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参州の宿場町など |
2015.11.3
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伊勢湾8世紀の大和朝廷から見ると伊勢湾は「東の海」であり、三河は大和朝廷の施政権の及ぶ地の果てでは無かったではないでしょうか。「東海」地方は日本列島を東から囲む太平洋を指すのではなく、当時の海運技術から大和朝廷が安定して利用できる伊勢湾を指すものと考えられます。三遠の国境が浜名湖ではなく、高師山とされていることがこれを物語っています。高師山から遠くに見える「遠つ淡海」は人外魔境でした。 三河の国号はここに豊川・矢作川が流れ、木曽三川と同じく上古からの物資輸送を、伊勢湾という「東海」に結びつく場所だった、という説が江戸時代にも唱えられました。高師山の向こうが人外魔境だと考えられていたことからすれば、梅田川が三河のもう一つの川だったかもしれません。
豊川河口は「渡津」と呼ばれ、東海道を東西に結ぶだけでなく、伊勢神宮をはじめとする伊勢湾沿岸各地への渡船が置かれていました。三ケ日の初生衣神社の絹布はこの渡津から船で伊勢に輸送されたそうです。 姫街道![]() 現在三河国府から浜名湖の北岸を通って遠江国府に至る道を「姫街道」と呼んでいますが、新居の関所を通る東海道を定めたのは徳川時代であり、奈良時代以降、津波などで浜名湖南岸を通ることが困難な時代には浜名湖の北岸を通る道が東海道だった時代もあります。
三河国分尼寺跡には奈良時代の中門が復元されているので、参考にすると良いです。
二川宿![]() 二川宿は徳川幕府による東海道よりも古くからの宿場でしょう。家康の東海道はここから白須賀に向かいますが、家康以前の東海道は二川から坂を下って「遠つ淡海」に達したことも考えられます。明治時代に湖西市日ノ岡から浜松宿伊場堀留まで蒸気船が通ったのも、そうした古代の記憶を辿ったものでしょう。
二川宿には本陣資料館が整備されているので、見学をお勧めします。本陣だけでなく、これが面する旧東海道にも興味深いものがあります。宿場町は明治22年には東海道鉄道が開通して賑わい、1970年代からは物資輸送がトラックに変わり、やがて国道1号線バイパスが鉄道の南側に出来て旧道はさびれ、北側に県道バイパスができて住宅地の道路となりつつも、旧道自体を環境資産として活用を図っています。
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吉田宿![]()
古代には「東海」の東にあって浜名神戸の絹布を伊勢に積み出す港だったものが、昭和に入り田原には飛行場、豊川には海軍工廠が置かれ、軍都として成長しました。その後これが三河港となってます。東海道に近いこともあり、日本最大の自動車輸入基地です。
御油・赤坂 | ||
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御油赤坂間は東海道で一番短く、17町かそこらなので有名だったようです。江戸方国府の手前に豊川稲荷を通る本坂越への追分があることとも関連しているかもしれません。この先本宿あたり、他に逃げ道がないのは現在も同じことで、東名で渋滞に巻き込まれれば解ります。
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岡崎宿 | ||
![]() 「五万石も岡崎様は白の下まで船が着く。」という言い方がありますが、岡崎城は伊勢湾東岸にあって、東海地方の物流の要でした。家康が天下を統一すると、それまで瀬戸内海に集中していた海運の利権を、徳川幕府のご家中・親藩に移したであろうことが想像できます。 忠臣蔵の発端は赤穂の殿様が殿中で刀を抜いたことから始まったとされていますが、殿ご乱心の原因はこの海運利権が背景にあったのではないでしょうか。 鎖国というのも長崎奉行所の元で、外国貿易を幕府が一括管理するというものでした。そして国内の海運利権は三州吉良港など、岡崎が伊勢湾を仕切ることとなっただろうと思います。
忠臣蔵が瀬戸内の経済活動を象徴していたのと同様、田沼意次が相良に入ったのは船を作らせてメキシコ銀を狙っていたことも考えられます。ローマまで使節を送った事のある伊達藩は相良にも「仙台河岸」を寄進しています。
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新城![]() 江戸時代の宿場は基本的には幕府が参勤交代のために指定したものですが、古来の交通の要衝があります。新城は伊奈街道沿いで、豊川が山にかかる手前の、最後の船着場として栄えました。小布施が信濃川最後の船着場で、そこから峠を越せば江戸へ米を送ることが出来たのと似ています。
浦河を登って峠を越した伊那谷の産物は、ここで船に積まれて吉田へ、そして伊勢湾岸各地あるいは全国へ運ばれました。
明治後期の物流の様子は、当時の記録から読み取れます。新城町誌 明治43年には
とあって、今から見るとずいぶんのんびりして見えますが、1学期に見た遠州浜松の街中も大きなだけで道路の様子などは同じようなものだったことが解ります。
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