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幕府衰亡論
 ◎第七章
  江戸條約 公使謁見
   亞國官吏ハルリス渡來
   江戸出府将軍へ謁見の事情
   安政五年條約締結の事情
却説外交の事は、安政三年七月十九日亞國總領事トウンセント、ハルリスが下田に來着したるを以て再びその局面を一變するの機會を開きたり。ハルリスは下田に着するや否や直ぐに下田奉行に面會して閣老に當てたる書面を差し出し、總領事異躰字外交事務官たるに相當の待遇および保護あるべしと請求したり。是今日においては當然の要求と雖ども、當時に於ては大いに幕閣を驚かしたるが如し。爾のみならず、長崎にては英國より交易取結の儀につき近々使節渡來致し申すべしと云へる注進もあれば曩には和親を許して彼が望を満たしメタルに彼猶饜き足らずして交易を望む、是を處する如何して然るべき乎と幕閣は評議を費したるに、畢竟和親も交易も舊格の通り不相成との御趣意に候へども、既に亜墨利加へは後決斷あつて和親開講までに至り、交易の唱はなくとも欠乏の品を補ひ候迄の名目にて交易同様の取計等有之候上は、交易御差許に相成候はゞ何方も平穏に相成可申候とは、即ち當時幕府外國掛の考案にして幕閣の採用せる所となり、此年(安政三年)十月廿日を以て近来外國の事情も有之此上貿易の儀御差許可相成儀も可有之に付右取調可致と、堀田閣老は跡部甲斐守、土岐丹波守、松平川内守、川路左衛門尉、水野越後守、岩瀬修理、大久保右近将監、塚越藤助、中村爲彌に命じたり。此人々は當時幕府の要職にして外交の事に關係したる輩なりき。斯て幕府は此上は止むを得ざるに付き交易をも望みに應じて許すべしと内決し、扨下田奉行に全權を與へ、其趣をハルリスに答へ、下田奉行に兩國の諸件辨理を委任したれば假令重大の事と雖も奉行へ被申聞候はゞ即ち自分共へ直に申立候も同様なれば隔意なく奉行へ談判あるべしとは文通して以て閣老が直接に外國官吏へ面談の事を避け、彼をして江戸に出府せしめざる事を謀りたりしが(安政四年正月の事)、是の如き劣策は行れざる而已ならず却て其侮りを招く事とはなりぬ。此時に當り支那に於ては英國の砲撃に會い、戰爭其利なく、廣東、厦門相續て陥り、英國の威勢は烈日の如くなれば、此勢に乘じて直ぐに日本へ押寄せ交易の談判を開くべし、日本は支那と違いて武勇の國なりとは申せども、東洋國民の風として自ら尊びて他を卑しむるの癖ありと聞え、既に亞國官吏ハルリスの説を聽くに、日本はとかく小事に拘り些細のことにも返答の埒明かず無益の事に煩はしければ別段の談判に及ばざる可からずと云へば、英國は日本に對して特段の手段を施すやも知れずと頻に和蘭加比丹より注進に及び、續いて長崎に入港の支那商船よりも英國襲來の變を報じたりければ、幕閣は大に恐怖の思いを成し、外國人取扱振事情に應ぜずして漸々彼が怒りを積候はゞ廣東の覆轍を𨂻んも計り難し、寛永以来の祖法を變通して和親御取結の上は寛永以来の御振合に復し御改革無之ては相成るまじく、然る所兎角仕来りに拘泥し瑣末の儀まで事六かしく差拒み外夷の怒りを醸し候は無算の至りにて、萬々一砲聲一響候へば最早取戻も難相成候間、外國人御取扱往復應對の禮儀等都て外國人信服いたし候様眞實に御處置無之ては難相成時勢に有之候、既に英吉利評判亜墨利加官吏申立猶又今般英人の申立等一々差迫り居り、此上是迄の御仕法にては永く取扱様無之は顯然の義に付き無事の内に早々に是迄の仕法御變革有之て此上の御取締相立候様取計候方長策に可有之候間、右の心得を以て向來の御處置振勘辨いたし熟慮早々取調可被申聞候と、堀田閣老は外國掛の諸有司に二月廿四日を以て達し外國人接待應接の方式を改めたり。此改良は至當の事なりと雖も、其外國の威勢に恐怖したるは掩うべからざるの實あれば、之が爲に外には外國の侮りを招き内には志士の憤懣を喚起したりき。
下田奉行井上信濃守、中村出羽守は安政四年五月26日を以て亞國官吏ハルリスに迫られて規定書八箇條に調印したり。此規定書は前年の條約に對しては更に一歩を進め、即ち安政五年調印の現行條約の爲に實に其襯染を成せしものにして、彼他日の一弊源たりし金銀貨量の目交換の件、及び今日までも我が外交上の大問題たる治外法權の件も此約を以て議定せられたり。而して此規定書は同年六月四日を以て閣老より布告したるに由りて、外交のことは益々世論を喚起して幕閣を論激するの材料とは成りにき。尤も其頃の論趣は外夷は禮儀を知らず利欲のみ着目して我が神州を覬覦する者なり、須く之を拒絶すべし、決して交際を通す可らざるなりと云へる單純なる理論にて、真正に利害得失を識るの説には非ざりしと雖も、其論勢を以て政府の當路に障礙を與へたるの實に於てはあえて今日に譲る所なかりき。此時に當り阿部閣老は自ら此難局に當り内外の時勢に應じて事を処理せんと欲したるが故に、亞國官吏を江戸に出府せしむるは尚早としてこれを肯んぜず、水戸、薩摩とも熟議を盡したる上にて徐々と計畫せんと思はれしに、惜しいかな安倍は此年六月十七日を以て逝去せられたり。享年三十九歳と聞こえし。そもそも阿部閣老の可否に對しては當時よりして頗る其説を成すものありて毀誉褒貶交々其身に集まり甚だしきは和議を主唱して國を誤るの大罪人なりと迄に罵られたる人なりと雖も、余が観る所を以てすれば兎も角も水の越前守以後の閣老なり、もし此人にして存せば幕府の御養君も年長賢明の人に定まり、攘夷論も烈しくは起らず、京都の内勅も降らず、戌午の大獄も起らざりしならんと思はるゝなり。然らば則ち阿部閣老の逝去は幕府をして其衰亡を促さしめたるの一因と論定して不可なかるべきか。
阿部伊勢守既に逝去したり。今は幕閣に於いて外交の主宰たる人は堀田備中守一人とはなりぬ。是より先下田に渡來したる亞國官吏ハルリスと云へるはペルリの下田條約に據りて亞國より派出したる總領事なりと雖も、同時に外交官を兼ね、大統領より我國の君主(此時は即ち将軍家たり)へ宛られたる國書を携帯し、和親貿易の條約を結ぶべき全權委任状を齎らしたる全權なれば、ハルリスは下田奉行若しくは外國掛の役人等に談判する事を好まず、苟も日本をして鎖國の舊習を打破して文明の曙光に向はしめんには如何なる危險をも冒可からず、談判は閣老と直接にせざる可からず、其應接は大君の都府たる江戸に於てせざる可からず、若し此儀を拒まるゝに於ては條約違背なり、亞國へ無禮を加へらるゝ者なり、亞國は兵力を以て此無禮の罪を問はざる可からざるなりと主張したり。下田奉行等は幕閣の命を奉じてハルリスに面會し謁見出府、閣老應接の事を謝絶せんと試み百方其力を用いたれどもハルリスは斷然これを聽かざりき。然るに此時に當り、前にも述べたる如く英國は頻りに清國を攻破り勝に乘じて十分なる條約を結び、其餘勢を以て直に日本に押寄せ和親貿易の條約を望む事清國に於けるが如くにして、日本これを聽かざれば兵力を以て強請すべしと云へる風説は大に幕閣の心膽を寒からしめ戰々恐々たる折柄なりければ、ハルリスは此機會失ふ可からずとや思ひけん、愈々幕府に於て亞國の請求を御聞入れなくば夫迄の事なり。但し唯今にも英權渡來いたし兵威を持つて日本を脅迫し清國同様の條約を結ばん事を強請せば、日本は如何成し召さるゝ歟。英國の請求は中々我亞國の請求する所の如き温和の條欵にはあらざるなり。余は日本と亞國との爲に倶に兩國に利益なる條約を結ぶの素願なり。今や日本の爲に謀るに英國全權未だ來らざるに先だちて早く亞國と此條約を結ぶに若図。其後に英國全權の來るに及び日本は英國に對する恰も亞國に對すると同様の條約を以てすべしと告ぐべし。英國と雖も其詞正しく其理明らかなるに由て敢て其上を望む事を得ざるべし。若し其上を望む事あらば亞國は日本の味方となつて之を拒絶し、決して英國をして其力を擅まゝにする事能はざらしむべしと遊説したるを以て、幕閣は所謂痛し痒しの場合にて、ハルリスを視る或は敵のごとく或は味方の如き心地の中にも、英國の風説の熾なるに從いハルリスの請求の切迫するに從いて出府謁見閣老談判を許すべき斷行には傾きたり。加ふるに阿部伊勢守は内に顧る所ありければ此斷行を肯ぜざりしかども、阿部は已に逝去したり、堀田一人の全權なれば幕府の進歩派(開國流)は此斷行を主張して堀田を承諾せしむるに至り、然らば如何にして此斷交を実施すべきやと内儀する迄に及びたり。於是乎堀田閣老は土岐丹波守、林大學頭、筒井肥前守、川路左衛門尉、鵜殿民部小輔、永井玄蕃頭等と謀り、斷然守舊(鎖國)の群議を排き、先達より評議の趣もあれど亞國官吏出府之儀彌々御治定に付遠からず召呼相成べしと七月二日を以て相達し、謁見應接等の禮式を定めしめ、又下田奉行に向ては、亞國官吏出府謁見は承諾に治定したれども目下は列侯居合なども行届かず、其上京都並に諸大名以下にも夫々通達致し候譯にて政府の大儀を處置いたたさるゝに付暫く出府延期あるべしと説かしめ、次いで此年八月廿八日を以て左の如くに達したり。
豆州下田表滞留の亜墨利加官吏國書持參江戸參上之儀相願候處右は寛永以前英吉利人等も度々御目見被仰付候御先縦も有之且條約取替相濟候國々使節は都府へ罷越し候事萬國普通の常例之趣に付近々當地へ召呼られ登城拝禮可被仰付との御沙汰に付き此段爲心得向々へ可相達候
此達は今日より観れば固より當然の事にして、堀田閣老が幕吏の進歩派と謀つて此斷交を達したるは頗る其宜きを得たるの取計たるに係らず、登城拝禮の事は大いに世論の不満を喚起して一條の問題とはなりぬ。
彼の水戸老公の如き、阿部閣老の在職中は勉めて此人を慰諭したるに付甚しき不平も顯れずしておはせしが、安倍逝去と同時にハルリス出府の儀起こりたれば、老公は幕府に向て其海岸防御並御軍制改革などの御用を辭したり。将軍家は閣老の忠告に由り老公を招き御脇差しを賜つて之を懇慰し玉ひしかども更に其効なく、亞國官吏出府登城の件に付第一に異議を唱へたるは蓋し此人なりしが如し。尤も世間に傳播する亞國官吏の外夷出府登城を許し夷情切迫に付存寄申上候と題したる水戸齊昭卿が京都へ差出されたる建白書は、一讀して其偽作たること分明なれば、當時老公が如何に憤懣したりとて幕府の規則を犯して京都に建白を差出されたる事はあり得べからざる事實と雖も、かかる不満は老公に限らず當時の憂世家には専ら是ありしに相違なかりき。既に溜詰諸侯より差出たる評議にも、登城は勿論御呼寄等の儀不相成と其筋へ可申談旨被仰渡可然と明言したるを以て知るべき也。去れば亞國官吏ハルリスが出府して蕃書調所に滞留せし時は白刃を懐にして密かにハルリスを志たる刺客ありて捕へられたるが如きは、即ち此斷行に會て燃出したる攘夷熱にして、他日外國人を殺害して幕府を煩わしたる攘夷黨の凶暴は實に此時に其發動を起こしたるものなりと云はざる可からず。
斯の如く幕府は諸大名並に諸有志家が異議を唱えて人身爲に騒然たるを顧みず、此年十月を以て亞國官吏出府を命じたるは、假令ハルリスに迫られたるが故にもせよ、英國の強情を内心恐れたるにもせよ、頗る英斷の處置と云ふべし。亞國官吏ハルリス十月七日を以て下田を發し、同十四日に着府して、旅館と定められたる蕃書調所に入り、同十五日には土岐丹波守上使として旅館を訪日、同十九日には全權ハルリス堀田閣老の邸に至り面会して國書の寫を差出し、同廿一日に江戸城に登り、御本丸に於て将軍家に謁見し、國書奉呈の禮式を行い、幕府は盛大の式を以て之を引見し、謁見後柳間に於て饗應を賜り、獻上物被下物等の事ありき。其式禮作法等の如き今日より回顧すれば随分嗤ふべき事もありしなれども、兎にも角にも幕府二百年來鎖國の例を破り屈りなりにも萬國普通の典例に倣い外國全權を引見するに其禮を以したるには、堀田閣老を始め幕吏の錚々たる進歩派が死を決してこれに當りたる其苦心は後の史家これを察して可なり。扠ハルリスは将軍家に謁見を遂たれば同き廿六日を以て堀田閣老の邸に至り、演説凡そ六時間に渉り、鎖國の不利を論じ開國の必要を説き、今日の時勢に際して日本を保護して独立を全うするは外交を開くにあり、日本を富強たらしむるは貿易を盛んにするに在りと、遠くは西洋近くは清國実例を引証して滔々懸河の辯を揮て説出したり。斯る実際上の政治論を聞きたるは堀田閣老は云ふに及ばず、幕吏の秀才と雖ども實に臍の緒を切りて初めての事なりければ、膽挫かれ魂奪はれ、茫然として迷夢の醒たるが心地したるは尤の事なりき。堀田閣老を初めとして松平川内守、川路左衛門尉、水野筑後守、井上信濃守、永井玄蕃頭、岩瀬肥後守、堀織部正などの諸士が大いに悟る所あつて、後來開國の國是を執つて百難に當りたる精神は此時のハルリスの演説に一痛棒を喫したるが故なりとは知られたり。但し当時の演説筆記を閲すれば、其中にはハルリスが自國の爲に謀りたる所もあり、虚喝を交へたる所もあり、聽者の愚に乘じてこれを弄したる所もあるが如くなれども、大躰上より観察すれば日本の爲に親切に忠告したる卓説高議なりと云ふを余は躊躇せざる者なり。是よりしてハルリスは堀田閣老とも縷々面會に及び、和親貿易の新條約を議定する事になり、井上、岩瀬の諸人は日本の全權となりて談判に渉り、即ちハルリスが呈出したる條約草案に付き、一箇條毎に討論を盡して十二月廿五日に至り漸く草案を議し畢り、今は最早双方全權調印署名する計りに相成たる、其草案は即ち其翌年に調印したる現行條約なり。世間の説にては此條約は幕府の官吏が亞國官吏に脅されて一も二もなく唯々諾々したるが如くに讒誣して、今日にてさへこれを信ずる輩ありと雖も、當時の應説筆記を閲すれば井上、岩瀬等は着々其利害を聽き且つ論じ議して聊かも苟もする所なかりしは余が大いに感服する所なり(その後明示四年余が亞國に至りし時新約克にてハルリスに面會し談此時の事に及びしに、ハルリスは當時余は一方に於ては亞國の利益を謀り一方に於ては日本の利益を損ぜざる事を勉めたり。治外法權の如きは勢いの止を得ざるに出たれども固より兩國全權の素意には非ざりき。輸出入税の如き余は民主黨にて自由貿易家にてあれども日本の爲に海關税を得せしめんと欲し二割平均の輸入税を定め、酒類並びに煙草には三割五分の重税に置きたる位なりき。當時井上、岩瀬の諸全權は綿密に逐條の是非を論究して余を閉口せしめたる事ありき。彼等の議論の爲に縷々余が草案を塗抹し添刪し、其主意までも改正したる事少なからざりき。斯る全權を得たりしは日本の幸福なりき。彼全權等は日本の爲に偉功ある人々なりき。然るに開港後引續きたる不幸の爲に肝要の箇條を畫餅たらしめしは余が痛惜する所なりと云はれたることありき)。
斯て堀田閣老は此年十二月十五日を以て大小名に台命を傳へて曰く今日世界の形勢は戰國七雄の姿なり。古來の制度に拘泥しては御國勢挽回の期なきを以て非常の功を非常の時に望み國威を擴張するの機會を得んと欲し、鎖國の制度を一變せしめんとの思召なれども、御國内人心の居合方も有之、今日の御處置の當否は國家治亂の境なれば心附候儀は早速に申上べしと達し、岩瀬肥後守をして諸大名列座の席に於て開鎖の得失利害を説かしめたるに、當時列座の人々は一言も聞く者なかりしと云へり。されども此達しは大いに不平の感觸を一般に與たれば、外様の諸大名は云ふも更なり、水戸の如き親藩も譜代の諸侯も幕府の官吏も、凡そ外國の事情を知らざるもの、幕府の和議説に不満の念を傾けるもの、外国人を夷狄禽獣なりと覚えるもの、漢學者流國學者流の尊内卑外を是とせるもの、神風は安政年間にも祈りさえすれば何時にても吹くべしと信ぜるもの、外國人は日本を押領に來ると考へたるもの、耶蘇宗は切支丹の魔法と迷信せるもの、和議を是なりと云ふ時は怯弱なりと嗤はれん事を恐れたるもの、條約不可なりとさへ云へば豪傑らしく見ゆると思ひるものは都て條約不可なりとは囂々したりき。此狀況に付き京都に於ても専ら條約不可の議は朝廷に行われたりと聞こえ、又水戸の如きは当時所謂京都手入の手段を以て密に朝廷公卿を揺撹せしむるの景況なりと聞こえたれば、幕閣は大いに苦慮し、若し條約取結の事を此儘に差置きたらば、他日京都より彼是と口を入れらるゝの恐れあり。寧ろ我より先じて之を京都に上奏して同意を求むるに若ずと、幕閣は困難の餘りに軽忽にも速了の意見を定め、條約調印伺の爲に林大學頭、津田半三郎の兩士を京都に遣わして我より需めて京都の干渉を内地外交に招くの端を啓き、更に一條の大困難を惹起し、幕府衰亡の運を促したりき。

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