幕府衰亡論
 ◎第四章
  幕府和戰の評議
   諸大名の答議 主戰説 平和説 中間説の事情
   幕吏和戰両派の事情
   水戸主戰説の事情

幕府は右の如く亞國の書翰を大小名に示して意見を求めたるに、此年七月十七日に魯西亞國軍艦四艘使節布恬廷を載せて長崎に来たり、魯西亞國皇帝の戰書を持参したり。長崎は従来外戰船渡来の定港なるが上に江戸に遠隔したるを以て、魯國使節渡来も戰家の大事は大事ながら幕府は亞國軍艦が江戸湾に来たりし程には思はず、筒井肥前守、川路左衛門尉を長崎に派遣し、奉行水野筑後守と共に魯國使節渡に談判せしめたり。其時幕府の閣老より魯戰大臣へ遣はしたる返翰に、矧我君主新嗣位百度維新如斯等重大須要奏之 京師諭告之列侯群官共同商議議定而後従事顧勢不獲弗費三五年之時月とあるを以て、當時幕府が已に京都奏聞と諸侯会議に重を置くを辭柄として外戰に對したるを知るべきなり。斯の如く諸侯に謀るに和戰の儀を以てせしは前章に述べたる結果にして、所謂幕吏が苟且姑息の計らいにて、一面には之を以て外に対するの口實となさんが為なるに相違なきも、亦一面には幕府は和議を好まざれども大小名諸役人の衆議たるが故に不得止これに従う者なりと云ふ假面を粧はんが為に此手段を試みて、其的の外れて禍を醸したるものゝ如し。今日に在りて癸丑甲寅の當時を論ずる史家の中には、往々幕府を以て和親開戰の主義を抱持したるものとし、幕府が列藩諸侯の主戰論を擯斥して平和政略を斷行したる者なりと断案するもの有りと雖も、これ亦大いに其眞相を誤りて実勢を知らざるの説なるのみ。余が親しく見聞する所を以てすれば、幕府が外交に平和策を執たるは和親の利を詳にするにあらず、外戰を恐怖せるに由て是を避けんが為なり。また大小名諸役人の多數が外交拒絶の戰論を主張せるも、我には外に対して戰を開くべき軍備ありやを詳かにせるに非ずして、主戦の勇を衒わんが為なりと云はんと欲するなり。
今日にてさへ海陸の軍備は未だ十分に充實ならざるものを、矧や嘉永安政の頃に我に何らの軍備あらんや、荻野流の百目玉や古風なる銅の石火矢にて外國の軍艦に敵し得べしとは誰も信ぜざりしなり。但し外戰の軍艦を見たる事のなき人々の中には、短兵接戦は我が長技なれば小船にて敵船に乘附べし日本刀を振て帆綱をば素麺を切るが如くにズタ〳〵に打ち切るべし敵船の兵士等を西瓜を切るが如くにサクリ〳〵と切り捨つべし鐡の鑿を敵船の腹に打込みて穴を明け水船たらしむべし塵芥を上流より流して敵船の蒸気の運転を中止せしむべし風上より焼草を積みたる小船に火を掛けて押し流して敵船を焚打にすべしなどヽ奇効新書や海戰兵談にありそうなる兵略を談ずる輩もありしかど、斯る児戯に比しき兵略の行はるき乎、行はる可らざる乎は一度外国船を目撃したる者には知り易き事にてありき。されば當時亜米利加軍艦渡来の初より外國の事に與りたる幕府の官吏にて戸田伊豆守(浦賀奉行)、井戸石見守(浦賀奉行)、林大學頭(御儒者)、堀織部正(御目付)、川路左衛門尉(御勘定奉行)、江川太郎左衛門(御代官)、松平河内守(御勘定奉行)、筒井肥前守(大目付)、水野筑後守(長崎奉行)の諸人等は、假ひ其中に表面にては拒絶論を吐きたる者ありしにせよ、其内心に於いては開戦の為し得べからざるを知り得たりしに相違なかるべし。其人物を見てもまさかに是程の事を知り得ざる愚物には決して非ざりしなり。然れども此輩とても明識卓見の豪傑と云ふにも非ず。又時勢に戻り群議を排して和親を主張し得べき地位の人にも非ざれば其内心の如何は扨置きて先づ其時の勢いに従はざるを得ざりしならん。依て此幕府の重立たる面々と閣老安倍伊勢守、牧野備前守、松平伊賀守、久世大和守、の諸人と内儀を盡したる主意は、到底戦争は不可なりと雖も幕議を以て和親と決しては時論に背くの恐あり、故に先づ諸大名諸役人をして和議を主唱せしめ次に幕府は主戦の本意なれども枉て祝儀に従ひて開戦を見合せ暫く和親の方針を執るべしと布告し以て内外を瞞着すべしと云う権謀を心底に包蔵し、乃ち七月朔日を以て諸大名諸役人に和戦如何の意見を問ひたるなり。然るに此の権謀は早くも諸大名諸役人に看破せられ、諸大名諸役人の中には思の外に主戦論を唱ふるもの多く、其多数は和親を不可なるとするに帰すべき勢なりければ、閣老及び此機密に参與したる幕吏は大に驚き、左ありては大変なりとて是より手段を運らし大小名に内諭して和親説を出さしめたり。もちろん当時の大小名は何事にもあれ幕府の御沙汰と云へばこれを尊奉して背く事無く、斯る場合には密かに留守居役を以て要路に就き、幕閣の内意を伺ひ御内意に敵ふ様なる趣意を上申するの例もありければ、閣老参政要路の内諭に従ひ其旨を奉じて和議を可とするの建言を差出したる諸侯も尠なからざりき。然れども大藩の向は此内諭を聞かざる而已ならず、二百五十年來天下の政治に口を鉗したるが今日こそ其緘黙を解くべき時節到來したるなれ、豈に閣老の内諭に従ふを要せんや、我が驥足を展ぶるは今日なり、主戦論を建言して武勇の美名を世間に博するは此時なり、と云ふが如き心得にて頻りに和議を排して拒絶を主張したる諸侯もあり、又其藩主も其藩士も相倶に各々内心にては戦争を不可なりとは知ったれども、其不可なるを我より先ず発言しては卑怯に思はるゝの恐ありとて、互いに相慮って和を言はざる諸侯もありて、其状況は此年の七月より十月までの間に諸大名、諸役人、旗本等より幕府に呈したる意見書を見て其確乎たる定見なかりしを察するに足るべきなり。
斯の如く閣老の評議は原來己れ和せんと欲してまず言うを憚り他人をして言はしめんと巧みたるが故に、他人に其権謀を看破せられて却て主戦説の為に苦しめらるゝ者なりと云ふべし。然るに十一月朔日の達しを見るに、猶和議に決着の趣を明言するを憚りて依達の間に天下の人心を籠絡せんと望みたるは、実に浅ましき窮策なりと云はざる可らざるなり。而して和戦の決に關して、當時重立たる諸大名の意見書に就いて其大要を摘載せんに、
(尾張)若し理不尽に及び候はば日本闔國の力を盡くし半歩も不退安危を一戦に決し候より他は無し。(水戸)通商後許容に候はゞ平穏の様に候へども後來の患は彌増申。○御内御武威御含之表向音便の御取計に候はゞ夷人ども畏服可仕候。(一橋)都て願筋不叶趣相成候方可然。(越前)書面の趣御斷はゞ戦艦差向け候儀難計に付必戦の積にて専ら非常の御処置専要之御儀に奉存候。○且上様并諸御住居も当分の内甲府へ御移被遊候方可然。(長州)願の趣は夷賊共の心膽を打摧き候程にも堅く斷り防禦の御手當嚴重に仰附られ、渡來外夷の覬覦を相斷候様仰付られ、候方萬全の御策に候。(肥前)今昇平久しく士氣振はず夷狄釁を伺い候事御國体に關係いたし候儀断然御打拂いに相改められ昇平の渝惰の士氣を御一振。(阿波)通商堅く御制禁可然。(南部)彼若押我意申募放蕩亂入の所爲に到候時は手強く御打拂候て近海へ寄候事不相成様嚴重の御威勢御示可被成。(桑名)御國辱を忍ばせられ御國躰を失はせられ通信通商御許容之儀は御職掌に對せられ決して有間敷哉奉存候。(二本松)交易通信は古來よりの國禁にて新法の儀は不相成、若軍艦を以て威し來候共國力を以て打拂可存候。(信州真田)萬一御勝利無之とも彼が願い筋御聴届は後の大患夫に比べれば御打拂は一時の小患。(沼津水野)外夷の通信通商は元來の大法にて所詮御取上被遊候儀とは不奉存候。
右の如く拒絶の主戰論は諸大名にて其數甚だ多かりしが、是に反して平和論を唱えたるは、
(津山)長崎にて一地を賜ひ商館を開き交易御取結邪宗戒愼を加へ和蘭人同様に御取扱候て宜敷これあるべく候。(加州)書翰の表にはては敢て無理なる筋とも相聞え不申候間此方より無理に打拂等に相成り候ては暴なる御仕向に相當り可申哉、且つ禍を引出し候便とも存候に付重ねて渡來の節は穏便に仰聞られ取扱可然候。(宇和島)暫時交易を免し。(筑前)まず年限を定め長崎に於て和蘭同様通商御免。(武州忍)先々穏便の御處置の外に後良策有之間敷。(中津奥平)交易の儀御許容の方後來太平安寧の事に奉存候。(佐倉堀田)先交易御聞届十年も相立深く國益に不相成候はゞ其節御斷。(掛川太田)交易米一ケ年何萬石と相定め右高の内を以て公益可然。(越前村松堀)御手切御無用。(美濃八幡青山)交易御許容可然。(備中足守木下)萬人戰闘の煩勞を免れ彌昇平を相唱候はゞ無此上恐悦の御儀と奉存候。
右の如く和議を主張する諸大名もありて、甚しきは依違の間は延期説を唱ふるものもありき。例へば、
(川越)海岸御備筋夫々行届候までは廉立候儀を相延漂流難民は御憐恤成遣はされ可然哉。(薩州)乍然來年渡來の節直に御斷相成候ては戰爭の端を開候も難計候へば、成たけ年を延し候様に據無き御譯柄を仰聞られ候て帰帆仰付られ度儀と奉存候。(藝州)不用意儀海岸御警衛向等の儀品に寄り權道の御處置も是可有哉。(彦根)石炭は他邦の求に應じ難しと一時權道を以て御返答有之、其他は文化夏露西亞の御振舞を以て能く御曉解仰渡され可然哉。(伊豫今治松平)お代替の砌に付三年父の道を不改と申譯を以て御返翰有無の御返答これ無くて差延、三ケ年の間に武備御取立可然哉。
要するに諸大名の建議する所は主戰論を唱ふる者も敢えて勝算あつて云爾ふに非ず、また平和論を唱うる者も和親貿易の利を知て云ふにも非ず、況や中間説の如き其實際に行はる可からざるは知者を俟たずして明成るに於いてをや、安倍伊勢の守を始め當時幕府の内閣が斯の如き貴族院の意見に會い困却したるの条は想像するに餘あるべし。此上は幕府の要職に列したる諸有司の意見如何と顧みれば、其時の寺社奉行には本多中務大輔、松平豊前守、太田摂津守、安藤長門守、松平右京亮、町奉行には池田播磨守、井戸對馬守、御勘定奉行には石河土佐守、松平河内守、本多加賀守、川路左衛門尉が三奉行連署の建議には、御備向嚴整いたし候には如何様に厚く御世話有之候ても一兩年の間には行届間敷候、夫迄の間は一時權宜に從ひ繫置候様御計策を以て爭端を開かざる様に御仕向有之度と云ひ、又其當任者たる浦賀奉行井戸石見守は、今般願之趣并に個条の内何とか御許容無之候ては承引仕る間敷奉存候と云へるは、幕閣をして和議に決心せしめたるに力ありしなり。左れば同じ幕府の中にても大番頭加納遠江守、久貝因幡守等は御論之趣承伏不仕候節は速に打拂仰出さるべし、若危安の御處置に成行候はゞ御爲宜しからずと奉存候と云日、御目付戸川中務小輔、鵜殿甚左衛門、大久保一郎兵衛、堀織部らは何れにも程よく御見切りにて御手切れに相成不申候ては機會去り、天道人心共に撓み往々如何と扼腕切歯に不堪奉存候と論じたれども、幕閣は三奉行の儀を納れて和議には決したりき。
然れども彼の閣老輩は素より和親通商とは如何なるものと云う事を知らず、加ふるに世論は概ね擧げて主戰説を快なりとして曰く、夷狄無禮厭く事を知らず、曰く通信通商は國家の大患なり、曰く春秋城下の盟を耻ず、曰く弘安の英斷は我神國の典型なりなどと、此節の青年壮士の政治論よりも一層迂遠なる説を吐き、諸藩士、諸浪人、儒者、書生は云ふに及ばず、現在幕吏にても此説を主張するもの多かりければ、閣老と雖も三奉行と雖も幕府は斷然和親説なりと發言するを憚り、其上に前章に述たる如く諸大名の多數をして平和説を言は紙面と望みたる謀は徒爲に屬し、却って憗ひに處士横儀の弊を招きたるに由り、一時の權宣、一時の權道と云へる文字を捜索し來たりて、幕府は外國に通信通商を決して許さゞるの國是なり、彼もし我國の拒絶を怒て戰を開かば我は斷然これに應ずべし、然れども是に應ずるには海岸防禦、軍艦製造の準備を必要なりとす、此準備には數年を費やさゞる可からず、其間は辭柄を搆て依違の間に外國を恩諭すべし、聽かざれば一時の權道を以て薪水食料上陸休泊等を許すべし、又一時の權宣を以て制限を立て貿易をも許すべし、斯て其中に我國の兵備を充實し其上にて拒絶の手段を行なひ。膺懲の典を擧げて以て我神國の面目を全くすべしとたくみに對面を假粧し、以て人心を籠絡せんとは謀りたりき。而して此籠絡は豈當時に其効無かりし而已ならず、後年幕府に大難を與へたる攘夷論は實に此時の假粧國是に胚胎したりと云はざる可からず。
右の如き幕閣の假粧國是は蓋し彼の三奉行並に當時幕吏の重立ちたる面々を以て組織したる海防掛一同の出たるもの歟。これ即ち幕閣と水戸老公(中納言斉昭卿)と大いに意見を殊にして遂に乖離に及びたる原因なるべしと思はるゝなり。抑も水戸老公の事に就いては言ふべき事は極て大かるが中にも攘夷と言へば當時にても今時にても恰も水戸老公を以て其開山本尊の如くに申せども、余が聞く所を以てすれば水戸老公は決して無謀の攘夷家には非ず、其實外交の眞面目を会得せし豪傑なり。其極意は閣老等が如く初めより和議々々と云ては外國の為に如何なる要求に會いて我國の不利を永遠に招かんも知れず、故に我は彼もし我が謝絶を聽かざれば彼が攻撃に應じて戰ふべしと云ふ決心を十分に定め然るの後に談判に係るべし、我に戰負の決心あつて和するは即ち和なり、其決心なくして和するは和に非ずして是れ降なりと云ひし人なり。其證據は老公が嘉永六年七月十日を以て閣老安倍伊勢守に差送りたる海防愚存の中に、 八日にも申候如く、太平打ち續き候へば、戰は難く和は易く候へば、戰に御決めに相成り天下一統戰を覺悟いたし候上には和に相成り候へば夫程の事は無く、和を主に遊ばし萬一戰相成候節は當時の有様にては如何とも被遊候様無之候へば。去八日御話候事は海防掛ばかりへ極密に成され公邊に於ても此度は實に御打拂の思召にて號令いたされ度く、下に和の事有之候ては又自然他へ洩聞え候ゆゑ、拙策御用ひに相成候事も候はゞ和の一字は封じ候て海防掛ばかり而已に致し度事に候。右ゆゑ本文には和の字は一切不認候。
とあるを見て知るべき也。然れ共老公の望まれたる所は、上に英主ありて賢才の政治家これが閣老たるに非ざれば、我にも彼にも十分に戰争と思はせて置て倐忽の間に談判を整へ和親を結ぶと云ふ事は迚も成し得べからざる也。安倍閣老は良相にてありながらも、猶外國談判の事は是を外国掛、海防掛に委任して自ら外国使節に面談せし事無きが程なれば、況や其他の閣老に向ては敢えて此斷行策を望む可らず。加ふるに前将軍家慶公(愼徳院殿)薨じ玉ひ、家定公凡庸の器を以て新たに大将軍となり玉へるの時なりければ、幕閣は老公の策を是なりとしても之を行ふに由なきが故に、遂に其籠絡策の拙を行ひ、内外の識者には幕府の内兜を見透かされしぞ是非なき次第にてありき。斯りしかば老公には幕閣が假粧國是の達しは幕府の政略已に和議の偸安策にあること明らかなるを見て、此時より對外政略の主義を異にするものとして自らも幕儀に參與するを避け、幕閣も亦老公を敬して遠ざくるの手段を用ひ、老公をして専ら軍艦製造又は大砲製造の事に心を寄せさしめ他力。而して世上の知らざるものは猶幕府を以て来年亜米利加船再渡の節には或いは打拂にも及ぶべき政略を取るものと認め、往々其和戰如何を慮理、俗諺に所謂盗を捕へて縄を綯ふが如く俄に武備を整うるに専らなりし大小名も尠からざり志賀、是等は翌年に至り己が愚を悟らずして却って幕府が反覆の政略を執りたるを恨みしに至りき。