幕府衰亡論
 ◎第三章
  幕府政躰の一大變革
   京都へ奏聞の事情
   水戸殿顧問の事情
   諸大名へ下問の事情
   漢學養成の結果

さる程に亞墨利加國の使節水師提督伯爾里は軍艦四艘を引き連れて嘉永六年六月三日を以て相州浦賀へ入津したり。是より先き浦賀は江戸灣の咽喉たり、豆州下田は東海の形勢たるを以て幕府は此要地の警衛を心掛け、殊には近年追々と外國船が東海に出歿せるを見て容易ならずと思日、下田には勤番を置き浦賀には奉行を在勤せしめ、井伊掃部頭其他の諸大名に海岸の警備を命じたるは前年の事なりき。然れども其の警備と云ふは名のみにて、實はなんの効能もなきは氣の毒千万なる次第なりしと云ふべし。果たせるかな亞墨利加國軍艦が四艘にて突然浦賀に入港したる時に、浦賀は云ふに及ばず江戸の騒動一方ならず上を下へと沸が如き有様は當時の史篇に明らかなれば、余が此に説出すを要せざるべし。扨幕府が官吏を久里濱に派遣して使節に談判せしめたる次第は当時に於ても其後に於ても極めて世論の批難せし所と雖も、何さま當時の幕府にては此他に取るべきの手段は無かりしならん。假令今日の大政治家を嘉永六年に在らしむるも恐らく是に殊なるの手段を廻らす事は出來ざりしならん。故に當時の閣老を始め幕府の重臣等が亞墨利加國の使節に對して平和談判の手段を取りしは、怯臆の故にもせよ姑息の策たりしにもせよ、前後の考案もなく夷船を打拂えへよと云へる粗暴の擧動に及ばざりしは實に我國の大幸なりきと云はざる可らず。

(第一)京都へ奏聞
凡そ徳川幕府の政治は將軍専裁の政治なり、上は天子と雖も下は諸大名と雖も決して干渉を許さゞるの政治なり。徳川氏は朝廷に對しては盡すべきの尊敬を盡して臣節を全くするを旨としたれども、政治に於ては其内治たると外交たるとを問はず都て將軍の専斷を以て取行い、若し朝廷より彼是と仰下さるゝ旨もあらば、政治の事は京都の御口出しは御無用なりと拒絶し、剩さへ是に關係の公卿堂上を嚴に譴責して罰したるは其例少なからざりき。然るを亞米利加國軍艦が浦賀に渡來したりとてなぜに所司代より其事を朝廷へ奏聞したりし乎。第一幕府の礼式に背き、將軍家の御趣意に戻りたる處置なりと云ふべし。史を按ずれば、嘉永六年六月三日亞國軍艦浦賀渡來、同き八日諸役人浦賀へ出張、同き九日諸向へ閣老より達して云く、異國船萬一江戸内海へ乗入候注進次第早半鐘の合圖を以て早々火事具着用登城叉は各持場々々へ急速相詰らるるべし。同日異國船渡來の事京都所司代へ被仰遣、同じく十三日脇坂淡路守より傳奏へ申達し兩卿より叡聞に達し候處宸襟安からず思召され、同十五日七社七寺へ御祈願の勅諚ある、即ち伊勢太神宮の神職共へ御教書を賜はる、其文中には夷船近來縷々寄近海叡念甚不安偏在仰神明之冥助速退攘夷類莫拘國體の語あり。是ぞ即ち徳川幕府衰亡の源因たる攘夷の初發にして、源に攘夷の字が政治界の實際問題に出現したるは此に始まるものなり。
前にも述べたる如く、家康公が開國の主義を定めたる時には是をを朝廷に奏したりし乎。家光公が鎖國を令したる故に天子に勅許を乞いたりし乎。寛政の令と云ひ、文政の令と云ひ、其の他享保文化の蝦夷地事件にせよ、英吉利露西亞等より使節渡來の時にせよ、嘗て一度も京都へ報上したる事なし。然るを此度に限り所司代より傳奏へ申達し奏聞に及ばせたるは何ぞや。抑も誰か之を上奏せしめたる乎。當時閣老の筆頭たりし阿部伊勢守正弘が取計なる乎。阿部と雖もまさかに斯かる幕府の典礼に背きたる事はなさゞりしならん。果たして然らば水戸殿の意たりし乎。將た將軍家の思召なりし乎、此二つの外には非ざりしならん。余が聞くところに據れば、將軍家慶公には原來尊王の志に篤き御方にておおしければ、亞國渡来唯今にも戦争相始まるべき騒動に付き京都のことも心許なし、兎も角も早く此事を知らせ奉れと仰せ出され、水戸殿にも此儀尤も然るべしとの御同意ありて、然らば直様所司代へ急使を發せよと閣老に命ありし事なりとは云へり。蓋し或いは然らん。勿論此奏聞は攘夷の發端となり、京都が徳川氏の内治外交に干渉せらるゝの発端と相成りて衰亡の禍源を開くべしとは將軍家も水戸殿も諸役人も思ひ及ばざりし所なりき。

(第二)水戸前中納言齊昭卿の顧問
此事また史家が宜しく疑を容るゝべき所なりとす。抑も水戸殿の事に關しては眞正の活眼ある史家は自ら別に一見識あるべし。安政の獄を治めたる頃に水戸殿が権謀術數を事とせられたる様に批難せしは、素より讒誣なれば信ずるに足らずと雖も、亦尊攘家が當時に崇敬したる如くにも非らざりしならん歟。但し今は水戸殿を評すべき場合に非ざれば是を他日に譲り、唯々水戸殿は徳川一門中の豪傑なり、其代りには隨分うるさき御方なりと云へるが當時幕府の通評にて、既に其前にも一度は幕政に参輿して其顧問たられし事ありしかども幕閣は敬して遠ざけ、其後國内の党派論の為に讒せられて幕府の譴責を受け隠居となり、此前年に初めて隠居を以て登城せられし事有りし迄なり。されば阿部閣老も既によく水戸殿の手並みを知ったる人なれば、決して此隠居を引出すべき筈は無かりき。然るに嘉永六年六月八日、水戸前中納言御儀御用之儀被為在間當分之内隔日御登城可被成旨、旦平川御門より御風呂口屋口へ夫より御席へ御通り可被成旨、御寄りを以て仰進せられたり。是れ果たして誰が意に出たる乎。余が傳聞せる所にては水戸殿は曾て幕府の譴責を蒙つて隠居せられしと雖も、将軍家慶公は常に其人となりを識り、徳川家一門親戚の中にて頼母しき人物は水戸殿なりと密かに信用を置き玉ひしに付き、今度亞國軍艦渡来和戦の大事に臨み我を輔弼して此難局に當らんものは水戸の外にはあらじと思召し、是れを阿部に諮りしに、阿部も心には左までとも思わざる迄も抗拒する譯も無ければ、然るべしと答へて扨は水戸殿御登城とは定まりしなりと云へり。當時の事情を察すれば是れも亦ぞの實を得たるの説なるべし。然れども人を任罷するに際しては微官小吏と雖も是を慎重にせざる可からず。軽々しく任じて軽々しく罷むる時は其信を失ひ、其不満を招きて、却って初より之を任ぜざるに若かざる事あり。微官小吏且然り、況や高官大吏に於いてをや、又況や水戸殿に於いてをや。水戸殿の任罷に關して後章に詳説すべきが、此火急の時に際して是を至高の顧問となし、其説の容れ難き會ひては是を閑散の地位に退け、益々之を激せしめて遂に攘夷の本尊の如き有様に陥らしめたるは、蓋し此の御登城の時に其禍機を敗退したりと云はざる可からず。勿論将軍家も阿部閣老も敢えて斯る慮は無く、水戸殿は猶更にて倶に其結果を夢にも想像せざりし所たるに相違なけれども、若夫幕府衰亡の因由を今日より論究するに當りては、水戸殿御登城の事は史家が等閑に看過し去るべきに非ざるなり。

(第三)諸大名和戦の評議
此年七月朔日、閣老安倍伊勢守は在府の諸大名を城中に呼寄せ、今度浦賀表へ渡来の亜墨利加船より差出候書翰和解二册逹候此度の儀は國家の一大事に有之實に不容易筋に候間書翰の趣意篤と被懸熟覧銘々存寄の品も有之候はゞ仮令忌憚に拘り候共不苦候間聊心底不相殘可非申聞候とは演達したり。此演達は實に徳川幕府が天下の大小名をして口を政治上に開かしめたる第一着なりとす。余が前にも述べたる如く、徳川幕府の政略は政治上のことに關しては朝廷の御旨さへも承らざるを極意なりとすれば、豈に諸大名の喙を容るゝを許さんや。大名にても閣老参政の役に在る人々は其役向にて政治を掌どれども、其外は大廊下大廣間の大名も帝鑑間雁間の大名も、比しくともに政治を是非するの権力を與減られざるなり。尤も溜詰の諸侯は爾来顧問府の如き制度にて将軍の諮問に應じて意見を具申するの義務ありて、時としては進で大事を議論するの威権をも有すると云へども、夫さへ表面上の格式に止まりて曾て其事ありしを聞かざる程なりき。然るを今や徧く列藩諸侯をして意見を吐露せしめたるは何等の目的に出たる事か。阿部閣老は大名にもせよ決して紈袴子弟に非ず、随分才敏の令聞ありし閣老なりけるに、幕府の典令をも顧みず此會議を開かしめ諸大名をして十分に存寄を言はしめたるに付き、諸大名は得たり賢しとて或いは戦ふべしと云ひ、或いは兵備を整えて後に和戦を決すべしと論じ、諸説百出終に一に歸するところなく、為に幕府は取捨するに苦しみ、遂に此年十一月朔日に至り亜墨利加合衆国より差出候書翰の儀に付夫々被致建議候趣熟覧参考之上達御聽候處諸説異同は有之候得共和戦の二字に帰着候然處面々被致建議候通り當時近海を始め防禦等御全備に不相成に付渠申立置候書翰之通彌々来年渡来候とも御聞届之有無は不申聞可成丈此方よりは平穏に為取計可申候得ども渠より及亂妨候儀有之間敷とも難申其節に至り覺悟無之候ては御國辱にも相成候儀に付防御筋實用の御備精々心掛ケ怒情を忍び義勇を蓄え彼動静を熟察致し萬一彼より兵端を相聞き候はゞ一同奮発毫髪も御國體を不汚様上下擧げて心力を盡くし忠勤を可相勵との上意に候と達したれば、これにて諸大名の歓心を失い幕府に乖離するの志を喚起さしめたり。是幕府が此時を以て諸大名をして初めて政治に口を容るゝことを促したるが故にして、是よりして諸大名は幕府に向て議論するの途を得て是非を事とし、遂に其の衰亡の原因を成したること蓋し爭ふべからざるの事實なり。
右の如くこの三事は當時偶然に出たるべしと雖も、實に徳川幕府の専裁政体は是が為に一変して会議政体たるの端緒を開たり。世人往々幕府を評して保守のために仆れたるものと論断すれども、餘は之に反し幕府は進取の為に亡びたるものと明言せし事ありき。其故如何となれば、嘉永六年の米使渡来に際して幕府もし是を朝廷に奏せず、諸侯に問はず、水戸殿にも相談せず、全く御老中御用部屋(幕閣)の評議を以て処分を定め、断然通信通商を許可すべしと約して開港条約までも取極めたらんには、朝廷と雖も諸大名と雖も是即ち幕府大権内の事と思惟して、毫も之に向かって意義を鳴らさゞりしならん。然るを事此に出ずして、幕府が家康公が制定し置かれたる將軍専裁の政体を固守せずして是を朝廷に奏し是を諸侯に謀ると云へる新政体に変更したるが幕府衰亡の一大原因なれば、即ち進取の為に亡びたるに非ずや。但しこの変更あらしめたるには更に一大原因の存するものありて然るなり。

其一大原因とは何ぞや。曰く、徳川使が當初より養成したる漢學是なり。抑も徳川家康公撥亂反正の偉業を樹てたる第一着に眼を注がれたるは文學の奨励にありき。蓋し鎌倉足利氏の世には佐しも王朝の頃に盛なりし學問も戦乱の為に衰微を極め、偶々読書せるものは僅かに僧侶の間に残り文物は挙て暗黒に陥りしを、家康公は此れに慨せる所ありて藤惺窩に謀り、林道春を聘して儒員となし、庠序學校を天下に起こさしめ、以て今日あるを致さしめたる其功業は千載不滅の功業なり。徳川氏十餘世二百八十年の泰平を保ちたるに就いては此の文學奨励の力與つての其多に居ると云ふは、餘も亦敢えて意義を其間に容れざるなり。然れども徳川氏の衰亡を招きたるは、否徳川幕府をして嘉永六年に於いて外交和戦の事は是を朝廷に奏し是を諸侯に謀るべしと思惟せしめたるは即ち文學奨励の結果なりと論定せざる可からず。すでに冒頭に明言したる如く。家康公の政略は名を捨て實をとるの政略なり。正統の政府はこれを虚器たらしめ、實力の政府を以て全国を統治するの政略なるに、其奨励したる文學は漢學にして、殊に惺窩、道春が帰依したる程朱の學派は宗年とし、理を以て本とし、實力を排斥して正統を尊崇するの學派なれば、家康公が奨励せる文學は即ち家康公の政略に反対せる學派なりき。家康公のごとき大元帥としても大政治家としても不世出の人にて在りながら學問なき悲しさには、其學問は即ち其政略主義に全く正反対たるを識別すること能わずして是を奨励し、以て伝家の遺訓とせられたるぞ是非なかりき。
夫れ徳川幕府の政略たるや幕府は日本の主権者にして朝廷は空位に備はるの隠居なり、諸侯は幕府の命令を尊守すべき幕府の臣下なりと制定したるに、其學校に於いて教育する所は徳川氏は覇者なり。朝廷は天子なり、覇者は諸侯を率いて以て天子に朝すべき者なりとは薫陶したり。去れば征夷大將軍は政略上に於いては主権者の称号なるに、其教育を受けたる輩は大樹、幕府、覇府等の名を附して明らかに其正統の主権者に非ざる事を表示したり。是故に勤王精神を日本全国の人民に抱懐せしめたるは即ち學問なりと云はゞ、其學問は即ち徳川氏が奨励したる所に非ずや。これを今日に例すれば、猶君主独裁国に於いて其大小學校は立憲君主制の方針を執つて教育し、立憲君主制の國に於いて民主共和制の方針に専一なるに異ならざるなり。悪そ他日其學問の為に政体を破らるゝの禍に遇はざるを得んや。而して徳川氏の如きは實に其禍に遇ひたるものなり。
然れども徳川氏の初より家斉公の世に至るまでは、幕府の政治家中には往々具眼の識者ありしか將た學者を喜ばざりしか、凡そ學者にして政治に参輿したるものは二百五十年間纔に新井白石と物徂徠の二氏ありしのみ、其餘は教伝を講じ詩文を作るに過ぎずして、其實は医師、絵師と其伴を同じくしたるのみなりき。其後松平越中守(後に白河の楽翁と云ひし人なり)が閣老たるに及びて頻りに學問を奨励し、及第の法を設け幕府の御旗本、御家人および其子弟にして學問吟味に及第したるものは四藝(弓馬槍剣)総免許に同じき資格あるものとして、これを登庸するの道を開たり。是に於いてか寛政、文化、文政、天保、弘化、嘉永に至りては、幕府の大小官吏には聖堂の及第出身のものあるを見たりき。然れども其數寥々にして未だ幕府の大勢を撼かす程の事はなかりしなり。しかるに嘉永六年亜米利加使節渡来に付き、安倍伊勢守を初として閣老参政はまず誰をして此外国談判の任に當たらしめん乎と見廻したるに、幕府數百千の多きも概ね皆俗吏の勤仕年限に由て昇進せる輩のみにて適當の人物を得ること能はず。但し長崎奉行を勤めたる者は幾分か外国の事情にも通じたり、又林大學は御儒者にて朝鮮使節、琉球莱聘の御用筋をも勤むるに付き、其等の人を以て其任に充て、別に幕吏中にて壮年有為の人才を挙げ、非常の抜擢を以て是を奉行御目付等の重役に任じたるに、此抜擢せられたる人物は即ち及第出身の輩にして程朱宗門の正統論學者連中なりき。此輩が一日要路に上がるや、其平素読書上より感得したる知識才略を発露するは此時に在りと心得て、幕府累代の政略を回顧するの遑もなく、また他日の結果如何を熟考するの慮も無く、和戦は日本の大事なり宜しく諸侯の意見を広くを聞くを必要なりとすべしと論じたりき。此時に當たりてや將軍家慶公(慎徳院殿)は六月二十二日を以て崩御ありて(表向きは七月廿二日の崩御)右大將家定公(温恭院殿)御継承あり。安倍伊勢守は原来家慶公の信寵を得て閣老の首座に立てる人なりしが、今や亞國使節渡来して国事多難の時に際し將軍薨去し玉ひ、加ふるに新將軍家定公は凡庸の君にてあれば策の出る所を知らざるに、恰も此及第出身の新官吏は諸侯に謀るべしと勧めたるに由り、渡りに船を得たるが如き思いをなして是亦同じく他日の遠きを慮るの餘裕なく、此年七月朔日を以て亞國の書翰を大小名に示し、其意見を求めたるもの歟。

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