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幕府衰亡論
 ◎第十一章
  京都の大獄
   井伊大老の強硬政略
   間部閣老の上京
   斷獄過嚴の事情

安政五年京都の大獄は述べて以て安政六年に至れり。當時これを戊午の大獄とは名付けたり。井伊掃部頭が大老たる初に於て其果断の伎兩を示し、徳川氏の獨裁幕府制を恢復せんと熱心したるもこの一擧にして、而して徳川氏の幕府を衰亡せしむるの結果をば反対に喚起したるも亦此一擧なれば、幕府の衰亡を論ずるに當りては深くその事情を推究せざる可らず。井伊家は累代京都守護の任に當れる家柄にて、亞國船渡來以來漸く京都が政治に干渉せられたるに及び、幕府は猶以一層守護の事を井伊家に命じたりき。井伊掃部頭は元來有爲の人物なりければ、彼の尊皇攘夷の源流は初め之を水戸に発し京都に至りて一大湖海となり、將に壊裂して日本全国に氾濫するの勢あるを熟察して、其事情を十分に探索せしめたり。井伊氏が腹心なりと知られたる長野主膳の如き、宇津木某の如きは、實に親しく京都の事情を探知して井伊氏に報道したる輩にてありき。故に井伊氏は大老に任ぜらるゝの前に於いて、疾も水戸が京都に如何なる手入れを爲しつつある乎を詳細に知得たるは疑いを容るゝまでもなかりければ(手入れとは徳川氏の制度に於いて武門が公卿に交通するを嚴禁するに拘らず、之を犯して密かに公卿に聯絡を通ずるを指して云へる當時の用語なり。)、井伊氏は大老に登るや否やこの手入の道を遮断するを以て幕府を安んずるの第一策とは信じたるなり。其心に思らく、(一)朝廷の御事は畏し言ふ可らずとして其他の親王、攝家、清華の公卿を見るに、内外の國情は云ふも更なり、敢えて開鎖に關して此れと云ふべき程の見識を有するもの無し。其今日に囂々するは尊攘家の扇動に出るのみ。(二)尊攘家の本尊は水戸なり。而して水戸老公が此論を主唱して諸方の有志者を扇動してついに京都に及ぼしたる其目的は他無し、老公自ら幕府の攝政となりて政を専らにし、其實子一橋刑部卿を将軍家の養君に立てんが爲の策略なるべし。(三)故に老君はまず京都に手入れをなして幕府干渉の葛藤を與へ、次に一橋刑部卿儲君と定まらば是をして京都の葛藤を解かしむるの密謀なるべしと斯くの如く憶測したるが故に、幕府にして苟も英斷を以て尊攘論の本を治めば京都は其末なり容易に治るべしと考定して、第一着には條約調印を勅令を待たずしてこれを實行したるなり。當時不時登城とて水戸老公、越前候が江城に出で、其不可なるを論じたるも、井伊氏は大老の職権を以て一言の下に異議の口を鉗して之を退け、第二着には閣老間部下總守を京都に派遣して處理せしめたるなり。
此時に當り、京都にては幕府が勅諚に背きて條約を調印せしめたるを怒り、剰え宿次奉書を以て其旨を奏したる不禮を惡まれたるさ中に間部閣老が上京に會し、幕府は何らの分疏をなす乎と堅唾を嚥て待構えたるに、間部閣老は幕府は國安を謀て條約を調印したるなりと云ふ外には敢えて別段の陳述もなさず、曩に堀田閣老が公卿に對して専ら贈遺の豐なりしには似ずして、間部閣老は故さらに威嚴を示すを事とし、所司代酒井若狭守並びに町奉行小笠原長門守の諸人と心を合わせ、彼の京都手入の事情を探索して其實を得るを勉めたるに、其嚴密に探索せるに從いて諸藩より京都に手入れしたる事、中にも水戸より手入れしたる事は其證迹判然として掩ふ可からざるに及べり。間部閣老は井伊大老の前見の違はざるに服し、幕府の禍源たる攘夷論の氣焔を撲滅するの方法を案じたるに、(第一)尊攘黨の有志輩を捕縛するに適当の名義を以てすべき事、(第二)親王公卿諸侯には成べきだけ直接の關係を及ぼさゞる様に可致事と云へる二條の内訓に制せられて、未だ陽はに追補の着手を成さゞりしに、恰も同時に起つたる内勅一件は間部閣老、井伊大老をして斷行の決意を成さしめたりき。
余が前にも述べたる如く、尊攘論は初より京都にて發したるに非ず、其實は水戸その發源にして、先ず東に起こりて西に及ぼし全國に瀰漫したる者なれば、尊攘の本家本元は水戸なりという事を忘る可からず。然るに水戸老公は井伊大老の爲に嚮に幕府の譴責を被り駒込に蟄居を命ぜられたるに拘らず、水戸藩有志輩が京都手入れに盡力して同意の公卿を作興するや益々其歩を進めて、遂に此年八月七日を以て密勅を水戸に賜はるに至れり。此密勅の文章は當時秘密に係て公に記録したるもの幕府の存せずと云へども、世上に流布せる所は左の如し。

此度幕府諸有司より宿次を以て御伺無之假條約調印致し候趣申來候儀右之通にては折角天朝より勅命御下候甲斐も無之大樹公京師御伺之趣意も相立不申候大樹公賢明の處有司の所存如何と不審に被思召候右様にては外夷は差置き國内人心の折合いにも相拘候儀深被惱宸襟候其上水戸前中納言尾州越州蟄居有之候儀如何の罪状に候哉難計候得共三家家門の儀は柳営の羽翼にも相成大切の家筋外夷入津國政多事の日に當り右様の次第にては實に徳川家の盛衰に拘わり候條深被惱宸襟候間三家三卿大老閣老國主外様譜代會議奉安宸襟候處置有之度被思召候事

この密勅の結果は姑く後日の論に譲り、斯る密勅の周旋に従事したる輩は決して捨置くべきに非ずと、間部閣老は屈竟の名義を得たるを以て復た憚る所なく直ちに追捕の令を下し、水戸の鵜飼吉右衛門、同幸吉、薩州の日下部伊三次、鷹司の小林民部、兼田伊織、三國大學、繪師浮田一蕙、儒者池田大學、等十一人を縛して江戸に護送せしめ尋で其連累を探索し、其証跡を得たるに從つていささかも假借する所なく捕縛せしめたりき。此安政戊午密勅の獄に關しては、當時世論の尤も井伊大老を咎むる所にして、余と雖も亦是非の論なきに非ず。然れども單に密勅を申請たると密勅を下されたるとに付いて言ふ時は、凡そ史家たるもの井伊、間部の處置は一概に不法なり、不埒なりとは斷定すべからず。抑も徳川幕府が朝廷に対するや、仮令幕府の主権は強假にもせよ委任にもせよ朝廷これを許諾して幕府の所爲に任せられたる以上は、幕府を差し置いて漫りに諸侯と政治上の通信ある可からざるは朝廷も始より御承知あつて、實に慶長元和以降二百五十餘年これを守り玉ひたり。況や諸侯武士は幕府を經ざれば決して直接に朝廷と公私の交通を成さゞるべしと誓詞血判して其命令を奉ずるものたるに於いてをや。故に朝廷より何らの勅命ありとも、幕府の台命なき限りは之を奉ぜざるが即ち諸侯の本分なれば、若し此本文に背く時は幕府に對して政治の罪人たるは勿論なりと云はざる可からず。次に朝廷の勅諚には猶今日の公文式ある如く夫々の法ありて、奉勅連署の式備われり。若し此式を備へざる勅諚なるか、若くは式を備ふるとも其正當の手續を經て下されざる勅諚に會はゞ、幕府は真実の勅諚に非ずとしてこれを排斥する事を定めたるは、朝廷も諸侯も有司武士も皆倶に明知せる所なりき。今日より見れば幕府の制限は頗る妥當ならざるが如しと雖も、朝廷を立て幕政を行ふには此制を以て政令二途の亂階を豫防せしは、政治家至極の方案なりと云ふべきなり。然るに京都より賜つたる今度の密勅は(一)正當なる公文の式を備へず、(二)正當なる手續きを履まず、(さん)幕府に下さずして直に諸侯に賜ひ、(四)幕府を經ずして密かに申請たる等、盡く制令に違背せる所たり。苟も幕府たるもの是を不問に置かば、幕府は其時よりして主權を失ふの結果あるを以て、井伊大老が其事を糾弾せしめたるは敢えて不法にも、不埒にも非ざるなり。今日の大政治家をして當時大老の地位に立たしむるも、其他に出るの策は無るべき歟。一度この獄を開たるや否や、京都及び江戸其外に於いて捕縛せらるゝもの続々其踵を接し、宮方公卿の御家來、水戸、越前、長州、薩州、諸藩の武士、浪人、儒者、出家等、数珠繋ぎになって江戸に護送せらる。彼の安島帯刀、梅田源次郎、頼三樹三郎、僧空萬、老女村岡、茅根伊豫介、僧信海、飯島喜内、橋本左内、吉田寅次郎、藤森恭助などの名士はみな幕吏の爲に逮捕せられたる人々なりき。江戸の裁判所に於いて此諸人を糾弾せしめたるに、豈に密勅一件に關係のものゝみに非ず、あるいは今日の時期を以て政權を朝廷に回復するの策を運らせるものあり、或いは朝廷の力を假りて一橋卿を将軍に立んと論じたるものあり、あるいは間部閣老を暗殺すべしと議したるものあ理、又或は外國人を暗殺して攘夷の實効を魁せんと謀るものありて、尊皇と云ひ倒幕と云ひ、攘夷と云ひ、鎖国と云ひ、其目的は人に依て各々異なりと雖ども、帰着せるところは尊攘の二字に外ならざりき。是に於いてか安政六年の初に當り、井伊大老は此獄を聽かしめて、或は公に幕府諸有司の意見を尋ね、或いは陰に諸藩主の心底を探らしめたるに、彼の去年の御養君論に於いて一橋黨と認められたる人々は皆概ね、幕府の非常の寛典を以て此獄を斷ぜん事を望み、此獄たる京都を初として水戸、薩州、越前、長州などに關係あるを以て若し嚴に是を處斷せば、勢ひ朝廷にも親藩、大藩にも連及して不測の禍を招かんこと必定なり、宜しく先ず水戸を諭して勅諚を奉還せしめ、逮捕したる輩は寛大に處分して以って後を誡むべきなりと議し、すでに評定所一座(寺社奉行、町奉行、御勘定奉行、大小目付)は此處斷案を具して井伊大老に呈したるに、井伊大老はこれを聽かず、今日にして此獄を嚴重に斷じ、以て其罪を正し、凡そ天下の尊攘黨をして戦慄せしむるに非ざれば幕府の威權を維持すべからず、親藩にせよ諸侯にせよ毫も假借するの必要なしと云へる正反對の意見を持して評定所一座の具案を斥け、其職を罷免したるのみならず、畢竟此輩も一橋黨なれば此機を以て尊攘黨と共に一網の下に打滅し幕府の方針を一定するに若かずと考へ、一座の掛を同論者に命じて嚴重に處斷せしめたれば、此輩は大老の意を奉邀して嚴科の罪案を具し、名士にては安島帯刀、飯島喜内、頼三樹三郎、橋本左内、吉田寅次郎、茅根伊豫介、鵜飼幸吉などを死刑に處し、其他牢死し、又は遠島、追放の刑に處したるもの六十餘人の多きに至り、諸侯にては水戸中納言(慶篤、老公の嫡子)、水戸前中納言(斉昭老公)、一橋刑部卿(慶喜)、中山備前守(水戸の御附)、松平讃岐守、松平大學頭、松平播磨守(水戸の分家)を初として、尾州、越前、土州、宇和島等の諸侯を或は蟄居に、或いは隠居に命じ、幕吏にては岩瀬肥後守、永井玄蕃頭、川路左衛門尉、本郷丹後守、石河土佐守、佐々木信濃守等を隠居、永蟄居に處し、其余凡そ幕府に在りて名ある有司は皆盡く黜けられたるを以て、嘉永癸丑、安政庚寅以降國事に盡力したる幕府の進歩派即ち立憲幕府制を助け長じたる輩は此時を以て地を拂ひ、復當ろに一人も留めざるに至れり。此處斷の嚴酷に失したるは言ふ迄も無く、徳川幕府あってより以來未だ是の如き政治犯大獄を見ざりしを以て、此獄の爲に益々天下の人心を激動せしめ幕府を怨嗟せしむるに至れり。是れ井伊氏の罪なりと史家の断案を下せるも左る事ながら、然らば即ち此時もし井伊氏にして寛典説を納れて處斷したらば如何にと顧るに、勅許を經ずして條約を調印したる責めは愈々幕府の上に降懸て、幕府は外交上益々困難の地位に陥り、内訌外患の爲に収拾すべからざるに至るべし。故に事此に際しては、寛猛倶に衰亡を招くに止まるべきのみ。

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