横須賀城白書院

2017.1.14

掛川城御殿

掛川城御殿は規模が大きいだけでなく、増改築もあって既存部分に食い違いなどあり、江戸時代の平面計画を知る参考としては難しいので、横須賀城白書院を作図してみよう。

元横須賀城白書院は現在、袋井市の油山寺白書院として保存されている。江戸時代初期の小規模オフィスビルだ。



修理報告書には

油山寺白書院は安政6年(1859)時の山主法印範典和尚が、遠州横須賀城主西尾隠岐守より寄進をうけ、当山に移建したもので、この建物は元禄12年4月(1699)大工佳藤伊兵衛口が手掛けて建設した書院建築で、移築時に正面玄関を撤去し裏に突出の間等を設けて移築されたもので、移建以来の修理記録は明らかでないが、近年に宿院の一部として使用し内部の改造と、背面北寄りに一間葺降しの便所と物置を増設していた。

この書院は形式技法が優れて居り、昭和44年5月30日静岡県有形文化財油山寺書院として県指定を受けた。指定後腐朽度が増し倒潰寸前の状態に至ってきたので、昭和54年1月1日解体修理工事に着手、旧規の判明個所を移築時の形状に復し昭和54年12月31日一切の工事を完了した。

昭和54年12月
静岡県指定有形文化財(建造物) 油山寺修理工事報告書
編集 財団法人 文化財建造物保存技術協会
発行 静岡県袋井市村松口3 油山寺

とある。

ここでは畳の寸法を基準に平面が計画された、という仮説の元に作図をしてみる。これが報告書にある平面によく合うからだが、その背景として、江戸時代の公共建築物のあり方を考えておこう。

家康公の崩御とともに亡骸は久能山に仮埋葬され、諸国の大名によって日光東照宮の造営が始められた。いわゆる「天下普請」だ。

これに三代将軍家光公の代に引き続き全国の主要な社寺が整備された。そしてこれ以降新規の公共建築物の建造は「原則禁止」となる。手本になったのは江戸城で、明暦3年(1657年) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失。その後天守は再建されなかった。江戸時代を通じて公共建築は「営繕=元のままに修理する」ことが大原則となった。

元禄12年4月(1699)に竣工した横須賀城白書院も「末長く」、理論的には営繕によってそのままの形で永久に使う、という原則のもとに計画されたことが考えられる。伊勢神宮の式年造営に見るように、部材を取り替えて行けば、同じ建物が永久に使える、というのがが日本における「建物の寿命」の考え方だ。

ヘブライ教・キリスト教・イスラム教という西洋三教は「世界の終わり」を基準に物事を考えるので、建築物の寿命も「世界の終わりまで保つ建物が永遠の建物」となるのが、日本の建築とは違うところだ。西洋では「サステイナブル」となるところが日本では「リサイクル」となるのもこのためだ。

そう考えると平面計画では「古くなった部材の取り換え」が楽なことを主要な条件とするだろう。

そのためには掛川城二の丸御殿のような大規模建築物では、全ての畳の大きさを基準寸法として、同じにする。畳替に際してはどこのどの畳を入れても同じ。という計画方が取られたことが想像される。

掛川城二の丸御殿では増改築の際の柱と取り合いから、変則寸法が見られるが、元横須賀城白書院では畳寸法による平面計画がよく現状の建物各部の寸法に合う。 実際にトレースしてみると理解しやすいので、以下に作図手順を示しておくので、試してみてほしい。 10mm=1尺とすれば縮尺は1/30.303…となるので、作図がしやすい。図中に縮尺は1/30.30.と記入しておけば良い。

作図1

畳の基準寸法を2.9尺x5.8尺、柱の寸法を0.38尺x0.38尺として補助線寸法線を書く。5.8尺x2=11.6尺、5.8尺x2.5=14.5尺が基準寸法となる。補助線は後で消せるように薄く。

作図2

柱を記入する。面取りは1分程度なので、1/30〜1/50では表現しなくても良い。

作図3

敷居を記入する。雨戸敷居は幅0.20尺程度。

作図4

壁と戸袋を記入する。壁厚は024寸内外

作図5

建具を書き込む。
  • 通常敷居・鴨居の溝がセンターにあるので、建具は上座・表側に寄ることに注意。
  • 引き違いでは向かって右の建具が手前になる。
  • 4本引きでは上座・表側から見た時に手前とし、中央の建具を両側の建具の裏にしまう。

作図6

畳・床板・開き勝手を記入して完成。



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2017.1.14

掛川城御殿