姫街道など

2015.11.3

遠州の街道
遠州の宿場町
駿州の宿場町
姫街道など
参州の宿場町など
白須賀宿の町屋

三ケ日宿

強大な国家権力の完成する前の古墳時代には、天竜川などの大河川は危険で、現在の東海道沿線よりも浜名湖の北岸を通る姫街道の方が、開発の中心だったことが、神社仏閣など文化施設の配置から想像できる。

三ケ日も古代からの東海道であった本坂通しの宿場だったが、さらに重要なのは甕割峠を越えて信州に通じ、浜名湖を通じた海運が利用できた点だろう。「三ケ日四つ角」がその結節点となる。 宿の北のはずれには神服部が伊勢神宮に絹布を納める浜名惣社神明宮がある。本殿は他の神社には類のない井籠造。

信州街道を登ると摩訶耶寺・大福寺など、平安時代からの寺院が見られる。

東に進むと、古代の「引佐峠」が保存されている。


気賀宿



「氣賀」と書いて「けが」と読むのが地元の古式だそうだ。

現在「気賀四ツ角」と呼ばれる交差点に関所があったそうだ。小学校が江戸時代の役所の跡で、そこから関所に降りる路地が残されているが、この30年ほどで風情が変わってしまった。

気賀四ツ角も三ケ日四ツ角」と同じく平安時代の姫街道と船着場から丘陵地帯に向かう道の交差点だ。少し東に都田側と神宮寺側の落合-合流点がある。都田側沿いの中川村には条里制の水田区画が確認されている。井伊谷とともに静岡県の稲作先進地だったのだろう。井伊谷も飯谷かもしれない。井伊谷本来の鎮守は渭伊神社であって、神社の古式を残すパワースポットだ。埋蔵遺物は4世紀に遡るという。

龍潭寺は井伊家の菩提寺であったが、幕末安政の大獄で井伊直弼が恨みをかうと、明治に入って仕返しを恐れた彦根藩井伊家は、南北朝時代に井伊家が宗良親王をお護りした事績にちなんで、井伊谷宮を創建した。

信州側の言い伝えでは宗良親王が井伊谷で死んだというのは敵の目を欺く作り事で、親王は青崩峠を越えて遠山谷に入り、大河原村に御所を作って「信濃ノ征夷大将軍」と号し、各地に号令をかけたそうだ。

市野宿

地名の通り、古代からの物流拠点だったことが見て取れる。

左から右に達しているのが姫街道だが、下石田を通って浜松市安間町で東海道に接するだけでなく、天竜川を越えて池田宿に達する道もあり、そのまま遠江国府に向かうのであれば、こちらが古道とも考えられる。

中下から右上に伸びるのが、木戸町から笠井町を通って二俣から信州に達する笠井街道だ。


二俣町

二俣は家康の長男信康が「自害申し付け」られた所として有名だが、天竜川が山から平野で流れ出る喉首を扼する要害だった。 周りを高さはないが急な山に囲まれ、天竜川と二俣川が切れ込んで、平地は河原に限られている。

そうした特殊な地形をどう利用するかが、二俣の町の歴史だ。現在の形になるまでには長い時間をかけた水との戦いがあった。



二俣川の元の流れは、光明村から山裾に沿って急天竜林業の裏を通り、現在の二光滝の下から南に向かい、鳥羽山から東に伸びる山に当たると、西に向かって鹿島トンネルの北で天竜川に注いでいた。3年小水害、10年代水害だったが、城の下の根古屋のようなバラックだったので、戦略拠点としての機能には支障がなかったのだろう。

江戸時代に入ると、二俣は信州から下される木材の集積基地として賑わった。山一つを北に超えた船明には、季節ななると「綱場」が設けられ、信州からバラで下された丸太がここで筏に組まれ、掛塚湊へと送られた。 江戸の町で消費される木材の中で「天竜杉」は売り上げを伸ばしていった。東京の芝浜松町は天竜材の問屋高島嘉右衛門の屋号が「浜松屋」だったからだ。



二俣の町も賑わいを増し、明和3年(1766)には鳥羽山を掘り割って、二俣川の流れを直接天竜川へ落とす鳥羽山掘削工事が完成した。豪雨の時に二俣川の増水と、天竜川の逆流が町を水浸しにする危険が大きく減少した。

明治22年の地図では、高低差を利用して逆に天竜川の水を鳥羽山の掘り割り近くまで水路で引き込み、高低差を利用して発電を行う水力発電所が見られる。現在の中部電力営業所の敷地は発電所の跡地だ。

天竜杉の関東への出荷が頂点を迎えたのは、関東大震災の復興事業の頃だろう。筏は中野町に揚げられ、鉄道で輸送されるようになっていた。


それでもなお二俣川の流れは町内をU字型に湾曲しており、水害に弱かった。

これを改善するには山を削って二俣川を光明村から真っ直ぐ下に落とすことが必要だ。

この工事の完成は昭和10年、水位の差で出来たのが現在の二光滝だ。

人間の力はどんな困難をも乗り越えられる、という町の空気を吸い込んで育った子供に、本田宗一郎も含まれていた。


森町

森町も二俣町同様、平野が丘陵地に接する場所だが、天竜川のような危険な大河川ではなく、太田川に沿って発達した。古来信州街道の宿場の一つだっただろうが、徳川家康が秋葉山を尊崇して以来、秋葉詣の宿場として栄えた。太田川に接した岩山に三島神社が祀られ、歴史的な中心となっている。

秋葉山が火の神を祀るのに対し、三島神社は海の神を祀り、秋葉山が福田・相良から信州に至る海運業のための神々であることがわかる。信州街道は青崩峠を越えると、遠山谷を北上、高遠から最後の坂を下ったところが諏訪大社だ。

宗良親王が遠山谷に入り、大河原村に御所を作った、という伝承には、近くの鹿塩村に塩が出るのを、長期戦への備えとした、という説があるが、古代の信州街道は福田・相良から諏訪大社へ向かう「塩の道」でもあっただろう。

明治35(1902)年には東海道鉄道袋井停車場と森町の間に馬車鉄道が開業、昭和2年には靜鉄によって電化され、中遠の物流を大きく近代化したが、昭和19年の東南海地震により被害が大きかった。稲作地帯の地盤には注意が必要だ。

静岡県地震対策条件図中遠1996
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/urbanism/ur11/jisin/jisinfuk.jpg



掛塚湊

明治以降近代的な交通機関が導入されるまで、物流の基本は沿岸航路による海運だった。しかし年貢の書付を基にした陸上の記録に対し、湊を出ればどこへ消えたかわからない海運については、関係者以外には記録が残りにくく、解明されない部分が大きい。宿場の歴史に比べて、湊の歴史が大幅に遅れている理由だ。しかし残された建物などから、湊の歴史を辿ることもできる。

遠州の湊では「橋本宿」も重要な物流基地であったと想像されるが、宝永の地震で浜名湖が決壊して以降、湊としての機能は減少した。

江戸時代以降江戸回米を中心として、重要な役割を果たした遠州の湊には、掛塚と福田を上げることができる。

石油・石炭という近代的なエネルギーを使う前の、江戸時代、大規模な土木工事は人力を中心に牛馬を使うしかなく、天竜川のような大河川の治水事業は困難なものだった。

掛塚湊はそうした天竜川の河口にあって、物流の重要拠点だった。浜松藩、中和泉代官所はじめ、西遠地方の年貢米が掛塚湊から江戸に積み出された。重量物である年貢米は陸上輸送に限りがあり、掛塚湊からは舟運用の水路が四通八達していた。水田には必ず用排水路があり、河川舟運用の水路は、これと重ねられていた。

掛塚湊は天竜川の本流と、東側に蛇行する小天竜の間に作られていた。徳川幕府が江戸入城後は遠州・三河の材木が「お国もの」として好まれたであろう。その天竜杉の積み出し港も掛塚湊であった。

遠州灘は特に冬季西よりの季節風が強く、年貢米の江戸回米に際しては帰り船が危険にさらされた。そのため伊豆半島で風待ちをする間に、特産の石材を船底に積んでバラストに使用した。伊豆石は帰港後は蔵造りの建材に使われた。

明治時代、東海道鉄道の計画に際しては、相良を回って掛塚を通る、という案もあったが、東海道沿いの牧之原にトンネルを作る、ということになり、掛塚湊の関係者には危機感が強まった。そのため駒場に大型の船溜りを作り、洋式帆船を導入して海運の近代化を図るという試みも行われたが、鉄道輸送にはかなわず、掛塚湊の物流基地としての地位は低下していった。

掛塚湊
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/urbanism/uminotoukaido/sea/sea06/sea065/1065.htm


福田湊

西遠地方を代表する千石船の湊が掛塚であるのに対し、中遠の湊は福田湊だ。掛川藩、見付代官所扱いの江戸回米の多くがここから積み出された。

図で北に向かうのは太田川であり、袋井で別れて逆川が掛川に達し、本流は森町に通じる。

西に向かうのが仿僧川であり、途中中和泉代官所に向かう今浦川と分けれてさらに西に向かい、用水堀を通して掛塚まで舟運が通じていた。

戦国末期徳川家康が高天神城で武田勢と対峙した時、横須賀藩の弁財天川河口が軍港として利用されたとあるが、江戸時代には福田湊を利用していたようだ。

豊浜村で太田川から別れて東に向かうのが前川と呼ばれる水路であり、横須賀に達している。

江戸時代には秋葉山参詣のための湊として栄えた。現在コーデュロイの国内生産の90%以上が福田周辺で作られているそうだ。ジェノヴァの帆布がジーンズという言葉で残っているように、帆船の時代に厚布を織っていた、といった福田湊の時代からの秘密があるのかもしれない。

溝口紀子のような「乱暴な女子」というのも、浜風が育てているのかもしれない。

相良湊

東遠地方を代表する江戸時代の湊は相良湊だ。安永元(1772)年田沼意次公は老中となり、相良藩を領国とした。意次公に「器でない。」と反対されて、将軍になれなかった田安家のオボッチャマン松平定信はこれを根に持ち、意次公に「賄賂の家元」という汚名をかぶせて追いおとすが、意次公が今でいう「民活路線」を大胆に導入しなければ、徳川幕府はこの時点で倒産していたかもしれない。

意次公入国によって相良湊は、掛川藩はじめ東遠の年貢を江戸へ送る中心地となった。「森のお茶」が有名になったのも、この物流経路だ。飯津佐和神社のお船神事は、文化文政期の相良の賑わいを伝えている。

相良城は石垣を海水が洗う、という海に面した城だ。伊達藩が寄進したという「仙台河岸」が残されている。伊達藩は慶長年間メキシコ経由でローマまで使節を送っており、海外情報も豊富だったようだ。事によると意次公は国内における「民活導入」だけでなく、伊達と組んで、メキシコ銀を輸入しようとしたのかもしれない。

この時代に培われたロジスティックスのセンスは、文明開化の時代にも緑茶の輸出、油田開発など、様々な形で試みられた。 明治22年の東海道鉄道開通と共に、内国海運の優位性は失われたが、現在では御前崎がSUZUKIの輸出基地として利用されている。

焼津港

焼津港は日本を代表する漁港だが、その成り立ちには様々な要素が重なっている。図は明治23年東海道鉄道開通時のものだが、海に沿った旧街道沿いに江戸時代から続く町並みが並び、田んぼの中に駅が作られたことが見て取れる。

町並みの裏側には黒石川が海と平行し、街道に面した表側が店、黒石川に面した裏側が荷揚場など、流通業務のために使われていたことが考えられる。志太平野の江戸廻米を江尻へ積み出す流通基地だったようだ。

明治13年には鰯ケ島から図左下の小川本村に向かう新道が完成し、洪水の度に水浸しとなっていた小川新地の開発が進められた。

図の下側に見えるのが木屋川河口の小川港で、江戸時代には鯵・鯖などの地先漁業で栄えていた。明治末までには発動機船が発達し、それまでの地先漁業から、伊豆七島への鰹・鮪漁が始まり、大正から昭和の初めにはさらに東方・南方へと漁場が広がっていった。

第二次大戦後、遠洋漁船の大型化と、冷蔵車による鉄道輸送が進み、関東・関西の消費地へ東海道本線が直通する、という立地の優位性とともに、焼津を日本最大の遠洋漁業基地へと発展させた。昭和29年には焼津駅に「魚類専用ホーム」が出来たそうだ。

その後の遠洋漁業は、漁場の立地する国でのインフラ整備が進み、高級魚は現地から冷蔵空輸、大衆魚は冷凍輸送で消費地まで運ばれ、漁船が焼津港まで運ぶ、という扱い量は低下している。

奈良時代の志太平野は、大雨のたびに多い川が流れを変える「志太浦」で、東海道は牧之原台地の東端にあった初倉駅から小川駅まで船で、そこから駿河国府へも再び船で渡らなければならなかった時代もあるようだ。



福田湊、相良湊など、県下の「湊」については下記参照のこと。
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/urbanism/uminotoukaido/sea/sea06/sea064/1064.htm


遠州の街道
遠州の宿場町
駿州の宿場町
姫街道など
白須賀宿の町屋

街並みの歴史