幕府衰亡論
 ◎第一章
  幕府衰亡の因由
   封建制度の事情
   幕府勤王の事情

徳川幕府二百八十年の泰平を保ちたるものは封建の制度なり、而して徳川氏十五世の幕府を滅ぼしたるも亦實に封建の制度なりとす。徳川氏第一世家康公(東照宮)その幕府を建て、その基礎を剏め玉ひしに際して封建の特質利害を研究せられざりし事はよもあらじ、然るに猶封建の制度を行はれたるは是勢いの然らしむる所にして固より家康公の意に非ざりしこと事實に於いて明らかなり。鎌倉の頃よりして足利織田豊臣の諸氏に渉り數百年の間に養成したる封建の勢いは決して一朝一夕に破却し得べきに非らず、これを破却せんと欲すれば忽ちに天下の大亂を招くを以て、家康公は深く此に慮らせ玉ひて封建を徐々に減滅するの大計を定め、第二世秀忠公(台徳院殿)、第三世家光公(大猷院殿)、第五世綱吉公(常憲院殿)までは其大計の遺訓を遵行し玉ひしが如し。初め家康公が日本を統治し玉ひし時には織田豊臣の頃より割據したる諸大名ありて動かすべからざるを以て、家康公も其勢いに由て其諸子親戚功臣の輩を大名に封じ、所謂御家門御譜代を以て外様を控制し、巧みに地理を案じて其封土を定められたり。例えば越前を秀康に与えて前田に備えたるが如き、近江に井伊を置て京畿の藩鎮足らしめ越後を忠輝に與へて北陸奥羽の聯路を絶たしめ關東に譜代を置きたるが如きは、深く形勢を察したるもの也と云ふべきなり。然れども其始こそは御家門親戚の交も篤かりしなれ、兄弟が従兄弟となり従兄弟が叉従兄弟となりては他人同様にて表面の本家末家たるに止まり譜代恩顧の諸大名とても同じく其如くなれば、第六世以降は譜代も外様も格式だけの差別にて其情誼に於いては何の差も無くなりてけり。されば幕府が親藩譜代に頼み少なきは勢の而らしむる所にして、幕府も亦親藩譜代に心を置きて油断せざる恰も外様に於けるに同じかりしは勢の止むを得ざりし所なる歟。世の幕府を論ずるもの幕府の諸侯に對せるや猜疑の深くして恩誼に薄かりしと云ふは、是れ未だ其実を知らざるの皮相なるのみ。封建の制度に於ては、假ひ子弟たりとも親戚たりとも功臣良相足りとも既に是に封土を與へて大名たらしむる以上は、いつ何時我敵たらんも計り難しと覺悟して是れに備ふるは幕府たるものが當然の用心なるのみ。故に其初めより家門譜代を以て外様に備へ、叉旗本家人を以て諸大名に備ふるに非ざれば幕府は保ち難かりしなり。果たせるかな幕府の末に至りては、御家門御譜代の諸大名中にて幕府に忠節を盡せる向きは少なからざりしも幕府を仆したるは諸大名にて、其諸大名は獨り外様のみならず家門譜代も多くありき。
家康公は初より封建の幕府に利あらざるを知り玉ひしかば、諸侯に對するに厳重なる憲法を制して之を授け、苟も少にても是れに違ふ者あれば容赦なく其領地を削り、或いは國替を命じ或は改易に處して毫も恕する所なかりき。故に家康公より第五世綱吉公に至るまでは家門譜代外様の諸侯が罪科を蒙り、叉は相續の子なきを以て滅藩に及び若しくは削土減祿に處せられたる數を見れば歴然たるべし。其重立たるものを云へば、外様には蒲生、最上、加藤、福島、堀、上杉等あり、御譜代には大久保(忠隣)、本多(正純)、京極、金森、寺澤、坂谷などあり、御家門にても越後忠輝、駿河忠長、越前一伯をはじめとして、或いは自殺せしめ或いは改易或いは減祿に処せられたるは許多ありき。其諸大名に於けるや斯の如くなれば、御旗本御家人とても亦同じく此法を以て處し、詰る所は親を以て疎に代らしめ諸大名を代謝せしむる間に漸次に廢絶を行なひ、遂に諸侯なからしめて封建の跡を斷つに至ること家康公の初志にして、即ち遺訓の大秘計なりき。然るに徳川幕府も第五世の後に英主なく、第八世吉宗公(有徳院殿)に到てはもはや此の秘計を行う事を許さゞる時勢となり、延べて幕末に及びては幕府には諸大名を制御するの實権もなく、果ては諸大名の為に幕府を仆されたりき。是に由りて之を観れば、徳川氏二百八十年の泰平を保ちたるも封建にして其幕府を仆したるも封建なれば、宝剣は家康公の意に非ざりしや知るべきなり。
封建の情勢は斯の如くなるを以て、諸大名が徳川氏に對せるや陽に君臣の禮を守りて服従したれども其心中に於て常に不滿を懐きしは獨り外様大名のみに限らず、所謂御家門御譜代の家筋とても同様の事にてありき。然るに慶長元和以来安政文久の末路に至るまで、公に叛旗を搴げ能わざりしものは、(一)二百七十餘年の久しきに因襲せる嚴重なる慣例格式作法禮儀等にて形而下を檢束し、遂に形而上に及ばし天下の諸侯を籠絡したること、(二)此諸侯及び其家臣は皆社稷を保つに専らなりしが故に冒險の所爲に渉るを避けるに汲々たりしこと、(三)幕府の實験實力は非常に強勢なりと信じ、他の諸侯は皆幕府の命令を奉ずるを以て若し我にして一朝咎を幕府に得る時は忽ちに滅亡の難に罹るべしと恐れたること、(四)諸侯の妻子は江戸に居住して都下の花奢風流になれ、後宮の驕に国費を費やし、其上に参勤交代諸役の爲に概ね財政疲弊して事を起こすべき程の勢力なかりしこと等、皆其因由をなせしのみ。若も寶永正徳の頃にあれ、寶暦明和の頃にもあれ、薩長芸備の如き大諸侯が合縦して事を擧げたらんには徳川幕府は其時に危かりしならん。是れを要するに。徳川幕府が諸大名を巧みに制御して恩威並行はれしは、保守政畧のために尤も大切なる格式慣例を嚴守して変更せざりしと、諸大名の財政を常に疲弊せしめたるに在りしと云て可なり。斯る巧なる籠絡の覇絆その檢束を解きて幕府の衰亡を促したるものは實に世論の云ふが如く勤王と外交との二事即ち是れなりとす、苟も此二事の時運を轉變せる事なかりせば十の薩長あり氏とも百の西郷木戸ありしとも、徳川氏の幕府を動かす事は成し得べからざりしは疑を容れざる所なり。
扨此勤王若しくは尊王と云う事は如何にして日本人の上流社会、即ち當時の諸侯武士の腦裏に養成せられたる乎と問んに、世の論者は概ね皆我が帝室の萬世不窮なる日本の臣民盡く皇恩を知るの忠節に出るなりと云ふに他ならず、實に然り、余も亦實に其然るを知る者なり、然れども幕府の滅亡の一大原因は勤王なりと云ふ以上は今少しく歩を進めて實況を観察せざる可からず。顧みるに保元平治以来朝廷の衰へたるや久し、建武の中興ありしと雖も幾もなくして足利氏の幕府となり、嘉吉応仁の兵亂より打續きたる亂世に京都は干戈の街となり、織田氏に至りて漸く朝廷の御事ども聊か其舊に復するを得たり。尤も朝廷に直仕し奉りし公卿たち、或いは京都に住居し叉は縷々往復して眼のあたりに朝廷の御有様を見奉るものは幕府の全盛に比較して慷慨悲憤の感を起こせるに相違なきも、さる輩は日本人民中に其數幾許も無かりし、その多數は如何と云へば其實は朝廷の尊きを知りし迄にて天子様は神様なりと心得たるに過ぎざりき。況や関東の武士百姓は將軍あるを知りて天子あるを知らざりしに於てをや。然るに徳川氏の初よりして諸大名旗本等をして朝廷ある事を第一に知らしめたるは任官叙位なりとす。將軍家は尊しと雖も其従一位太政大臣近衛大將右馬寮御監淳和奨学両院別當源氏長者征夷大將軍と云へる長々しき官位は、朝廷より賜はる將軍宣下官位御昇進の式を行ひて拜受せられたりき。諸大名は幕府の臣下にこそあれ決して朝廷の臣下に非ざるの制なりしかども、是を榮するに官位を以てするの一義に至りては朝廷に奏上し、其口宣位記等を乞受けて之を與へざる可からざりき。蓋し家康公の心中にては諸大名、旗本等の官位叙任の事は幕府の長計に非ずと思い玉ひしならんが、鎌倉以来の慣例にて武士みな此虚爵を得て榮とせしに付き止むを得ず慣例に従われしなるべし。去れば徳川氏の中世に新井白石が六代將軍家宣公を説き武家の禮服を京都風に改め官位の叙任をも正しくせんと建言したるを、當時の幕儀にて之を斥けたるは其理ありし事にて、其後第八世吉宗公の時に徂徠が幕府は別に其官位禮服を制して京都の官位を乞うを止められるべしと議したるは、幕府にとりて頗る卓見なりと云うべし。然れども當時に於ては斯かる英斷は行はるべきに非ざりしかば、其儘にて舊に依て朝廷の官位を申受せしめたりき。是れに於てか従五位下朝散大夫に叙任せらるゝ以上は位記口宣を賜はるを以て左しも朝廷あるを知らざりし武士も、是を知りて初て果は諸大名は朝廷の臣下の如くに思ひ做すに到き(幕府より論ずれば、安政の頃に一時は邪説なりと擯斥せられたる今の諸侯は王臣に非ざる論こそ正當なりしと云はざる可からず)。次に勤王の大義を日本國中の武士に知らしめたるは幕府が勵励したる學問なりとす。原来徳川家の第一世家康公は名を棄て實を取るの政治家にて、即ち實權政府を以て日本政府とし、名義政府を以て政府とせざりし見識なりき。しかるに数百年の乱世を泰平に致されし初より主として文學を起こす事に眼を着けて、藤惺窩、林道春等の學士を聘して奬勵せられたるは程朱の學派にてありき。程朱の學は善良の學問に相違なきも、其本尊は周公孔子の學問なるが故に主として王覇の別を正し、君臣の分を明にし、朝廷を將て周の天子に比し、斉恒晉文を將て幕府の将軍に比し、斉恒晉文が諸侯を會同して以て周の天子に朝したる如くに将軍諸大名を引纏めて朝廷に朝廷に仕え奉らるべし、何となれば幕府は覇者の政をなすものなればなりと、孔子流程朱派の名義政府を以て眞の政府と認め、實權政府は是れに勝つ可からざる者なりと論斷して子弟を教育したりき。是故に幕府が奬勵したる學問は三百年間に於て忠孝の道を明らかにし、社会の道義を進め、文明の開化を導たる効能と共に幕府の上に朝廷あり、朝廷は眞實なる君主なりと云う事を知らしめ、以て勤王の精神を發揚せしめたりき。此餘文學の盛んなりしに従って勤王の義を明らかにしたるは勿論にて、水戸の大日本史の如きに頼襄の日本外史のごとき勤王に與て力あ利子が、其外に幕府の前よりして夙に行はれし源平盛衰記、平家物語、太平記の諸書は云うに及ばず、近松竹田の院本、馬琴の稗史の如きも亦其間接に勤王に力ありしは決して大日本史、日本外史に譲らざりき。
右の如く勤王の志は幕府の初より養成せられたるに、其上にも亦代々の將軍をして皆朝廷を尊崇せしめたるものありき。單に表面より見れば幕府は朝廷の御賄料を十餘万石に限り、嚴に政府に干渉し玉ふ事を禁じて頗る朝廷を蔑如せしに似たれば、幕府の内部にては定めて軽侮を極めたるならんと憶測するもの少なからず、是れ大なる誤見なり。およそ幕府が朝廷に對せるは殊に尊崇を極め、豈に勅使を禮遇せるのみならず、幕吏たる高家が年々京都に使いして復命せる時だにも将軍家は之を同間に入れて聞き玉ふの例なりき(伊勢御使日光代參この例なりき)。京都への進献物は將軍軍家禮服を着して是を御覧なされ京都よりの賜物も同様にて其賜物は決して寐室に置き玉ふ事無かりき。斯く朝廷を尊び玉ひしは其實、輔佐の臣が常に将軍をして恐るべきは京都なりと思はしめたるに由る。蓋し諸大名の家老が諫めを其君に納るゝに當つては將軍家より御沙汰あっては相濟ますまいと云うを第一にすれども、幕府輔佐の臣が將軍家を諫むるには日光様(家康公の事)に對して相濟ますまい。京都よりの御沙汰あらば如何遊ばさるゝ歟の二語に過ぎざりき。其中にても日光様は尤も將軍家が尊敬し玉へる祖宗なれども何を云うにも現世には御座さゞる神なれば其効力は自ら薄く、詰り先祖の位牌と同効とは成れり。之に反して京都は現に朝廷〳〵て将軍家に官位をも授け玉ひ、大小の神祇よりも尊くてあらせらるヽに付き、將軍家の心中に畏敬の念を起こさしめたる効力の日光様より多かりしは自然の勢いなりき。其上に學問上よりするも、慣例上よりするも、萬一にも朝敵と云う悪名を京都より下さるヽ時は、将軍家たりとも公方様たりとも天地間に身を容るヽ所なしと幼少の折より教へ込み、是を以て将軍家を畏怖せしめ、常に京都を口實にして其不良を諌めたるが故に、幕府の内部にて朝廷を畏敬せしは恐らく代々の将軍家を以て第一とせしなるべし。
斯く諸種の因由よりして勤王の志が幕府に於いて養成せられたるは、其養成の因は其熟するに於て開發の機會あるべきは必然の數なり、而して其機會は嘉永安政外交一變の時に於てぞ開發したりける。