街道と宿場

2015.11.3

遠州の街道
遠州の宿場町
駿州の宿場町
姫街道など
参州の宿場町など
白須賀宿の町屋



遠州の街道

東海道五十三次というが、静岡県下には22宿があって最も多い。その中でも遠州地方には9宿がある。浜名湖は古代から東海道の難所の一つで、箱根が「山の関所」であるのに対し「海の関所」としての守りを固めていた。

もう一つ遠州地方で重要なのは、信州街道だろう。豊川稲荷と秋葉山は江戸時代に全国からの参詣客を集めた。伊那谷側から言うと、山の険しい天龍路より、豊川に下る三州街道が主要な街道だったようだが、天竜川にも秋葉山があり、重要なルートだった。



秋葉山は火の神・火防の神として全国の尊崇を集めている。江戸の秋葉原は大火の後で作られた空き地雨に秋葉大明神が祀られたところから付いた地名だ。

遠州秋葉山は、海の難所である遠州灘を乗り切るための灯明台として、船方衆の頼みの綱であり、掛塚湊・福田湊から、秋葉山に至る道は江戸時代の海運業にとって重要な参詣ルートだった。

浜名湖の北を通る姫街道は平安時代、あるいはさらに古代からの東海道の一つと考えられるが、気賀宿から浜松へ向かわず、掛川に通ずる現在の県道40号線も、古代からの街道の一つだろう。

東海道五十三次は、参覲交代によって外様大名をシェイクダウンするところなので、手形を持たない町人が迷い込んだら、丸裸にされてしまう。手形を持たない者が東西へ行き来するためには、「参詣」と称して「脇往還」を通った。

江戸時代にはこれと同時に年貢を江戸へ送る「江戸廻米」が重要な物流であり、掛塚・相良からは米とともに茶などの特産品も関東へ送られた。

江戸時代というのは「レジャー」というのが許されなかった時代なので、それに代えて人々は神社仏閣への「参詣」というものを盛んに行った。そうした人々は街道往来の手形を持たないので、脇往還をとることが多かっただろう。江戸時代の神社仏閣には、今でいうテーマパークみたいな趣がある。そうした神社仏閣は脇往還にあることが多い。




浜名湖北岸には大福寺・摩訶耶寺といった平安時代からの豪族の発願による寺がある。方広寺も南北朝時代に一大勢力となった。

方広寺においでの奥山半僧坊大権現はなんとペルシャ人だったのだ。



袋井近郊にある油山寺・可睡斎・法多山も江戸時代以来人々の尊崇するところだ。可睡斎は秋葉山の別院としても栄えた。 油山寺には旧掛川城表門、旧横須賀藩白書院が移設されている。江戸時代の「役所」の建物として、掛川城二の丸御殿とともに旧状をよく伝えている。



宮口庚申寺は特定の神仏に析るものではなく、「庚申待」といって庚申の夜、体内の三尸(さんし)の虫が悪業を天帝に告げ口しないよう、ただ寝ないで過ごすという特異な宗教行為のための寺だそうな。

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街並みの歴史