2015.5.28


1971年4月初めのある日、新学期で東京へ出掛ける前に、ふと中心市街地の写真を撮っておこうと思い立った。

東京は疲れる。目の前のことに振り回されて「東京の全体像」というのが見えなかったのだ。アルバイトで丹下健三先生の都市建築研究所などへ行ったのも面白かった。そこで振り分けられたのが、建築ではなくアーバンデザインのセクションだったので、色々と面白いことを見聞した。

バイト学生には歌舞伎役者の御曹司、なんてのもいた。ああいう人が今回の新歌舞伎座の設計などでも活躍するのだろう。結論は私はビッグプロジェクトには向いていない、田舎へ帰って住宅の設計をしよう、というものだった。

華やかに見えるアーバンデザインの仕事に比べると、プランニングの仕事は難しそうに見えた。中村宏の「都市計画」というタブローも、都市計画が高度に政治的な課題であり、民主主義の元で政治が開かれたものでなければ、都市計画も「訳が解らん」と言うイメージを表現している。

 巨大都市東京の計画論
 川上秀光 1990

を読んでみても、

  • 1964オリンピックの後の東京は、すでに核分裂の段階から核融合の段階に突入し、常に燃料を補給し続ければ爆発を起こすが、燃料を遮断すれば炉心溶融を引き起こす。
という悲壮な結論が読み取れた。

そうしたメインストリームの「都市計画」よりも、内田雄造さんの「抵抗の都市計画運動」というキャッチフレーズの方が肌に合っていた。行政主導の「都市計画」よりも、住民主体の「まちづくり」が都市の生命だと思える。

ソウルでお会いしたことがある康炳基先生が、奇跡の近代化を支えた都市計画から、晩年は「마을 만들기=まちづくり」に転じたとうかがっても、私には韓国語が解らないのが残念。

そうした東京に比べ、休暇で浜松へ帰ってくると、おぼろげながら町の全体像がつかめるような気がしたのだ。その時斜めから撮った写真を加工して、立面図風にしてある。44年前のストリートビューだ。44年後の現在「町のわくわく感」は変わっているのだろうか。

中心商店街---画面をスワイプ

ヤマハから靜銀浜松市店までの原図
01.jpg- 18.jpg


1951から1997までをm4vで


おてんしから北
おてんしから南

作佐山
40年前