相良湊
東遠地方を代表する江戸時代の湊は相良湊だ。安永元(1772)年田沼意次公は老中となり、相良藩を領国とした。意次公に「器でない。」と反対されて、将軍になれなかった田安家のオボッチャマン松平定信はこれを根に持ち、意次公に「賄賂の家元」という汚名をかぶせて追いおとすが、意次公が今でいう「民活路線」を大胆に導入しなければ、徳川幕府はこの時点で倒産していたかもしれない。
意次公入国によって相良湊は、掛川藩はじめ東遠の年貢を江戸へ送る中心地となった。「森のお茶」が有名になったのも、この物流経路だ。飯津佐和神社のお船神事は、文化文政期の相良の賑わいを伝えている。
相良城は石垣を海水が洗う、という海に面した城だ。伊達藩が寄進したという「仙台河岸」が残されている。伊達藩は慶長年間メキシコ経由でローマまで使節を送っており、海外情報も豊富だったようだ。事によると意次公は国内における「民活導入」だけでなく、伊達と組んで、メキシコ銀を輸入しようとしたのかもしれない。
この時代に培われたロジスティックスのセンスは、文明開化の時代にも緑茶の輸出、油田開発など、様々な形で試みられた。
明治22年の東海道鉄道開通と共に、内国海運の優位性は失われたが、現在では御前崎がSUZUKIの輸出基地として利用されている。
焼津港
焼津港は日本を代表する漁港だが、その成り立ちには様々な要素が重なっている。図は明治23年東海道鉄道開通時のものだが、海に沿った旧街道沿いに江戸時代から続く町並みが並び、田んぼの中に駅が作られたことが見て取れる。
町並みの裏側には黒石川が海と平行し、街道に面した表側が店、黒石川に面した裏側が荷揚場など、流通業務のために使われていたことが考えられる。志太平野の江戸廻米を江尻へ積み出す流通基地だったようだ。
明治13年には鰯ケ島から図左下の小川本村に向かう新道が完成し、洪水の度に水浸しとなっていた小川新地の開発が進められた。
図の下側に見えるのが木屋川河口の小川港で、江戸時代には鯵・鯖などの地先漁業で栄えていた。明治末までには発動機船が発達し、それまでの地先漁業から、伊豆七島への鰹・鮪漁が始まり、大正から昭和の初めにはさらに東方・南方へと漁場が広がっていった。
第二次大戦後、遠洋漁船の大型化と、冷蔵車による鉄道輸送が進み、関東・関西の消費地へ東海道本線が直通する、という立地の優位性とともに、焼津を日本最大の遠洋漁業基地へと発展させた。昭和29年には焼津駅に「魚類専用ホーム」が出来たそうだ。
その後の遠洋漁業は、漁場の立地する国でのインフラ整備が進み、高級魚は現地から冷蔵空輸、大衆魚は冷凍輸送で消費地まで運ばれ、漁船が焼津港まで運ぶ、という扱い量は低下している。
奈良時代の志太平野は、大雨のたびに多い川が流れを変える「志太浦」で、東海道は牧之原台地の東端にあった初倉駅から小川駅まで船で、そこから駿河国府へも再び船で渡らなければならなかった時代もあるようだ。
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