歩してみるのも面白い。渋谷駅から山手通りを表参道まで行ってみる。大塚から白山まで歩き、ついでに日本橋まで行くなど。「江戸名所図会」という江戸時代の名所案内があるので、これも参考になる。


江戸東京博物館

「江戸へ出府したら、」是非江戸東京博物館へ行ってみよう。総武線両国駅を出て、線路沿いの通路を歩いた国技館の向こうだ。御江戸日本橋の実物大模型(半分だけ)、江戸時代の芝居小屋、鹿鳴館、昭和20年代の新宿の闇市などの模型があって見やすい。土産物も売っているぞ。

両国編には江戸時代からやってマス。という店も多い。土手を下ると松尾芭蕉の書斎も復元されている。


参考になりそうな本

江戸東京学への招待1-3
小木新造・陣内秀信 編
NHKブックス 1995

明治維新期を都市民はどう生きたか
東京都江戸東京博物館 編
東京都江戸東京博物館 1997
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/about/publish/index.html

銀座煉瓦街の建設
都史紀要3
東京都 昭和30年

明治初年の武家地処理問題
都市紀要13
東京都 昭和40年

江戸住宅事情
都史紀要34
東京都 平成2年

http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0604t_kiyo.htm


読みやすい新聞の連載

新版江戸から東京へ1-9
矢田挿雲
報知新聞 大正9年-
中公文庫 1998

戊辰物語
東京日日新聞 昭和3年-
岩波文庫 1983


通り油町のやっちゃん

父親は神田お玉が池千葉道場の使い手、釜石鉱山の技師と結婚するが、愛想をつかして離婚し「女人芸術」を始めたオネーサン、 チャキチャキの江戸っ子であるやっちゃんの自伝的読み物。ネットでも読める。

旧聞日本橋
長谷川時雨
女人芸術 昭和3年-
岩波文庫 1983
青空文庫
https://www.facebook.com/odemmacho3/posts/337721522922691


三田村鳶魚全集

矢田挿雲とともに江戸・明治の薀蓄本の真打ち。Wikiに全集の項目出しがあるので、興味のある人は掘ってみると良い。


結婚できるのは3割

江戸時代には今で言う「会社員」にあたるものは「奉公人」と呼ばれていた。近代的な「会社」がないだけで、奉公人の暮らしは今と大して変わらないようだ。商店では売り場の畳の上に布団を敷いて寝ていた。

江戸の人口の男女比を見ると元禄の頃(17世紀末)には8:2ぐらいだったものが、文化文政期(18世紀初め)には6:4ぐらいになっていたようだ。

町人でも身代のあるものの長男は結婚出来るが、二・三男と貧乏人は結婚出来なかった。町人で結婚するものは3割くらいだったようだ。

裏長屋の人気者花ちゃんの腹がせり出してきて、玉のような男の子が生まれた。長屋は大騒ぎ。独身者全員が「俺が父親だ。」と主張して譲らない。仕方がないので大家さんが仲裁に入る。

 これこれ、そんなにして赤ん坊を引っ張ったら、
 ちぎれてしまうじゃないか。
 私に見せないい。
 ふーむ、成る程、確かに頭の形は弥平にそっくりじゃ。
 しかし目の周りは貫太ゆずりだな。
 口は長助に瓜二つじゃ。
 どうじゃな、
 ここはひとつ皆の共同作品ということで、
 長屋の男衆全員が父親ということにして可愛がっては。

好きな女が出来ても「所帯を持つ」つまり結婚出来ないとなると、隅田川へ身投げをして心中ということになる。うまく成功すれば良いが、失敗すると日本橋のたもとでさらし者になったり、死罪だったりする。死罪にならずとも、晩方起きて朝方寝る、という不健康な生活をしてアル中の多かった吉原の遊女の平均寿命は20歳ぐらい、という説もある。

奉公人ではなく、大家の跡取り息子は教育にしくじると「与太郎」となる。世間を知らず、苦労を知らないので、遊び呆けて、親が死ぬと家産を食いつぶして、乞食になって死ぬるのだ。まあそれも楽といえば楽。そんな江戸時代の暮らしは落語にたくさんある。


浮世絵

19世紀のヨーロッパ人が腰を抜かさんばかりに驚いたのは「浮世絵」だった。当時のヨーロッパでは、印刷というものは黒一色で、浮世絵のように、時によっては20版30版という色版を重ねる技術は思いもよらなかった。

何故かというに日本には職人の技術を尊敬する、という伝統があり、浮世絵といっても「蔦屋」の葉な「版元=出版社」のもとに「版下の神様」「彫り師の神様」「摺師の神様」というように、職人の神様が協力して一枚の浮世絵を仕上げるのだった。

欧米のアニメーションは一人の神様が全てを指示して作られるので、ウォルト・ディズニーが死ぬと、ディズニーではまともなアニメーションが作れず、スタジオ・ジブリの作品を買ってきて売るしか手がないのだ。

近代科学も蒸気機関車のように、一人の「神様」が全てを設計してできる間は良いが、複雑になりすぎるとそれでは間に合わず、様々な問題が出てきている。この時代の面白い作者

河鍋暁斎

幕府瓦解の際に狩野宗家から「狩野派を頼む。」と言われた鬼才。Josiah Conderが入門して「河鍋暁英」の画号を貰う。 明治政府に嫌気が差してポンチ絵に転じ、度々投獄される。


黒い服を着て髭を生やしたのは政府の官員さん。操縦している猫は吉原の芸者。

小林清親

蔵前の御家人の出。県立美術館には沢山あるようだ。戊辰戦争で難民となった徳川幕府の旗本が、駿府に蟄居した徳川慶喜の後を追って静岡へ逃げてきたときに、持ってきたものもあるだろう。清親自身が戊辰戦争で失業した時には、新居の関所でアルバイトをしていたそうだ。

慶応大学デジタルギャラリー
http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/ukiyoe_artist_title.php?id=018

県立美術館
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/_archive/collection/item/P_76_721_J.html

たばこワールド http://www.jti.co.jp/tobacco-world/journal/chronicle/2013/05/02.html

川瀬巴水

明治16年生まれと少し後の人だが、新橋生まれの江戸っ子。「新版画」と称して、浮世絵の技術を再興した。関東大震災に打ちのめされ、震災前の風景を東京はじめ日本各地に求めている。江戸東京博物館にも収蔵品多し。
http://www.hangasw.com

測量原図
大正12年9月1日午前11時58分
建築の1930年代
筋かいボート不適当

町並みの歴史