十一     

幕府衰亡論
 ◎第六章
  幕府の内治政略
   幕府文武の改革 
   水戸老公 薩摩宰相
   御臺所入與の事情
   御養君沙汰の端緒

幕府が外交における情勢は既に前章に述べたるが如し。然れども幕府は和親に一時を弥縫せる而已にて、内政の改良の如き、武備の整頓の如き、敢て盡く束閣して之を謀らざりしには非ず。幕閣は其力の及ばん程は是を挙行せんと勤め、御家門にては水戸老公、外様にては薩摩宰相等、有爲の方々へは破格を以て相談に及びたることも尠からざりき、例ば、従来江戸十里四方に於ては發砲を禁じたるの制を止め、諸藩邸内の調練を許し、鐡砲を江戸に運送することを許し、大船製造の禁を解き、大森に大砲町打場を設けて演習せしめ、品川の砲䑓建築に着手し、鳳凰丸等の軍艦を造り、薩州の昌平丸、水戸の旭丸などの造船を喚起し、講武所を江戸に開き、新たに銃隊を編成せしめ、和蘭國に汽船を注文し、長崎にて海軍傳習を起こしたるが如き、才學の人才を抜擢して幕府の顯職に任じたるが如き、幕府の舊例にして虚飾に属するものを省略し、無用の献遺を廢し、宿弊を矯正するに鋭意なりしが如き、今日よりして見れば頗る不十分には相違なしと雖も、二百五十年来驕奢の引き続きたるが爲に常に財政に困難を感じたる幕府の經濟にして又は舊例古格を金科玉条の如くに墨守したる幕府の習慣にしては、實に果敢の英斷を行へるものなりと云はざる可からず。左れば嘉永六年亞船渡來より安政三年まで、凡三年半の間に於て幕府が實施したる非常なる長足の進歩は、當時の歴史に昭然たり。然らば則ち明治今日の文明は其実この時に於て其端を啓きたれば、文明の功に關しては阿部其他の幕吏に向て其勞を追謝し、其功績を記念して可なり。
斯る狀況なりしかば、諸藩の大小名は幕府の所爲に奬励せられて各自に応分の進歩を謀るに汲々たりしを以て幕府が英魯蘭佛の四國に向て亞國に同じき特典を與へ、長崎、下田、函館の三港を開き現に和親を通じたるに係らず、敢て別に熱心の異議も無く、甚しきは嘉永六年に切論したる攘斥論をも忘却したるが如くなりき。故に安政三年に亞國総領事兼外交官トウンセント、ハルリスが下田に渡來し、其翌四年江戸に出府せし迄は、拒絶論も攘斥黨も暫く其跡を斂めたり。而して世の所謂攘夷論は安政四年より五年に渉てさらに新主義を以て興起したる者なり。其事は次を追て演ぶべきなり。
却説安倍閣老は一人を以て内外の衝に當たること容易ならざるを以て、堀田備中守を擧げて再び御老中に就任せしめて己れが上席に置き、外國御用取扱并に海防月番を専任せしめ(安政三年十月の事)己は内政の事を専務に任じたり。或る史論家は之を評して、阿部は外交困難の地位を避け、其禍を堀田に嫁したる者なりと言ふと雖ども、敢て然るに非ず。安倍が堀田と共に内治外交を分担し其責を辭せざりしは事実に於いて昭かなるが上に、當時の重責は外交よりも寧ろ内治に多かりしを以て之を知るに容易なるべし。扨も阿部閣老は前にも云へる如く、前将軍家定公の閣老とは成られたるが、熟々當時の勢いを察するに、外交の一大問題は目前に横たはりて幕府が尤も英斷を行はざる可からざるの時なるに、第一に望を屬するの将軍は凡庸の器なれば迚も将軍の独裁を侍すべきに非ず、去とて天下の重望を得たる人あって之を助くるに非ざれば此難局を調理する事は爲し得べからずと思惟して、列藩諸侯を顧れば、水戸老公と薩摩宰相の兩侯の上に出ずべき人物は無かりき。尤も老公も夙に安倍の與に謀るべきを識り深く交を通じたれば、阿部は老公を勸めて後政事御相談に参與せしめ、和戦の決にて意見合愜ずして老公は政治を與るを辭したれども、阿部は巧みに之を慰藉して海防の事を掌理せしめたれば、安倍が在世の間は老公は太しき不滿を幕府に懐かれざりき。而して阿部と老公との間の交際は、其深淺如何を知るべきの證據あり。この兩侯の間に往復せる書簡則ち是なり。(是は新伊勢物語と題して水戸老公と阿部閣老との往復書簡寫にて数巻あり、現に水戸侯の秘書なり)。扨又薩摩宰相(齊彬卿)は當時強藩中第一等の明君と知られたる人なり。従来幕府が諸藩に對する、殊に外様の強藩に對するや、常に嚴正の方略を執り畏怖瀬しむるを旨としたるなれば、其交際は固より疎遠なり。執中薩摩の如きは關ヶ原の恨は薩摩が忘れざる所なりと推量して、幕府は最も之を外様視し、すでに水野越前守は幕府を滅ぼすものは必ず薩摩ならんと豫言せし程なれば、薩摩は幕府が近づけざる所たりしに、阿部閣老は此の舊慣の疎遠を打破り、薩摩宰相を引き入れて幕府を補佐せしめんと望み、徐に其疑を通じたるに、薩摩宰相も亦日本の爲に今日の長計は幕府を佐けて國家の元氣を振興するにありと信じ、薩摩と阿部との交際はついに親密にてなりければ、薩摩は其製造の軍艦を幕府に献上し、臺場見分を名として閣老を芝田町の邸に招じ、専ら幕府に隔意無からん事を務めたりき。若し薩摩宰相と阿部閣老とをして其壽を永からしめば、水戸をも乖離せしめず、安政五年の変も無かりしならんに、薩阿兩侯倶に世を早くせられたるは幕府衰亡の運なりと云ふべき歟。斯て阿部閣老が薩摩と親密にしたる結果は御䑓所御入輿の事なりとぞ。是より先當時将軍家定公は世子にておはせし時に鷹司關白政道公の御娘を娶り玉ひしに、嘉永元年に薨去ありき。次で一条前關白殿の御娘を再娶ありしに是も程なく薨去ありしかば、安政三年十一月を以て薩摩宰相の御娘篤姫君を娶て御䑓所には立たれたり。此御入輿は専ら阿部閣老の計ひに出て、薩摩に於ては此が爲に莫大の費用を耗して其粧奩を備へたりき。然るに家定公が癇癖の強くして其實男女の交りを爲し得ざる病質ありし事は、當時世間にても之を知る人ありければ阿部閣老にして知らざる理なきに、これを知りつつ猶篤姫君を迎へしめたるは、全く政略上の婚姻たりしに外あらざるべし(後に天璋院殿と稱したるは即ち此御方なり。此時實は薩摩宰相には女子無きを以て末家の血筋より此御方を迎えて其女となし、更に近衛殿を表面の養父になして御入輿せしめたるを見ても、薩摩が此政略婚姻に其力を用ひたるを知るべし。)
此に此婚姻と同時に否、寧ろ是より先に起こりたるは御養君の沙汰なりき。當将軍家定公は安政三年には三十三歳になり玉ヘリ。未だ 御養君を要させ玉ふべき御年齢には非ざるに、其将軍職の程も無く御養君は誰なる乎と取々の沙汰ありし所以のものは他なし。今日の時勢は英主を要するの時勢なれば年長賢明の御養君なくては相叶ふまじ、其御養君定まる上は當将軍の凡器は大御所として御隠居せしめ、御養君の明主をして早く継承せしむるに若かずと、我も人も心ある者は思惟したるが故なりき。此時に當りて専ら諸人が嘱目したる御養君の候補は一橋刑部卿殿にてありき。刑部卿殿(慶喜公)は水戸老公の御子にて、前将軍家慶公の台命を以て一橋家の御相続となされられし方なり。抑も一橋は御三卿の其一にして、家慶公の御父徳川家十一代の将軍家齊(文恭院殿)の出させられたる家なれば、刑部卿殿が其相続と定められし時に、扨こそ将軍家(家慶公)には御子家定公の凡庸にして子なきを知召て此卿をば家定公の後を承さしめ玉はんとの思召なるべしと推察したり器。最も家慶公には刑部卿殿の才智を愛し玉ひて一橋相続の台命を下されし程なれば、其意ありしは疑いなきが如し。すでに刑部卿となられて後に夏日會て御浜御殿に陪遊ありし時に、家慶公は刑部卿殿が麻の丸袖の襦袢を召されたるを御覧じて、将軍家は丸袖の夏襦袢は召さぬものぞ(将軍家の夏襦袢は半袖なり)とて其袖を引かせ玉ひし事ありき。これを見て侍りける人々は、家慶公には愈々此殿を他日の将軍家に立たせ玉ふべき思召ありと信じたりと云へり(此談は余が親しく家慶公の御小姓を勤めし人より聞きたる談なり。)阿部閣老は将軍家を隠居せしめ、之に代るに年長賢明の御養君を以てすると云ふ事は流石に己より發議するを難しとしたれば陽はに之を言出したる事は無けれども、其心中には蓋し之を冀望したるならん。若し此御養君策にして當将軍家定公直ちにこれを肯じ玉はずとも、一方には水戸の親戚あり一方には薩摩の外戚あって倶に将軍家を補佐したらんには今日の難局を排するを得べし、其中に徐々と将軍家の意を和らげば刑部卿の此御養君も遂に其目的を達し得べしと頼みしもの歟と推考えせらるゝなり。然れども此御養君論の熾に起つたるは安政四年の外交問題の時にありき。