ピーターラビットと
機関車トーマス

2014.9.1

交通と近代都市
ピーターラビットと
機関車トーマス

職人の腕
田園都市
郊外分譲地
Archigram

Windermere, 1847

19世紀のヨーロッパ、我国でも20世紀に入って住宅地の姿は大きく変わりました。 そもそもの始まりである化石燃料の使用とともに 英国でも「ピーターラビット族」と「機関車トーマス族」が火花を散らしたのがこの時代です。

戦いの舞台の一つが遠くロンドンを離れた北イングランドの湖水地方でした。











湖水地方にはウィリアム・モリス(教科書p157)等が繰り広げていたア−トアンドクラフト運動の師匠であるジョン・ラスキンが、1872年から1900年に亡くなるまで住んでいました。ラスキン、ポッタ−等「自然派」が湖水地方に親しむきっかけを作ったのは、同地に生れ同地で1850年に没した「詩聖」ワ−ズワスであった事と思われます。ロンドン近郊で1866年に生れたベアトリックス・ポッターは1905年に湖水地方に移り住み、ここでピ−タ−ラビットのお話を書き続けます。ベアトリックスの死後その資産と、彼女の遺言に沿って周辺の環境を守るために始められたのが、現在のナショナルトラストです。

さて19世紀前半に一大ブームと化した鉄道建設熱は湖水地方にも及び、1847年、スコットランドへ向かう北部鉄道本線から湖水地方の中心であるウィンダミア湖までの支線が開通しました。例により例の通りの開発派と自然派との綱引きがあり、当初湖岸のボウネスまでの予定が、山の中腹までなら許そう、という事で折り合いがついたのが現在のウィンダミア駅です。

かくして湖水地方は一部の自然愛好家のものから一般大衆の自然観光のメッカと化し、現代人の我々も鉄道によって、さらに現代では高速道路とレンタカーのおかげでいと簡単にワ−ズワスの愛でた「山紫水明所」の風景を楽しむ事が出来ます。地下の「詩聖」もさぞ迷惑していることでしょう。





ウィンダミア駅の観光案内所で紹介してもらった民宿。英国内だけでなく、日・米・カナダ・シンガポールと世界中からピーターラビット目当ての若い女性が押し寄せている様です。

外部同様室内も少女好みの内装で、ピンクのレ−ス付きのベッドでは親爺連は落ち着きませんでした。ここでの発見は「まるもじ」というのは日本だけかと思ったら、宿帳に世界中の娘共が書き込んだ字が「まるもじ」なのでありました。「ツバメ号とアマゾン号」シリーズの作者アーサー・ランサムも、ここで毎年夏を過ごしました。








左は知る人ぞ知る
「アマゾン海賊のボート小屋」

アーサー・ランサム
「ツバメ号とアマゾン号」他
岩波書店





John Ruskin の隠居屋、BrantWood。



古代には殆どが森だったといわれる英国の気候は、木を切った後に羊・山羊を放しておくと、 こいつらが葉という葉を食べてしまうので、後に残るのは地上数mmという芝だけになり、 ゴルフ場のような景色が出来るのだそうです。





生態学の宮脇昭さんによれば生態学的には荒れ地とほとんど変らない、最も荒涼とした植生なのだそうですが、 実はロンドンから湖水地帯までの鉄道沿い、高速沿いでは町をはずれると、日本人の目には「ゴルフ場の景色」 と見えるこの景観がどこまでも続いています。

こうした「ゴルフ場の景観」に数百年に渡って営々と石垣を積み、土地所有権を主張し、羊と牛を飼って 暮らして来た湖水地方なのですが、WTOで農産物価格が下がり、2000年にはs狂牛病がこれに追い討ちを掛けて、 地域の農業は殆ど瀕死状態です。







コニストンの民宿で朝食に「ハムとチーズ」と頼んだら、出て来たのは渋団扇程のボンレスハムが2枚と、日本で6ポ−ションと称する丸いのを6つに切った6切れ程が一切れと言うチーズでした。「農産物価格低下に抗議中」の構えなのですね。「これは儲け。」と食べはじめたのですが、とても食べきれる量ではありません。3/4程は残して昼飯にしました。







若者は仕方なく都市部に仕事を求め、のろのろと走っては道ばたに停まる観光客の車を呪いつつ、幅 4.8m 程の田舎道を通勤車でぶっ飛ばすのでアリマス。



ピーターラビットと機関車トーマスが湖水地方で立ち回りを始めるより少し前の1841年には、ロンドンからブリストルに達するグレ−ト・ウェスタン鉄道が開通しました。始発のパディントン駅のホームには当時のイメ−ジを活かした鉄骨の屋根が整備されています。

ちなみにクリスタルパレス
http://www.iath.virginia.edu/london/model/animation.html
は1851年の万博のメインパヴィリオン。



パディントン駅を出てすぐに始まる工業地帯は、19世紀の建築、町並みが近代産業を支えていた様子が伺われました。巨大な工場のてっぺんにとりつけられた時計が、それまで「日の出から日の入りまで」と、自然の摂理に従っていた生活が、産業の側の都合で動くようになった時代を象徴しています。









ブリストルは小説「宝島」に描かれた通り、「奴隷、綿花、ワイン、煙草と、悪い事は何でもやって大きくなった街。(汽車の向いの席に座った鉄工場の社長談)」だそうです。

ゴシック建築の長老からは「土木屋の考えた、金を掛けただけでこけおどしの、、、」と評されるテンプルミ−ド駅はグレ−ト・ウェスタン鉄道全体の企画・設計を手掛けたI.K.ブルネルの手掛けたものでが、某市某大学前の結婚式場紹介会社が建てた教会、なぜか姿がよく似ています。

ブルネルは鉄道でロンドンとブリストルを結ぶだけでなく、蒸気機関による巨船での大西洋横断事業にも乗り出しました。最初1838年に就航したグレ−トウェスタン号では好成績をおさめましたが、その後グレ−トブリテン号が造られ、

さらにインド航路に向けて建造されたグレ−トイ−スタン号は12,000トンと、当時の技術からすれば限界を超えていました。さらにブリストル自体がエイボン川を河口から10km程さかのぼったところにあって、我が国の千石船を外洋型にした程度の、帆船の時代には良港であったものの、川の泥と潮汐が大形汽船には適さず、事故を重ねた後、リバプールなど外洋に面した港町にとって代わられる、という歴史を辿りました。







機関車ト−マスの作者であるウィルバート・オ−ドリィ師は子供の頃、ブリストルの手前に当たるコッツウォルズで育ったとのことですが、このあたり、エイボン川とテムズ川を川船でつなぐ、近代以前の物流ル−トに当たる様です。中心地のチッペナムも川船の船着き場を中心にしています。

今でこそひなびた丘陵地帯として観光客を集めていますが、当時はロンドンと海外をつなぐ主要交易ル−トであったわけで、人々の暮しもそうした川筋の「川稼ぎ」が大きな比重を占めていた事でしょう。そうしたところへロ−マ時代の水道橋をしのぐ巨大な鉄道施設が姿を現しました。

おそらく川筋の人々の嗅覚は鉄道という新しい交通機関の可能性について、敏感・的確に感じ取ったものがあるはずです。オ−ドリィ師の子供時代の鉄道への憧れはそうした地域の人々の感覚を反映しているのではないでしょうか。

東海道浜松宿の旦那衆は東海道鉄道の可能性に期待し、国会に強訴をしてまで鉄道院工場を浜松に誘致して、その後の繊維・楽器・自動車といった近代産業につなげてゆきましたが、コッツウォルズは逆に河川舟運の中継ぎ基地から、単なる山間地の田舎町へと逆コ−スを辿りました。この地域にとって機関車ト−マスの時代は河川舟運の繁栄と先端技術が出会った「古き良き時代」とも言えます。

2014.9.1

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ピーターラビットと
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