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幕府衰亡論
 ◎第十章
  御大老井伊掃部頭
   御養君と御大老の關係
   御養君論 條約論反對の主意
   井伊大老の政略
   條約調印斷行の事情

堀田閣老は條約勅許のことに關し京都に於て要領を得ること能わずして江戸に歸府したり。京都の廷議は贈賄のために動かされ一旦は幕府の主權を認められしに係わらず、尊攘黨に迫られてその議を變じて更に幕府に望むに諸大名の衆議を言上すべき旨を以てしたり。幕府は又條約調印の可否を諸大名の衆議に附したるに係らず、談判の往掛より亞國全權ハルリスに迫られて遂に、7月を以て相違なく両国全權この条約に調印すべしと明約したり。然らば即ち幕府の地位は(一)京都の旨を尊奉して條約調印を破談とする乎、(二)斷然條約を調印して京都の旨を顧みざる乎、二者その孰をか擇ざる可らざるの場合に陥り、所謂飛車取王手の窮厄に臨みたる者なり。是即ち安政五年四月頃の事情にてありき。
次に御養君の一條は、前章にも述べたる如く一橋黨、紀州黨の二派に分かれ、一橋黨は有力の諸強藩と幕吏の俊秀とにて組織せられ、一橋刑部卿が年長賢明の人なるを以て儲君に定め、この人をして自ら内外の政を執らしむるの外に大計なしと云ふに在り。これに反して紀州黨は内廷後宮の勢力に由りて結合し、紀州宰相は當将軍家の懿親にして将軍家が御養君に望ませ給ふ所の人なり、継承の大事は君意に從はざる可らずと云ふに在り。故に表面より見れば、幕府の爲にも国家の爲にも一橋卿を立つること尤も得策たる勿論なれば、これに定まるに相違なしと當時みな擧げて想像したれども、その内實を窺えば紀州黨の勢力は冥々裏に於て頗る鞏固なりしを以て、実装を看破せる識者は結局一橋黨の敗挫なるべしと憂慮したりき。是亦安政五年三四月頃の狀勢にてありき。
然るに一橋黨の方には水戸老公を初として越前土佐宇和島の諸侯ありて之を助くれども、紀州黨の方にはこれに匹敵すべきの有力者なきは其最弱點なりき。誰をしてこれに匹敵せしむべき乎と顧盻すれば、その門閥と云ひ其地位と云ひ其威望と云ひ其人物と云ひ、井伊掃部頭直弼の右に出づべき有力者なしと信じたるに由り、此人を擧げて御養君(即ち紀州宰相)の補佐たらしむるの策を案出したり。當将軍家(家定公)には原来一橋教を喜ばれざる所に、此卿を養君に勧むるの群議ありし事なれば、若し其養君の議定まれば直に讓職の手段に及ばん事を恐れ、後宮皆是を浸潤したるに由り、紀州宰相を養君と立るの議益々其力を得て、これを補佐せしむるは井伊なりと云ふに至りて、将軍家は既に其親族にも内閣にも多少疑を抱かれ懐かれたる折なれば、論なく是を許諾し玉ひしならん。次に幕閣にては外交の問題より京都の干渉を惹起し困難を極めたる時期なりければ、井伊の如き有爲の大名を幕閣の首相に置かずんば各自の責任を軽くするの實あるが故に、幕閣の一部分に於ては是また同じく異議を容れざりしならん。而して御養君の議に關しては井伊と雖も一橋卿を立つるの長計には反對せざるべしと堀田閣老も豫察し、又井伊と紀州黨との間に秘密約束もあらざるべしと信じたるならん。是れ蓋し井伊掃部頭を大老職に命ぜらるゝ事に付て當時左までの異論なかりし所以なるべし。
從来幕府の慣例にては御大老は御用部屋(即ち閣老参政の室にて内閣なり)に詰ずして別にその詰所を定め、閣老の具申する所に就いて許否の裁可を與ふるに止まり、苟も御大老の否認せる所は将軍家と雖も之を許認するを得ずと云ふの慣例なれば、御大老は内閣首相に非ずして寧ろ攝政なりと云へり。然るに井伊掃部頭は此慣例を不可なりとし、我をして御用部屋に出頭せしめ、内外誠治の總裁たる内閣首相の事を執らしめば御大老職を承知すべしと望み、初より此約束を定めて乃ち四月二十五日を以て御大老に任ぜられたりと云へり。事実果たして然りや否やは余が得て知らざる所なれども、井伊大老が常に御用部屋に在りて政治を總裁したる跡より見れば、是以て幾分か其事実ありし歟と推測せらるゝなり。
余が曾て云へる如く、水戸老公は尊攘の本尊には相違なけれども、素より無謀の攘夷家にも非ず、國家の安危を憂ひたる忠誠の豪傑には相違なけれども、亦名利の欲を脱却する仙人にも非ざりしなり。左れば井伊掃部頭が大老職に任じたる時よりして、内政に關しても外交に付ても老公と井伊とは正反對の政敵たること、その出身の際より甚だ明白なり。之を直説すれば、御養君一條に付き水戸其外の有力者に當らしめんが爲に井伊を大老には擧げられたると云はんも敢えて不当の説には非ざるが如し。故に余は読者をしてこの際井伊大老と反對黨との間に於て幕府の政略に氷炭相容れざる要點を擧示して、禍源の顯伏せる所を覺らしむべし。(第一養君論)反對黨は云く、今日の急務は年長賢明の公子を擇て御養君に立べし、昭穆の親疎は論ずべきに非ず、群議の嚮望する所には将軍家も枉て從い玉ふべし、その人は一橋刑部卿なれば速やかに此卿を儲君に定め幕府の政權を掌握せしむべし。國家の累卵を救ふは此一擧にあり。井伊大老は云く、御養君を定むるには血統の最も近き公子を擇ばざる可からず、将軍家に於てその血統最近の公子を擇び玉ふ上は臣子たるもの君命に從はざる可からず、故に将軍家にして懿親の紀州宰相を養はんと思召す以上はこれを尊奉すること勿論なり。猥に君主を闇弱庸愚なりと罵り讓職の事を議するは不臣なり。宰相其人を得れば當将軍の御政治にて國家を泰山の安に置に餘りあり(第二條約論)反對黨は云く、外交の大事は朝廷の裁許を乞はざる可からず、諸侯の群議を盡さざる可らず、朝廷諸侯條約調印を不可なりとする時は幕府は朝意を奉じ、群議に從ひ、鎖攘の大義を斷行すべき者なり。故に勅許を得ざる間は調印をなす可からざるは勿論なり。井伊大老は云く、内治は云に及ず、外交開鎖の事と雖も之を斷行するは幕府の主權内に在り。當初朝廷に勅許を仰ぎ諸侯に群議を盡さしめたるが間違いなり。幕府が政府の權威を以て獨裁専斷の政を施すに當りては京都と雖も諸侯と雖も嘴を容るゝを得ざる者なり。故に幕府は勅許の有無に係らず、國家の爲に利益ありと信ずる時は條約調印をなして猶豫背ざるべし。右の如くなるを以て井伊大老は當時漸く發達の兆しを顯はしたる立憲幕府制の基礎を不可なりとして、飽までも從前の如く獨裁幕府制を維持せんと欲したる首相なりき。
抑も幕府の存亡興廢より論ずれば、徳川氏二百五十餘年泰平を永續したる幕府をして衰亡に屬せしめたる第一の原因は、嘉永六年亞國軍艦渡来の時に獨裁幕府制の憲法に背き、是を朝廷に奏し是を諸侯に謀ると云へる立憲幕府制に其の基礎を變更したるにあること、余が冒頭に説きたる如くなれば井伊大老がこれを視て幕府の一大不利なりと覺え氏は卓見なれども、此已に成立したる基礎を破却して再び原の獨裁幕府制に復さんと欲したるは抑亦過てりと云わざる可からず。凡そ人已に得たる所を失ふを欲せざるは普通の性情なり。假令一時の錯誤にて人手に渡したる事物たりとも、之を取戻すは甚だ難し。況や幕府が其獨裁の政權中よりして自ら好んで是を朝廷に、是を諸侯に割讓したるの事實に於いてをや。況や其割讓は之を辭柄としては外には姑息の計を施し、内には瞞着の策を運らし、以て一時の安を偸むの目的に出たるに於てをや。又況んや三百年來養成したる遺傳性の學問は王覇名分の正閏に關して深く人心に根據すべき所を與へ、又況んや封建門閥の制度は有爲の人才をして其驥足を展ばすの時機を俟たしめたる数百年の久に渉りたるに於てをや。この時に當り幕府の爲に謀らんには、勢に乗じて我より立憲幕府制の規模を擴張して、以て天下の人心をしてその豹變の實を知らしめて是に適從せしむるに在るのみ。然るを井伊大老の政略は此進歩の順路に就かずして却て保守の獨裁幕府制を回復するの逆流に遡りたるが故に、其歩を進むるに從いて益々逆境に陥り、ついに功罪相償ふに足らざるの譏を招くに至れり。
井伊大老が就職の初に行ひたる一大英斷は條約調印の事なりとす。安政五年より六年に渡り、延べて其後に至り幕府をして衰亡の困難にいたらしめたるは此條約問題にてありしが故に、當時の論者は此擧を見て売国の罪科と迄に議したるに反し、ある一種の論者は又この擧を賞して井伊大老は開国の大本尊なりと賛嘆せるが如し。蓋し二つながら實際を知らざるの評なりと云うべし。竊に當時の事を回顧するに、井伊大老は心中に思えらく、一橋卿を退けて紀州宰相を御養君に立つる以上は同時に立憲幕府制の黨派を撲滅せざる可からず。其爲には京都にも諸大名にも大に及ぼす所あつて騒動を起こすに至るべし。其時に當たり此内訌に加ふるに外患あつては迚も内外に兼ね應ずること能わず。加ふるに條約調印取消は迚も實際に行わる可からざれば、寧ろ彼が望に從いて早く調印を成して先づ外顧の憂いを除き専意内を治むるに若かず。且や京都の條約不承知は其原由諸藩の有志浪人に在れば、これを退治する時は京都は幕府の意の如くなるべしと斯く観察したるに由て井上信濃守、岩瀬肥後守をして六月十九日を以て亞國全権ハルリスに會して條約調印をなして交換せしめ、廿二日を以て大小名を總出仕せしめ、亞國條約の次第朝廷へ御伺いに相成り、再應諸大名の存意を尋ね其上にてご決心あるべき筈なれ共、今や英佛二國は新に清国に勝ち其勢いに乘じて將に我國に來り條約取結を請求せんとす。今日の策たる我早く亞國と條約を調印し、其條款に限りて以て彼に應ずるあるのみ。朝廷へ御申濟に相成不申候ては取計ひ為され難しと雖も、清国の覆轍を踏むの恐れあるを以て亞國條約に調印せしめ、此一條不取敢先づ宿次奉書を以て京都へ仰進られ候と演述し、先には朝廷の意を奉じ諸大名、諸役人に諮問したる個條に對し大小名よりの意見書を招集せらるゝ最中たるにも拘はらず調印を實行し、一介の使者をも發せず、宿次奉書(今の郵便)を以て京都に奏聞したるは、是恰も京都に向ても諸大名に向ても最後決意書を送りたるに異ならざるの所爲なりと云ふべし。これに對し京都の事は後に譲り、江戸に於ては水戸、一橋、越前、尾張の諸卿侯爭でか默止すべき。或いは自ら登城し、或いは書面を以て交々其不是なるを論じたれども、井伊大老固より決心する所あるを以て首相の權威を張りて之を斥けたり。次に御養君の事は六月朔日を以て其掛り御役人を定め、其後紀州宰相登城将軍家御対顔ありたりければ、一橋黨は頻に紀州宰相の年少を口実として反對を試みたれども、井伊大老は更にその説を聞き入れず、遂に六月廿五日を以て紀州宰相慶福卿を當将軍家御養子に定められたる旨を公布したり。斯て條約調印御養君一條に付き、井伊大老は反對派を撲滅するの手始として、六月下旬には堀田備中守、松平伊賀守の兩閣老を免職し、太田道醇、間部下總守、松平和泉守を閣老に就職せしめ、酒井若狭守を京都所司代に命じ、尋で真部閣老を上京せしめ、七月六日には将軍家の大漸に際し尾張中納言(慶恕卿)、水戸先中納言(齊昭卿)松平越前守(慶永春嶽)に謹慎を命じ、一橋刑部卿(慶喜公)の登城を差止めたれば、朝野物議騒然たり。
然るに将軍家家定公(温恭院殿)は七月七日を以て薨じ玉ひしかば例に依て之を秘し、八月養家を以て其喪を發し、御養君宰相十三歳にて繼承し玉ひたり。徳川第十四世家茂公と稱し奉りしは即ち此御方なり。夫れよりして井伊大老は幕吏の俊傑と當時に知られたる水野筑後守、永井玄蕃頭、井上信濃守、堀織部正、岩瀬肥後守を初めて外国奉行に任じて専ら外交の事に當らしめ、七月十日も以て和蘭條約、其翌十一日を以て魯西亜條約、同十八日を以て英国條約、九月三日を以て佛国條約を調印したれども、更に京都の勅許をも仰がず、又諸侯にも意見を求めず、断然として獨裁の政を行ひたり(此亞蘭魯英佛五ヶ国の條約と云ふは、即ち今日までも猶改正の實を視ること能はざる所の現行條約なり)。前将軍家已に薨じて新将軍家尚幼なり。田安大納言御後見の名はあれども、其員に備はるのみにて實權は内外とも都て井伊大老一人に帰したりければ、大老の威力には誰あって敵するものは無かりしが如く見えたれども、天下の人心は恟々として安からず、幕吏の志ある輩は禍機の正に近づくを憂ひしに、果たして此年京都の大獄を起こしたりき。

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