帝国の近代建築

2016.1.18

マンション?

帝国の近代建築

幕末の軍事技術から



教科書p191-にある通り、幕末、西洋の文物を取り入れるのは軍事技術が中心だった。伊豆の代官江川太郎左衛門は、韮山に反射炉を作って大砲の鋳造を進めた。薩摩藩でも同様に大砲を作るためには工場と発電所がいる、という順序で石造建築が作られ、現在はそれが「尚古集成館」と呼ばれている。

1854年、安政の津波で破損したロシア戦艦ディアナ号に代えて、戸田港で作られたスクーナー・ヘダ号は、近代造船技術を伊豆にもたらし「君沢型」と呼ばれる西洋型帆船が、東海道鉄道開通まで、東海道の物流近代化に大きな役割を果たした。

当時のロシアはフランスと戦争をしており、ディアナでは下田港に入港したフランス軍艦を襲撃して故国に帰ろうという企てもあったようだ。

明治維新と共に日本人は、急速に文明開化を進めた。この頃の建物に磐田市の見付学校がある。地元(この場合は名古屋)の大工が浮世絵などで西洋建築を見て、手持ちの技術で作ったものだ。県内で保存の良いものには松崎町の岩科学校がある。



文明開化の教科書

明治政府は明治4−5年に、特命全権大使岩倉具視を筆頭に明治新政府首脳と随員を欧米に派遣した。その記録「米欧回覧実記」は文明開化の教科書として、急速に欧米事情が広がった。

文明化を進めるために、大工の西洋建築ではなく、本格的な西洋建築を取り入れるのに、外国人が政府に雇われた。日本人建築家を育てる上で大きな役割を果たしたのは、明治10年工部大學校造家學科初代教授に就任したJosiah Conderだった。

コンドル先生は日本が好きで、日本画の修行をし、師匠の河鍋暁斎から「川鍋暁英」の画号を授かっている。



コンドル先生の弟子達は明治20年代になると、次々に国家的建築を設計した。袋井市の可睡斎にある護国塔は、明治40年に中国・印度を視察した伊東忠太が設計し、明治44年に日露戦争犠牲者の慰霊塔として竣工している。

帝国の国権伸長

1868年に明治維新によって徳川幕府が滅びると「このままでは朝鮮国はロシアに獲られる。」と、1876年には朝鮮国の清国への事大の礼を咎めて日朝修好条規を結ばせ、1895年日清戦争となった。日本が勝つと清国は「伝染病の巣なんかイラネーヨ。」と台湾を日本へ割譲。現地住民はツンボ桟敷だ。

朝鮮国は独立国となり大韓帝国となったが「大韓帝国は独立国」というのは清国に対してのことで、伊藤博文が軍刀を差したまま大韓帝国皇帝を脅して、1910年に日本が併合してしまった。

従軍慰安婦がどーたらいう話もあるが、植民地が住民福祉のために作られたか、植民地の富を宗主国へ送るために作られたかが、根本問題だ。

当時西洋諸帝国は東アジアを自国の植民地にしよううと、しのぎを削っておった。日本も一つ間違えば西洋列強の植民地になるところだったが、そうならなかったのは東の果ての島国、という地理的優位もあるが、マラヤ・ヴェトナム・台湾・中国といった地域の住民が列強に抵抗を続け、日本まで手が回らなかった、ということもあるだろう。

日本の植民地統治が欧米のそれと違うところは、スペインがカリブ海で行ったように、原住民を皆殺しにして、アフリカ大陸から黒人を奴隷として連れてくる、といったものではなく「オレとオマエとどっちが偉い?」という、究極のイジメ、という性格が強いのではないだろうか。

台湾と日本

その昔、台湾は中国大陸から見れば「伝染病の巣」みたいなところで、マレー系の原住民は、伝染病の危険が少なく、暑くないために暮らしやすい山岳地帯から降りてこずに、狩猟生活をしていた。

1644年に明が蒙古族の清に滅ぼされた時、遺臣の鄭芝龍は長崎県平戸に難を逃れ、田川氏の娘マツと結ばれて一子福松を設けた。福松はのちに台湾へ渡って鄭成功と名乗り、漢民族による政権を樹立し、オランダ人を追い払った。

鄭成功は平戸の田川氏を頼って、徳川幕府に明国救援を願ったが、幕府は「とてもそんな余裕はない。」とこれを断った。秀吉の例に学んで、対外戦争は亡国につながる、と考えていたのかもしれない。鄭成功の事績は18世紀初めに近松門左衛門によって「国姓爺合戦」と題した歌舞伎になり、人気を博した。南伊豆町はじめ全国に残る「虎舞」はその頃のものだ。

日清戦争の後に清国が台湾を日本に割譲すると「猫の子じゃあるまいし「ホレ、やるよ。」では住民はたまったもんでは無い。」というわけで、清国からも日本からも独立の「台湾民主国」を作る動きもあったが、最新兵器を駆使した日本軍にやられてしまった。清国から派遣されていた唐景崧が「これはかなわん。」と逃げてしまったのもまずかった。

朝鮮半島と日本

長江下流域からは8,000年以上前の栽培種の稲の化石が出ているそうだ。小麦を主食とする文明は、灌漑に頼り、2,000-3,000年で砂漠と化してしまうが、稲作に適した気候は降水量が多いので、世界四大文明の中で、現在に至るまで変わらずに農業が続いているのは中国だけだ。

朝鮮半島では、そうした中国文化を早くから取り入れてきた。中国文明を正しく継承する、という意味で「中華思想」に対し「小華思想」とも呼ばれる。

古墳時代には日本から米を朝鮮半島へ輸出して、中国から朝鮮半島経由で先進技術・文化品を輸入したこともあったようだ。しかし朝鮮半島は地続きという条件から、今でいうバルカン半島のように紛争が絶えず、住民は苦労が絶えなかった。

1592-1597年には豊臣秀吉が「仮道入明」という名目で朝鮮半島へ攻め込んだ。「明を征服するので、ちょっと道を借りますよ。」という意味だ。今から見ると痴呆症老人が国を動かしてしまったような気もする。すでに1644年に明が清に滅ぼされており、出かけていれば蒙古族の返り討ちにあうところだっただろう。

台湾と韓国の近代建築

台湾ではそれまで淡水河のほとりの港町で、艋舺(まんか)と呼ばれていたところに、清国が1875年に「台北府」を置いて統治していたが、日本はここに総督府をおいて大規模な都市建設を行った。



すでに清朝末期には、各地との交易を通じて西洋の文物に親しむ人もおり、洋風建築が立ち並ぶ街角もあった。そうした艋舺周辺の旧市街とは離れたところに、日本は総督府を中心とした新市街地を建設した。



総督府などの国家建築には「国家の威信』を形にしたものとしての、力作が多い。

朝鮮総督府は景福宮前面に建てられたが、その配置が、いかにも日本による侵略を象徴するようなので、後に除かれてしまった。朝鮮総督府の手前にあった、景福宮の正門である光化門は、総督府完成後に破却される予定であったが、柳宗悦などの訴えが実を結んで保存された。





総督官邸のような国家建築だけでなく、製糖会社など重要産業施設では、日本国内でも珍しかった洋風住宅も作られている。建築だけでなく、鉄道・道路・上下水道などの都市インフラ整備でも、先端技術がどんどん採用された。李登輝元総統によれば「国家の威信のために、良いところを見せた」のだ。

台北も京城も古くは城壁で囲まれていたところが日本の都市とは違い、ヨーロッパの都市と似ている。市街地では中国の四合院に似たコートハウスが見られたが、艋舺のような商業地では中層建築が主流となっていった。



雨が多く晴れれば日差しの強い台北では、亭仔脚(てぃんあかー)と呼ばれるアーケードが発達した。バス停の近くの亭仔脚には男子高校生・女子高校生がそれぞれの好みの店舗の前にたむろしていたりする。



台湾の気候は石造建築物の発達したヨーロッパとは違うので、空き家となって手入れをしないと、たちまちお化け屋敷のように草が生えてくる。東山彰良の「流」も、そんな街角が舞台だろう。





現在の台湾で、都市近郊の住宅開発を行う時に、低層戸建て住宅ではなく、中高層の集合住宅が中心となるのは、城壁のあった時代の「都市住宅」のイメージを継承しているのではないだろうか。田んぼの中に突然高密度のマンション群が現れるのは、日本では見かけない景色だ。

台湾では日本による併合の後で、日本に習って文明開化を進める人々もいた。鹿港にはその時代に辜顕栄が建てた邸宅が残されている。
鹿港民俗文物館
http://www.lukangarts.org.tw/about/index.php?lang=jp



大韓民国国立現代美術館
http://www.mmca.go.kr/jpn/



朝鮮半島でも朝鮮国末期からは日本の文明開化に習おう、という若者が様々な近代化を試みていた。西大門にある「独立門」は、そうした頃に新聞を発行して近代化を進めた徐載弼が、パリの凱旋門に習って建てたものだ。

日本政府は併合後近代化を強力に推し進めた。その中で辰野葛西建築事務所京城支所長の中村與資平は、浜松市東区天王町の生まれであり、韓国でも多くの建物を設計している。現在見ることのできるものに徳寿宮美術館、天道教中央大教堂などがある。



台湾では建築だけでなく、新しい農業土木技術を取り入れて、それまで開発の進んでいなかった地域で農業開発が進められた。台湾精糖の初代社長が、遠州森町でコンペイトウを作っていて、横浜へ出て緑茶の輸出で成功した鈴木藤三郎という人なので、そうした人脈もある。

台湾では八田與一が指揮した嘉南大圳と呼ばれる農業用水事業が有名だが、袋井市山梨出身の鳥居信平は屏東県で農業用水利事業に携わり、出身地には台湾から送られた銅像が飾られている。南極観測隊に参加、越冬隊長も務めた鳥居鉄也のお父さんに当たる。

日本植民地建築論
西澤泰彦
名古屋大学出版会 2008

2017年の台湾旅行
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/urbanism/ur17/taiwan/seaside/index.html

2009年のソウル旅行
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/urbanism/ur09/seoul09/index.html

1996年の台湾旅行
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/tw96/index.html#pagetop

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