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幕府衰亡論
 ◎第八章
  條約調印伺及尊攘
   幕使上京の事情
   政治上に於ける京都干渉の理由
   攘夷論挑發の事情
   水戸の京都手入

條約調印伺いの爲に幕府が林大學頭、津田半三郎を京都に派出せしめたるは安政四年十二月の事なりき。此両人が同月廿日を以て京都に着し、外國の事情を陳述したる書面に、此度私共兩人上京仕り候儀は是迄外夷の御仕置都度々々書面を以て(将軍家より禁裏へ)被仰進候共書面のみにては盡し難く且此度アメリカ官吏申立候趣に付ては事實巨細に申上候様(将軍家より)被仰付事と、冒頭に認て外國使節の来意を畧叙し、貿易開港等(将軍家に於ては)御許容可有之積にて時勢御斟酌あつて御變革の御仕置に相成候より委細(京都へ)不被仰上候はでは不相成候事、但十月廿一日官吏江戸表へ出府差出候書簡并口上和解同廿六日對話書十一月六日應接書此度の箇條書含意の趣意品々有之右は關東より御回相成り候事と奉存候とあるを以て、癸丑甲寅以来京都に於いては是を機會として外交の事を幕府に説明を求め、幕府は勢に迫られて京都に對して具申し、遂に此時に到りては京都の承諾を経るに非ざれば條約調印を斷行すること能はざるに至れりを徴すべきなり。抑も幕府は實権政府の主義を保持し、内地にまれ外交にまれ都て是を處斷して毫も京都の干渉を受けざる二百五十年の久しきに到りしに、此時に到り外交に關しては常に京都の干渉を免るゝこと能はざりしものは、余が初に論じたる如くこれ幕府衰亡の運に傾き、幕府の獨力を以て諸侯を鎮壓するを得ざりしが故なりとは云へども、實は嘉永六年六月亞國使節渡来の初に當り京都に上奏したるに起因せるものなりと云はざる可からず。蓋し京都の一語は内に對しては諸侯庶民を鎮壓するの語となり外に対しては條約談判を推辭するの語となりて幕府の官吏が好辭柄としたる所なるが、其辭柄は即ち禍源にてありしとは彼らが想像し能はざる所なりき。試みに其重立たる二三を擧立せんに、實は嘉永六年十月十五日閣老連署して魯西亜の外務宰相に送爲たる返翰に、矧我君主(将軍家の事)新嗣位百度維新如斯等重大事項必奏之京都諭告之列侯群官協同商議議定而後従事顧勢不獲弗費三五年之時日雖差似延緩公等且従吾言担懷以俟焉とあり。次に同年十二月幕府が獻金を江戸大阪の町人に諭告したる文中に、右の通の譯にて一躰公儀に於ても非常の御手當向は兼て被爲有候議に候へども前條申論し候通り彼是不容易御用途一時の御差湊に相成り素より天朝へ對し奉らせられ萬民等へ對せられ候ても御政務暫時も差置き難く事實不得止次第一同深く恐入り痛心いたし候とあり。次に安政元年十二月廿三日、京都は太政官符を以て五畿内七道諸国司應以諸国寺院之梵鐘鋳造大砲小銃事の勅諚を下されたるに當り、幕府の處置は太だ徳川家伝世の政略に反對したりき。先づ寺院の梵鐘を潰して大小銃を鋳造し得らるべきものか。其趣意の善惡は措きて論ぜず。此一勅は明に軍政に關し明に宗教に關する純然たる行政命令の尤も激切なるものなり。斯る命令は徳川政府に於ては京都より是を出す事を肯ぜざるべきは勿論の事なり。何となれば若し之を肯ずる時は、幕府は復實權政府に非ずして天下は京都を正統政府視すべきが故なり。去れば京都は此際猶幕府に憚る処ありて傳奏よりこれに別紙を添へ、外寇云々不可存異議之旨可被仰出被思召御内意之趣關東へ宜被申入候事と所司代に廻したるに、幕閣は京都において文武の政治に御立入あるは宜しからずと正顔勵辭して之を拒絶せざる而已ならず、これを承諾して勅諚を公布せしめ、剩え其翌安政二年三月三日を以て阿部閣老は水戸殿初め出仕の大小名に向かい将軍家の上意なりとて、海岸防御の爲に此度諸國寺院の梵鐘本寺の外古来の名器及當節の鐘に相用い候分は相除き其余は大砲小銃に鑄換べき旨京都より仰進られ候海防の儀専ら御世話有之候折柄叡慮深く御感戴遊ばされ候事に候間一同厚く相心得海防筋之儀彌々相勵べき旨被仰出候事と演達して彼勅諚の寫を示し、以て京都の政治干渉の門を開きたり。斯くの如くなるを以て京都は嘉永六年六月十五日七社七寺へ御祈禱の勅諚に、此頃夷船來相模國三浦郡沖其情實難知難防禦之爲嚴重近來度々寄近海叡念甚不安偏在仰神明冥睠速攘退夷類莫拘國躰とあるを初めとして、同年石清水放生會の宣命の如き、其翌年二月七社七寺并廿二社外十社御祈禱の勅状に、正月上旬魯西亜船已揚歸帆於西陲至中旬亜米利加船又來於東海應接雖穏人情不安早垂神助外夷慴服國家清平とあるが如き、時期に乘じて上位の精神を挑發したりければ、幕府が和議を執て人心を失ふに従て京都の攘夷を欽慕するの念を增さしめ他力。加ふるに幕閣は此際京都の歡心を失はざらん事を冀ひ、京都をして攘夷を主張せしめざらん事を望み、其爲には幕府の典礼格式を破爲て京都を尊崇するの實を示し、安政元年九月大阪へ魯国船が立寄りたるよりして京都御警衛向彌々御大切に思召れ候とて、井伊家の他に堺修理大夫、松平時之助、本多壱岐守、稲葉長門守、青山下野守、永井遠江守の諸家に京都の警衛等を命じて奉承を厚くしたり。京都は是に於いてか幕府が外國に對する談判應接の模様を幕閣に質問すれば、幕府は京都が關東に於ける外交事情の困難なるを明知せん事の便にもがなと逐一に通知したるが故に、安政四年に及びては最早京都の承諾を得ざれば條約調印も行はれざるまでの勢いには至りしなり。
且夫れ攘夷論の原素たる尊内卑外の精神は、癸丑甲寅の初よりして一般士人の間に行はれて、和親結ぶ可からず、貿易許すべからず、日本は飽くまでも鎖国主義を保守すべし、彼もし我が交際謝絶を聽かずんば斷然兵力をも爲て掃攘すべしとは、攘夷家が常に口にしたる所たりしと雖ども、安政三年頃までは未だ實際問題たる迄の勢力は無かりき。而して其實際問題となりしは、實に亞國官吏出府登城拜禮條約談判の時に始まりしなり。
扨攘夷論の本尊は誰なるやと尋塗るに、當時の世評は勿論、今日の史家の亦皆、水戸の老公を以て其人なりと云ふに外ならざるなり。この斷案に付ては余と雖も敢て之を否と云ふには非ざれども、老公は強ちに初めよりして無謀の攘夷を主張せし過激主戰家には非ざりき。幕閣皆戰爭を恐れ和議に姑息するを憂い、我に戰うべき用意あ爲て後に初めて和を云ふべし。是なくして和するは是れ降なり。和に非ざるなり。故に戰意を決して兵備を整うるを急務にすべし。和議説は當路の極秘にして之を口外すること勿れと嘉永六年に建議したること、余が前章に述べたるが如くなれば、当初においては老公決して無謀の攘夷家にあらざりき。然るに其帷幕に參與したる藤田東湖、戸田蓬軒の諸國の深意を懐きながら外には鎖國の妄説を唱へて人心を鼓舞すること、政治家に在ては至難中の至難事業たり。此政策を懷て過たざるものは蓋し罕なり(近くは西郷南洲翁が薩隅の子弟に戴かれて明治十年の事に及ばれしも即ち是なり)老公は此至難事業を一心に負荷して遂に逆境に陥りたるの人に非ざるを得んや。老公素より一個の豪傑なりと雖も、幾分か普通の感情に左右せらるゝを免れざるの人たりしに相違なかるべし。一方に於ては其説の幕府に行われざるを快と思はざりし所に、一方にては己が鼓舞したる闔藩の人士並びに諸国の志士が攘夷の念を熾にするに従いて老公を泰斗の如くに仰しを以て、幕府は漸く老公に向て嫌疑を生じてこれを他人視するに至りしなれば、識らず知らず老公が逆境に歩を進めて勢ひ攘夷論の本尊たるを辭する事能はざるに陥りしは、當時の状況に於て爭ふべからざるの事實たるが如し。
斯の如く關東に於いては水戸老公が攘夷論の本尊たるに當り、京都に於いては又別に更に一層も二層も高貴なる大本尊ありと世上に想像せられたり。即ち先帝には攘夷の軫念を有し玉へると申すこと是なり。但し攘夷の大御心を眞に懐かせ玉ひしや否やは、畏し雲の上の御事なれば余は其如何を知り奉るに由なかりしと雖も、全く其御事なかりしとも存じられず、抑も鳳闕の内に御座して外国の事情を聞召す便りもなく、御側に侍ふ臣下にも眞實の事情を具上して啓發し奉もの無きに於ては聡明叡智の聖主も幕閣の振はざるを憤らせ玉ひて攘夷を是策なりと思召されしはさもあるべき事と余は恐察し奉つるなり。此に又この攘夷論とともに起こりたるは尊王論なりとぞ。尊王論を養成したる原因は既に余が開陳したる如くにて、此論は時機さえあらば何時にても起こらんものと十分に熟成したる問題なりければ、今や攘夷論あると倶に忽に發して聯合問題となり、攘夷は即ち叡慮なり、叡慮を奉じて攘夷するは即ち尊皇なり、攘夷を不是とするは即ち尊皇の大義に背くものなりと云へる一大法則を議論の上に確定して、尊攘之大義と名付けたる旌旗を樹立したりき。此旌旗の下には所謂有志輩みな集りて之に屬せるのみならず、大小名と雖も親しく幕政に與からざる者は概ね之に屬し、假ひこれに屬せざる迄も局外に中立するの情勢にてありき。是に於いてか平素より尊王攘夷に於て老公に養成せられたる水戸士人は爭でか第二流に居るを屑とせんや。其爭て先驅となりて此旌旗の下に身を寄んと欲したるは勢いの正に然るべき所なりき。
然れども京都に於て武士たるものが公卿に昵近するは幕府の法令を以て禁ずる所なれば、諸大名も敢て此禁を犯す者なきが爲に交通の道を斷たれてありしに、今や尊攘之大義と云へる名義は此法禁を打破つて京都への通路を開きたり。而して此通路を破つたるには水戸の老公與つて力なきに非ず。蓋し水戸は幕府の親藩にして、既に義公の頃より京都公卿の間には懇親を通ぜられたれば、老公に至りても同じく其縁を以て交通ありしと見えて、既に安政元年内裏炎上の後に琵琶を献上せられし時の表に、

今茲甲寅夏皇居罹災駐蹕外於亡畿鄂虜航海泊攝之難華浦淹留餘畿内騒臣齊昭仰想行宮狭隘無以慰宸衷俯慨醜虜猖獗未能伸皇威屢陳鄙見於征夷府而才疎論迂未審用捨如何也齊昭頃獲華櫚材長三尺許手製琵琶一面竊謂方行宮之災雅楽寳器得無屬烏有耶乃印關白正通公獻之行宮豈敢望補寳器之闕乎萬機之暇或命侍臣彈還城之樂歌太平頌洋々乎盈耳乃内以紓宸憂外以鎭妖邪此器有榮焉臣竊爲天下祝之

とあり、此表は當時の偽作と云はゞ夫迄の事なりと云雖も、果して事實にてあらば老公は幕府の法禁を犯し、此時よりして早くも暗々裏に於て京都の攘夷論を促し、幕閣の政略に反対の方向を執り遂に障碍を與ふるの端緒を開かれたりとの評を免かれざるなり。更に一歩を進めて論する時は、安政五年に至りて京都手入の事は早く此表に其兆を顕はしたりと云はんも亦不可なかるべき歟。
右の如く攘夷論は尊王論と聯合一致して勢力を得たりければ、安政四年には攘夷實行とて外國公使を切害するの悪業を企て、以て尊攘の大義を得たりと思日、亞國官吏の登城を覗ひこれを邀撃せんと謀り、事露て縛に就きたる三士あり。何れも水戸の侍にて是ぞれぞ後年に至り幕府に國難を被らしめたる外國人切害の初めなる。されば當時に於て外國通交に付き人身不折合を起し、堀田閣老は公使の江戸在留を氣遣ひたるが如き、又大阪、兵庫の間には公家の領地あるを慮りて兵庫に代わるに境港を以てせんと欲したるが如き、その應接の後を見て以て禍源の早く此時に萌したるを知るべきなり。而して是と同時に發したる御養君の一條の件は、請ふ之を次回に述べん。

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