幕府衰亡論
 ◎第五章
  幕府の外交政略
   幕府の假粧國是 瞞着手段 詐術政略の事情 
   亞國横浜條約及び魯英蘭和親の事情
   和親拒絶の二黨派

幕府は和戰曖昧の間に時論を籠絡し去らんと欲したる所に、嘉永七年甲寅(安政元年)正月11日を以て亞國使節彼理は八艘の軍艦を率て浦賀に乘込たりければ、幕府は更にその驚愕を増したりき。是より先き去年亞國使節渡來の節談判の末に、然らば來春來りて返詞を承るべしと申出たりし時に幕府の官吏は之に答へて、承知いたしたり、諾否の決答は來春いたすべし、尤も其節は長崎に參らるべしと達し引拂ひたる事なれば、來春は再渡すべき筈なれども、(第一には)彼數千理を隔てたる亞國より再渡する事は先ず無かるべし、是迄外国使節の船が再渡と云ひ再渡せざる事度々なりし例あれば此度とても其通りなるべし。(第二には)浦賀并内海には來るべからず、再渡の節は長崎へ參るべしと達し置きたれば、若し再渡するならば必ず長崎に來るならん。(第三には)良しや再渡すると申しても來春早々には非ざるべし、其時までには長崎にて魯国使節応接の模様も相分かりこの方の見込みも相立つべしと、幕閣は恃むべからざるを恃み、加ふるに歳晩歳首の儀式どもに忙しくて取紛れて居たる所に、何ぞ計らん亞國軍艦は正月早々約束の如く浦賀に來たれば、扨はとて幕閣は足邊より鳥が立たるが如くに再び狼狽に及びたり。然れども事已に此に及びたる上は、若しも亞國軍艦に江戸内海に乘入れられては容易ならずと、御儒者林大學頭、大目附井戸對馬守、御目付鵜殿民部小輔等を應接役に命じ、急に浦賀に赴き浦賀奉行井澤美作守、戸田伊豆守、と相議して談判に從事せしめ、極秘にては穏に談判を遂ぐべし、決して兵端を啓く様の應接を為すこと勿れと訓令を授け置きながら、一般に向けては尚も彼若し我が説諭に從はざれば開戰すべしと云ふが如き假粧を示して、江戸内海の沿岸防御を諸大名に示し、開戰の節の心得方を御三家並びに大廣間溜詰の諸侯に触れ、旗本諸士の部署を定め、兵粮の用意、人數の手配に到るまで左も幕府は和を好まず、何時にても應戰の國是を取って動かざる者なりと云ふの外形を飾ったりき。試に安政元年春初めより三月に至るまでの間に幕閣が發したる命令を閲覧せば、余が言の虚ならざるを證するに餘りあるべし。
斯る中にも眼を轉じて長崎に於る魯使の應接を顧れば、筒井肥前守、川路左衛門尉、水野筑後守の諸人が露国全權布恬廷と數度の應接を重ねたる末に於て。通信通商の事は追って確答いたすべし、蝦夷地の兩國境界は實地に就いて取り定むべしと云ふ事にて其局を結びたるに因理、江戸表に於ては亞國に向かいて左も開戰に及ぶべき躰を示しながら、其匇劇の間に安倍閣老が正月十三日を以て松前藩に達したる書面には、「魯西亜國より蝦夷地内に上陸のもの有之由、右は外に疑念の筋等無之旨長崎表に於いて彼國使節のもの書面差出候間、此方より率爾の掛合爭論等に及ばざる様彼地へ申越すべし。尤近々蝦夷地境界見分として役々の者差出し候。右に付其以前万一此方の者魯西亜國より差越候ものと闘爭等有之候ては以の外の事に候間、此旨能々家來に申論候様早々可申遣候」とあり、和親を結ぶとは陽には書ざれども、其已に魯國に許すに和を以てするの方針は此達書にて歴然たりき。然れども慧眼の識者を除くの外は此時までも猶、幕府は殊に寄らば戰論を取るならん歟と想像して、これを邀迎する輩もありしなり。
扨又幕府の全權たる應接役は浦賀に至り、鎌倉の光明寺を應接の場所と定めて面會せんと申込たるに、欽差大臣は其國の京城に赴き宰相に向て談判すべき者なりと論じられ、て彼理が斷然たる決心の動かす可からざるに驚き、且は凛然たる軍艦の示威に恐れ、正月廿九日も以て林大學頭、井戸對馬守、井澤美作守、鵜殿民部小輔、松崎満太郎等は浦賀を發し神奈川に來たり、亞國軍艦の來るを待ち受けたり。此時林、伊澤等が彼理を浦賀に抑留し得ずして其神奈川に入るを諾したるは臆病なり、専斷なりと幕府中にても頗る批判ありしと雖も、外國の全權が京城に入るを拒みて和議を整へん事は固より成し得べきの理なきのみならず、彼若し強いて聽かざれば横濱邊に於いて應接すべしと云ふ事は兼て幕閣の允准を得ての異なりき。現に當時林等が上申書中に、夷人共は江戸表へ罷越す決心の様子にて、彼是仕候ては彌々應接手間取候故、兼て御下知の趣も御座候間大學頭一同申合浦賀出立神奈川表へ出張仕り候とあるを以て證とすべきなり。
亞國軍艦は正月廿八日を以て浦賀を發し、本牧を越えて神奈川灣に投錨したりければ、幕閣は其瞞着政略の馬脚を顯すに從てその狼狽も益々甚しきを極めたり。若も亞國軍艦が此上にも羽田の洲を廻りて品川沖に乘入る事もやあらん。談判一たび破れなば江戸は彼らが大砲にて黑烟に成る事やあらんと恐怖し、神奈川より江戸に至るまでの間に數多の見物を配置し、注進櫛の歯を引が如し。既に将軍家の御城に於ては唯今夷船ども江戸に向かい候との注進あれば、夫はと驚きて騒立て、唯今夷船ども浦賀の方に向かい候との注進にて先ず安心と落付たること毎日數回に及びたり。後に能々其向背の變ぜる因由を極めたれば、潮汐の差引きと風の模様とにて軍艦が錨を投じたる儘にて其方向を左右し、前後するを見て斯は注進したるなりと云へり。此事今日より考ふれば児戯に此しき諧謔に似たれども、當時の事情にては實に左も有りしならん。以て上下一般に周章したるを推知すべきなり。却説幕府の全權等は彼理と初めて二月十日を以て横濱に應接を開き、三月三日に到り有名なる横濱條約に調印したり。此れ即ち日本に於て外國と條約を結びたる嚆矢なりとす。此條約は十二箇条より成立て、其簡短なるは殆ど予議條約の如くなれども、永世の和親を約し、下田、函館の兩港を亞國船の為に開き薪水食料、石炭欠乏の品を求むる事を諾し、亞國の官吏を下田に駐在せしむる事を許したる條約なれば、和親貿易條約の根本となれる條約なりき。條約已に調印し畢りたれば彼理は三月十三日を以て軍艦を率いて神奈川灣を發し直に下田に赴きたり。依て林大學頭等は江戸に復命して條約書を表向きに差出したるに、已に談判の際に全權等より内稟したる條約草案を見て事情不得止と承認したれども、水戸老公は此條約決して宜しからずと其時に異議を唱えられしに由り、條約發表の時よりして幕府の内部に於ては明かに和親と拒絶との二派に分れ和親派は當局の官吏にして拒絶派は非職閑散の面々と自ら其色を異にし、他日の禍源を此時に啓きたりき。
彼理が横濱の談判を今日より觀れば、(一)当時の主權者たる将軍家に拝謁するを許されず、(二)内閣大臣たる御老中に直接の談判に渉らず、(三)京城たる江戸に參向することを拒絶され、(四)全權大臣に對する禮遇を得ざること等、許多の不都合なる取り扱いを日本より受けたれども、未開國に接するには文明國の典例を以て規す可らずと云へる變通の道を以て堪え忍びて遂に條約を結びたるは、始終平和を謀るの目的に出たるや明らかなり。然るを當時我國の拒絶論者を擧げて夷狄無禮の一語を以て此を斷案し、仇視敵視するに到りしものは、前に述べたる幕府が時論を恐れて應戰主義の假面を装いたる近因と彼の漢學者流の夷狄論が煽動したる遠因とを以て攘夷精神を養成したる者なれば、後年攘夷の禍は到底幕府が自ら醸成したる所なりと云はざる可からざるなり。斯て其後幕府は猶も其和親の跡を掩わんと欲し、四月九日を以て布達したる文には今度渡來の亜墨利加船内海を退帆致し候然る處滞船中彼是自儘の所業有之候より意外の兵端を相開き候儀も難計候に付夫々御固仰付られ候へども船戰の御備向も未だ御整ひに相成らざる折柄なれば余儀なく平穏の御處置に成置かれ彼此志願の内漂民撫育並びに航海往來候砌薪水食料石炭等船中欠乏の品々被下度との儀を御聞届に相成り候處場所の取極無之候ては何國の浦方へも勝手に渡來し不取締に付豆州下田港松前の函館に於て被下候積に候當今不容易御時節に付兼て被仰出も有之候通り質素質儉を相守り此上海陸の軍事一際相勵み若し非常の儀も有之候はゞ速に本邦の御武威相立候様心掛らるべく候とあり、是に於てか幕閣は欺罔手段を以て瞞着政略の過を遂げんとは試みたり。彼の幕閣は其初や戰ふの狀を粧ひ、故さらに諸大名諸役人の意見を求め以て多數をして和を主張せしめんと謀り、其次には閣議已に分明に和と議決しながら是を押し隠し、請求の諾否を云はずして平穏に取計ひ聽かざれば戰ふべしと云ふが如き意味を示して時論を籠絡し、其次には内々にて和議談判の訓令を全權等に授け置ながら表面には戰備を成して一般を瞞着し、其次には日本亜墨利加兩国の間に於て和親航海貿易の條約已に成りて復動す可からざるに至れるを猶も其條約を秘密にして一般に示さで恰も一時の許可に止まるが如き狀を假粧し、其海陸軍備さへ整はゞ何時にても開戰すべき意味を示して欺罔せんと欲したり。其初めはいざ知らず、もはや此時に及びては幕閣の秘計は正しく明白に顕晴れたれば、誰か復その籠絡瞞着に欺かるゝ者あらんや。抑も徳川幕府が家康公以來實施したる政略の跡を察すれば、權變壓制の論ずべきもの尠からずと雖も、慶長元和より天保弘化に至るまでは未だ曾て如是の詐術を用ひたる事を見ざりしに、是時に至て初めて此詐術の窮策あるは、是即幕府衰亡の末期到來したる機會なりとは知られたり。天下人心幕政に倦て是に乖くの端を開たるも亦宣成らずや。抑も其後四月に至り、林大學頭等は下田に赴き更に談判に及び、五月廿二日を以て横浜條約の付録十二ケ条を取結び調印したりければ、日亞の條約は愈々其歩を進めたり。次に魯國談判の事は去年筒井、川路、水野の諸人が折角長崎にて依違の間に應接を了りしに、今や江戸に於ては却て亞國に對して横濱條約あるに至れば、右の談判も都て畫餅になりて、魯国は自ら亞國同様の地位に立つ事とはなりにき。次に荷蘭は七月一日を以て爪哇都督より専使を汽船に乘せて長崎に來たらしめ、亞國、魯国に許されたると同様の取扱いを和蘭にも與へらるべしと乞橋目、次に英國軍艦は七月十五日を以て長崎に來り、八月廿二日の條約を以て和親貿易を予約したりければ、幕府は亞、蘭、魯の四國の為に長崎の外に下田、函館を開く事とは相成つたり。外に對する所は凡そ斯の如き。請ふ、再び眼を轉じて當時の内政は如何の狀況に陥りたるかを次章に説かん。