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幕府衰亡論
 ◎第九章
  御養君及條約可否論
   一橋教に輿望の歸したる事情
   條約に付き京都の應接
   御養君と條約との關係
   紀州宰相御養君の議
   井伊掃部頭出身の事情

徳川家御養君一條はすでにその端緒を述べたる如く、将軍家家定公には御實子なきこと、且つ今日内外艱難の國家を統御するには賢明年長の御養君を必要とする事、其御養君を定めて将軍御譲職をなさしむる事は蓋し当時の輿論にて得策とせる所なりき。昇平無事の日には凡庸の将軍にても輔弼其人を得れば即ち天下を保ち得べかりしも、斯く國事多難の日と成りては英明の将軍を戴くに非ざれば日本を泰山の安に置かんこと迚も望み難しとは、苟も少く思慮ある輩が朝野ともに望みたる事實なりき。扨て其賢明年長の御養君には誰を選ぶべきぞと御三家御三卿の間を見れば、一橋刑部卿殿(後に徳川十五代将軍慶喜公)の右に出る人なかりき。此卿は前将軍(慎徳院殿家慶公)にも夙に其望を屬し玉へる方なりしが上に、水戸前中納言殿の子息にて、出でゝ一橋家を継ぎ懸命の評判世に高かりければ、堀田閣老を初めとして永井玄蕃頭、岩瀬肥後守、川路左衛門尉等の如き幕府の要職に在りて機密に参与し才智の聞こえありし輩は、皆擧げて此説に同意を現し、加之、大諸侯にては尾張、越前、水戸、土佐、備前、因州、宇和島等の有力者これを是認したるに由り、将軍家の御養君は既に一橋殿に定まりたるがごとき勢いにてありき。此時にして若し此卿を養君となして将軍を繼職せしめ大いに幕府の征略を更變したらんには、幕府の運命は安政五年六年の間に或いは挽回するの機会を得たりしならんに、養君の問題に以外の変動を來し、延て以て公武の間の葛藤を招くに至りしは幕府の爲に痛惜すべき次第にて、幕府滅亡の第二期は即ち此時に在りと云ふべきなり。
扨も幕府は安政四年の十二月を以て林大學頭、津田半三郎の兩士を京都に上せて條約取結の事情を陳述して京都の御許諾を求めしめたるに、京都の氣勢は幕閣が江戸にて想像せしより遥かに強くして、鎖國論は頗る禁闕に行はれ、尊皇攘夷の大義を以て天下に號令し、幕府の権威を抑制し、王政復古の偉業を擧ぐるは此時なりと云へる遠大の夢想は正に當時に起こり、有志の公卿は云ふに及ばず、尊皇と攘夷とを主義とせる志士は稍々四方より京都に集まりて志を公卿の間に通じて其用たらん事を冀ひたれば、京都は爭はでか林、津田の幕吏が具陳する所を垂聽せらるべき。汝等の如き身分卑賤の幕吏は相手にならず、将軍自ら上洛あるか然らずば老中名代として罷出て委細上奏いたすべしと云ふ氣込みにて恐るべき凄まじき見脈なりければ、幕吏は驚きてその旨を江戸に報知し、江戸にては幕閣評議の上にて堀田閣老自ら上京すべしと議決したり。堀田閣老は安政四年十二月十五日を以て亞國使節應接の一條に關し今般の御處置は國家治亂の境に候間、右再應申上の趣に付猶心附候儀も候はゞ早速可申上旨被仰出候と台命を大小名に傳て廣く意見を諮詢するの狀を示し翌れば安政五年正月二十二日、川瀬左衛門尉、岩瀬肥後守、其他の幕吏を從へて江戸を發し。二月五日に着京なし、亞國と取結びたる和親貿易の條約に勅許を請ふ事の談判に及びたりき。初め堀田閣老は亞國官吏ハルリスに宇内の形勢を説かれて大いに覺る所ありしかば、今度は己ハルリスの地位に立て京都を説き、鎖國攘夷の迷夢を覺醒せんものをと冀望して扨其談判に及びたるに、京都の鎖攘主義は中々得て説破すべきの狀勢にあらず、種々の難問を重ねたる末に、條約の一條は容易ならず神宮を初め奉り御代々へ對せられ深く叡慮を悩まされ候此期に至り人心の折合い國家の重事候間、三家以下諸大名の赤心聞召されたき思召に候。今一應台命を下し各の所存書取りて叡覧に入れ奉べしと望み玉ひければ、幕府に於ては叡慮の趣尤の御事には候へども、人心居合方の儀は如何様とも關東にて御引請相成候間叡慮を安ぜらるべく、時日相延び候内に英吉利軍艦等渡來いたし混雑ども相生じ候ては國家の御爲に甚以て然る可からず、早々御勅許の御沙汰あるべしと、将軍の旨を奉じて堀田閣老より京都に奏上したるに、亞國一條蓋國人心居合關東に於て引請の趣言上に及び候處、人心居合の儀はまず以て安心遊ばされ候へども神宮御代々へ對せられても何分恐れ多く東照宮以來の御制度を變革の儀天下人望如何に思召し再應叡慮を悩され候間何共御返答の程遊ばされ方無之、この上は關東に於て勘考を遂ぐべき旨御頼み遊ばされ候事と勅せられて、先ず一旦は條約の事は關東の随意と相成りたり。蓋し此勅諚は内實幕府より京都の権家に手を回し、黄白の勢力を以て取拵へたる所なるに、京都の有志家は此勅ありと聞て大に憤激し斯ては猷以て内亂の程も計り難し、此上は於關東可有勘考候様御賴被遊候との御文句は御差除あるべしと切論して止めざるが爲に更に勅諚を改められて、今度假條約の趣にては御國威難相立思召候且諸臣群議にも今度の條々殊に御國躰に拘り後患難測の由言上猷三家并諸大名も台命を下し可有言上旨被仰出候事と三月二十二日を以て堀田閣老へ傳送より通達ありき。堀田は此勅答を見て、外には條約談判切迫の折柄なるに斯遷延しては如何なる異議を生ぜんも計り知られず其時には叡慮如何と伺いたるに、今度の條約とても御許容在せらるゝ思召しに候、衆議中自然事端差縺れの節は前件の御趣意を含み精々取扱談判の上彼より異變に及び候節は是非無き儀に思召され候、就ては(一)永世安全可被安叡慮之事(二)不拘國躰後患無之方略之事(三)下田條約の外御許容不被遊候節は自然異變に及び候儀難計に付防御の處置被聞召度事 右の條々衆議言上の上叡慮難被決議は伊勢神宮へ神慮可被相伺候事と、到底政治上の事と見据えなき勅答なれば、岩瀬は急に江戸に歸って其旨を報じ、堀田も亦遂に要領を得ること能はずして京都を去り江戸には歸ったりき。
是より先幕府の全権が去年(安政四年)亞國官吏ハルリス條約談判の時に、此條約は來たる安政五年三月五日を以て双方全権記名調印なし、批准は米國にて交換すべしと約したり。依て幕府は批准に下すに本條約の譯字を以てし、却て批准前の條約には假條約の名を附して巧みに一般を瞞着し、假條約は本條約に非ざれば何時にても手輕く更改し得らるべきものゝ如くに思はせ(當時幕吏にても然く思ひたる輩多かりき)、堀田閣老さへ上京して贈遺に吝なる所なくば京都の條約勅許は一二回の應答にて行届くべし、然る時は三月五日の調印には間に合ふべしと豫期したり。然るにハルリスは約を覆して三月五日に江戸に來けれども、幕府は勅許なきが爲に全権調印の場合に至らず、兎も角も堀田閣老歸府まで相待たれよとて日を送りし中に、堀田は四月二十日を以て歸府し、同廾四日を以てハルリスと應接に及び、條約調印に付き人身不居合の處を殊の外宸襟を悩まされつれば調印延期ありたしと望みたれば、ハルリスは江戸政府にて京都の許容を經ざれば調印出來ずとあるからは、京都政府を日本政府と認めて京都へ直接の談判を開くべしと論じかけられ、遂に五月二日に至り閣老連署の書面を以て、愈々七月廿七日には相違なく記名調印すべしと堅き約束書を送りて期日を延ばしたりき。
堀田閣老等が京都に滯留の間に公卿との應接の間に幕府は賢明年長の養君を定めて事に当たらしむる事得策なるべしと云ふが語氣も顯はれたれば、幕吏の重立ちたる輩は之を聞きて、然らんには一橋卿を早く儲君に定め、今日をして京都を説かしめば京都は論無く條約勅許あるべしと推量し、甚だしきに至りては、京都は鎖攘の元素にあらず尊攘の有志輩その元素なり、而して此有志輩は水戸の流脈を汲む輩なり、故に源流たる水戸にして鎖攘論を止めれば流脈從て止むべし、是を爲すには一橋卿を儲君に立てるに若かず、一歩を進て観察すれば水戸老公が鎖攘有志家の泰斗となりて之を煽動するも、實は一橋卿を将軍たらしめんが爲の計略なるべしと迄に憶測するに至れり。故に堀田閣老が歸府と共に外には條約調印の大事切迫せると共に儲君論即ち御養君論は囂々として幕府の一大問題となりぬ。然らば即ち一橋卿を儲君に立て京都を説くの策は當時幕閣有志の合意なりと云ふは、敢て其實なきに非ざるが如しと思はるゝなり。
斯の如く将軍家の御養君は賢明年長の方を要すれば一橋刑部卿殿の他には有るべからずと朝野一般に信じたりしに、思ひの外に他の候補者こそ顯はれたれ。紀州宰相慶福卿(後に第十四世昭徳院殿家茂公)とて、今年十三歳の御方即ち是なり。此宰相殿は御血統の點に於ては當将軍家(家定公)には接近の方なれども、賢明年長の點に於ては何を申すも御年少なるを以て望みに應ずるに足らざりき。然るを一橋殿を措て此紀州殿に望を屬したる所以のものは、その事頗る幕府奥向きの秘密にして明瞭の事實は世が知得せざる所なれども、聞く所によれば家定公は一橋橋を喜び玉はず、御養君には此御方をと頻に申勸むれども、否々刑部卿は余が嫌ふ所なり、養子とせんは好ましからずと拒み玉ひしと云へり。加るに刑部卿殿は水戸風にて成長したる方なるを以て、御䑓所(後に天璋院殿)を初め後宮の評判宜しからざりければ、将軍家を浸潤したるところも少なからずと云へり。蓋し将軍家の心中には、若し一橋を養君とせば直に譲職を行ひ我を隠居さするなるべしと思召し、凡庸の君ながらも壮年の隠居は固より情に於て欲し玉はらざりしならん。去れば後宮に於いても同じく之を喜ばず、甚だしきは年長の君よりは幼年の方を利なりとせしが故に後宮を擧げて一橋殿に反對し、御養君を定むると有らば御血統の近き年少の愛すべき方を擇ぶに若じと慫慂し、紀州宰相殿こそ其方なれと目を屬したるものに至りしもの歟。或いは云ふ、當時後宮にて最も勢力を占めたる老女は紀州の御附水野土佐守の親戚にてありければ、此老女を媒介として水野はその君主の宰相殿を御養君たらしむるの計策を運らし、漸く其歩を進め、将軍家も宰相殿御養君に同意し玉ひしが、扨一方を見れば一橋殿の方は閣老にも幕吏にも諸大名にも幾多の勢援あるに由り、これに匹敵すべき有力者を得ずしては大事成就すべからずと思惟し、諸侯を見渡したるに、門閥あり膽力ある人は井伊掃部頭の外に無しと知り、薬師寺筑前守を使にして井伊氏を説かしめて遂に宰相殿を御養君に立る黨派の首領に戴きたりと云へり。其果たして然るや否は余は是を知らざれども、兎も角も井伊公が御養君論に関係ありしは疑ふべからざるの事實たるが如し。
世の井伊氏に於ける當時よりして今日に至る毀誉一定せず、これを憎めるものは國賊視し、之を贊するものは伊周視すと雖ども、余は兩者共に愛憎の爲に極端に走れるものと認むるなり。其事は後章に論出すべしとして、将軍家をして井伊氏に屬目して大老たらしめたるは誰が勸めたる乎を尋ぬれば、或いは前段に述べたる如き事情にてもやありしならん歟。而して井伊氏は大老となりて其責任に當るからには御養君の事にも與かり、内外の大政みな其統御の下に置かしむるの約束を立て、大老の職を承諾したるならん。何を以てか之を知る、曰く井伊氏が安政五年四月廿五日に大老職に就いてより、幕府の政略は俄然として大いに変革の實を示したるを以て之を知るなり。

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