幕府衰亡論
 ◎第二章
  幕府当初の對外政略
   幕府開國の事情
   寛永鎖國令 寛成令 文政令 弘化令
   豫報不信の事情

徳川氏の幕府を衰亡せしめたるは外交その端緒たること世論の認めるが如く、余も亦實に然りと信ずるなり。若し外交の為に日本の局面に大なる變動を起こすことの無かりせば幕府の威權は仮令ひ芋壳の如くなりしとも未だ容易には衰亡せざりしならん、去れば幕府の衰亡を論ずるに當たりては外交の顚末を知ること尤も史家の緊要とする所なるべし。
顧れば足利氏の末に際し南蠻人等(西班牙、葡萄牙の諸國)が初めて薩摩、豐後、肥前の諸國に來たりしは、是より先き伊太利の紳商マルコポーローが其父ニコラポーローに從て東方の貿易に遠征して深く蒙古に入り、忽必烈汗(元世祖)の幕下に屬し、歸國の後に著述して世に公にしたる紀行に起る。此紀行は當時西洋諸國の愛讀せる所にて、其中に載せたる日本國とは即ち我國の事にして、金銀珠玉を以て家屋を飾り尤も寶物に富みたる様に書做したり。是れマルコポーローが蒙古にて傳説の儘をものせしに、其頃は恰も歐洲諸國にも漸く東方の富𩜙に着目したる初なりせば、日本國の名称は此時より初めて歐洲の知って羨望せるところとなりき。既に其後二百年を經て閣龍が亜墨利加を發見せしも、其初念はマルコポーローが所謂日本國を探見せんが為なりしとは云い傳へたる程なりき。扨この南蠻人が豐後の大友、肥前の有馬、大村の諸侯の領地に商船を泊して貿易を成し、兼ねてはゼスウォット派の天主教を宣布したる事の容易に其歩を進めしは即ち外交の開始なりしが、其宗教の信長、秀吉、家康の諸公の忌む所となりしは敢えて我國の僧侶等が之を讒誣したる故のみに非ず、彼が宗教を以て植民政略の術とせる權謀の恐るべきを看破せられたるが故なりとは豈に推測のみならず明らかに文献の徴すべきものありき。故に幕府の始に當りて家康公は外教を厳禁したるのに係わらず貿易には頗る自由の方針を執り、日本國中津々浦々何地に於ても差障りなく商賣を遂ぐべきもの也と云へる御朱印をば英吉利、葡萄牙、和蘭、其他の諸國に與へ、第二世秀忠公とても同様にありき、然るに第三世家光公に至りて外國商船の入港に其地を限り其國を限り叉我國の商船の外に出るを禁じて鎖國の強硬政略に改めたるは、深く外教の植民政略の密接の關係ありしを慮りたると。且は當時の貿易は専ら輸入のみにして我國より輸出すべき物品の甚だ少なかりしが爲に我が金銀の頻りに濫出せるを憂ひしが故なりとは知られたり。ただし幕府當初の外交は本論に太だ必要ならざるを以て之を略して云はず。幕府は嚴第三世の遺訓を守りて鎖國の主義を尊奉したるに由り、第八世吉宗公の如き英主にて文武の道に心を寄せ馬術、砲術、醫業、天文、暦算等に西洋學の必要を覺り蠻書(即ち蘭書)を讀むことをさへ其筋の者に許し玉へる程なりしかども、猶この主義を更變するを敢てせざりき。然れども我國の學者等が朧氣ながらも西洋諸國ある事を知り染めたるは此時よりと記臆せざるべからず。
斯て外に對せる波風もなく歳月を送りしに、幕府の酔眠を喚起せしは露西亞使節の一事なりき。是より先蠻書(蘭書)を讀む事を許されてより少しは西洋の事情を聞き知り、且つ毎歳和蘭甲比丹(和蘭東印度商會の事務官)より差出せる風説書にて(今の新聞)西洋には諸國に兵亂ある事も聞傳へ、叉印度は英國の侵略せる所となり、支那にも通商をなせる事をも聞及びたれば、當時の所謂蘭學者及び談兵家は稍々海國の戦略を説き初めて、或いは海岸防禦の策を講じ或いは陸地砲戦の術を論じ、靡然として外に備ふるの念を起こしたる折から、蝦夷地(今の北海道)に於いては土人の寇亂ありしを以て益々警戒して幕府は海防に着手するの念を起こしたりき。その後文化の初に露國の使節列撒納布は軍艦に搭じて長崎に來たり和親を請ひたれども、幕府の拒絶に逢いて使命を果たさず轉じて蝦夷地に寇したりければ、北門の警報に再び驚き海防の議論紛々たりしも、寇止めると同時に其議論も熄みて幕府の官吏は相替らず泰平を祝して舊の如くなりき。
初め三代将軍家光公の時に外國船舶の入津を禁ぜるに當りてや、異國船を見掛け候はゞ二念なく打拂うべしと列藩の諸侯に命打ち拂したりけるが(是を寛永打拂の令と云ふ)、寛政年間に至り松平越中守の議に依り、來意を尋ね漂流船に候はゞ薪水食糧を與へて、退去せしむべし、若し其指圖に従わずば打拂ふべしと命令を改めたり。然るを文政年間に到り再び舊に復して二念なく打拂うべしと令したり。是は近來外國船が頻りに我國の海岸に出没するは寛政の命令にて打拂の嚴令を寛にしたるが故なり、寧ろ舊の如く寛永の嚴令に復するに若かずと思いし故とぞ知らる。斯て數年を送りける中に、蘭書を讀む輩が多くなるに従って頻に外國の事情を解く者を増加し、砲術、兵法の事よりして鎖國の政略を非難し、今にもあれ外國より使節を差越して和親通商を望まば如何すべきぞと論じてようやく開國の機運を喚起せんとせし時に際し、支那にては阿片の事よりして英國と戦争を開き廣東、福建の諸省を攻陥り支那と条約を結ぶの機を以て英國は日本にも使節を指向くべし、其使節はボーリングと云える人にて十八ヶ國の語に通ぜる文武の豪傑なりと云う風説書を和蘭甲比丹より幕府に出したなりければ、蘭學者連中は素早事こそ起こったれと爭て鎖國の不可なるを説きて俄に其力を得たりしに、其使節は遂に來らず、外國より和親通商を乞ふ事もなかりしかば、夫見よ彼の蘭學者輩は虚喝を吐て世を騒がす害物なりと漢學者連等に讒誣せられ、密かに和蘭醫官に我國情を知らしめたると云へる一條の為めに羅織せられて禍を蒙ったりき(藤田茂吉君の東漸史に此事を委しく記せられたり)。然るに弘化元年に到り和蘭國皇は特に使節を我國に派遣して幕府に説くに鎖國の不可なる理由を以ってし懇々忠告の書を送られたり。其使節は将軍家の引見せざる所なりしと雖も、幕府は忠告の薄気味悪さに再び文政の嚴令を改めて寛政令に復し、異國船來たらば來意を尋問の上にて處置すべし旨を觸たりき。されども外國の使節は和蘭の忠告せるが如くに日本に來らざりしを以て、幕府は此忠告をさへ半信半疑の間に置き、終には信ずるに足らずと思惟したりき。
その後嘉永五年に至り和蘭甲比丹は風説書を幕府に提出し、亜米利加合衆國にては愈々議院の決議を經て軍艦を出し、使節を日本に送りて和親の條約取結の事を望むべし、其施設の軍艦が來年を以て日本に來るべし、若し手荒なる御取扱いあっては一大事に候と云ふ旨の忠告をなしたりければ、此和蘭甲比丹の忠告は(幕府にては和蘭内密御忠節と稱したり)長崎奉行の手より直ちに江戸に回送し、當時の御老中安部伊勢守を初めとして幕府重心一同の知れるところなりき。然らば即ち嘉永六年六月に米國使節海軍中将伯爾里が軍艦を率いて渡來の事は幕府内閣に於いては決して寝耳に水と云ふに非らず、實に其前年よりして聞き知ったる事にぞありき。
果たせるかな翌年、即ち嘉永六年六月を以て伯爾里は軍艦を率いて直に江戸灣に乘込たりき。是に於てか幕府は上を下へと騒ぎ周章狼狽一方ならず。其事情は猶後條に委しく説出すべきが、何故に安部伊勢守等は斯く明白に知れた事を前年に聞得て居ながら其用意の評議をなさゞりしかは、蓋し史家の一疑問なりとす。此事に關し余が聞得たる所にては、當時の長崎奉行川村対馬守は純然たる俗吏にて外國の事情などは素より知らず、其上に浮としたる旨を上申して事相違あっては一身の不首尾なりと恐れたれば右の甲比丹の風説忠告に意見書を加え、斯様には申せども外國人の言う事なれば決して引當てには相成りがたし宜御取捨てあって然るべしと真偽相半ばするの意を示したり。安部伊勢守等は外國人に直接する長崎奉行でさへ此通りに申す上は何様其如くなるべし、且つ先年ボーリング渡來の風雪と云ひ次に和蘭國王の忠告さへも其事實を見ざる程なれば、今度の忠告も例の虚喝か左も無くば風聞に過ぎざるべし、然るを幕府諸役人の評議に掛けて騒ぎ立て来年に至りて其實なき時は閣老軽率の譏を免れざるに付き、寧ろ之を幕閣の匣中に秘し置きて諸役人に示さゞるを得策とす、若し忠告の如くに渡來するも其場所は長崎なるべし、長崎ならば前々の通り拒絶はわざる事に思はるれど、当時に於てはさる事情あるを免かれざりしもの歟。