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幕府衰亡論
 ◎第十二章
  條約實施後の情勢
   五國條約
   開港場の貿易
   金銀貨の難題 物價沸貴
   攘夷等の迷想

幕府は前年(安政五年)五月勅許を經ずして經ずして調印したる條約の明文に從い、即ち此年(安政六年)六月二日を以て亜墨利加、魯西亜、荷蘭、英吉利、仏蘭西の五國の為に神奈川(横濱)、長崎、函館の三港を開き、その外交官の駐在を江戸に許すことを實行したり。抑も此外國條約を勅許を經ずして調印せしめたる井伊大老の斷行は、其事情切迫の故に出たること既に前章に述べたるが如し。然るに当時幕府に向って此擧を非難せる議論は、勅許を經ざる専斷と云ふの外に、外夷の虛喝に威嚇せられたりと云へること尤も勢力ある非難にてありき。蓋し其前々年(安政四年)亞國官吏が堀田閣老に宇内の形成を辨じ、開國の必要を説きしに當り、幕府が尤も憂慮したるは英佛二國が支那に戦い捷てる餘威に乗じて日本に來たり清國と同様なる條約を我に請求する事あらんに、若しこれを拒絶せば戰争となりて或いは清國の覆轍を𨂻むの恐れあるべしと云ふに在りき。是實に亞國官吏ハルリスが専ら幕府の注意を喚起したる所にて、幕府も亦此注意を怠らざりしなり。故にハルリスが日本の爲に謀るに一日も早く其草案の條約を日本と亞國との間に取結び、此れを以て日本外交の標準と定め、英佛魯蘭の諸國をして此標準に從はしむるを上策なりとすと議したるは至極の名案にて、蓋し此外に安全の策は無かりしなり。果たせるかな、安政四年ハルリス出府して将軍家に謁見し條約談判に及びたりと聞きて、荷蘭外交官ドンクルキルシュスは長崎より陸路を經て翌年(安政五年)三月を以て江戸に着し、魯國使節プーチャチンは四月を以て軍艦にて下田に來り、英国使節ロルトヱルジンは七月を以て艦隊を率て江戸に來り、佛國使節バロングルーは是も八月を以て艦隊を率て江戸に來り、各々和親貿易の條約取結を請求したりしが、幸いに幕府は六月十九日を以て井伊大老の英斷にて先づ亞國條約を調印して其標準を定めたるに由り、其條約は今日より見れば尤も不十分なる條約にてありしにせよ、荷蘭は亞國に倣いて其標準を守り魯國も亦敢て其外に出でず、左しも東洋の新貿易には常に其覇威を逞くせる英國も、次に英國と東洋貿易の競争者足らんと鋭意せる佛國も、すでに亞國の爲に先鞭を着せられたるの故を以て、條約の個條に於いて別に新加する所なく、幕府の全權が亞國條約通りならば締盟すべし、其外は日本これに應諾する事能わずと云へる至當の趣意を破る事なくして、恙なく俎豆禮譲の間に條約取結を了する亊を得たりき。若し當時井伊大老に英断の勇なきが爲に亞國條約を調印する事を得ず、其辭柄は京都にて勅許なきが故なりと云ふ事を表白し、亞荷魯英佛五國の公使に向て幕府その條約談判を拒絶するか、但しは京都の注文通り得心の往までいずれも調印延期あるべしと言張りて條約談判を結了するの事の無かりしならば、いかなる結果を現出したるならん歟。五國の全権は指をくはえて徒に京都勅許の日を際限も無く待つ事は爲さゞりしなるべし。五國の全権はよもや各々穏やかに江戸灣を去り、その艦隊を下田に繋て幕府の命を俟たざりしなるべし。五國の全権は将軍家を日本の主權者とは認めざるべし。五國の全権は或いは京都を主權者と認め、直に攝海に廻りて直接に朝廷へ對するの談判をも相談せしならん。五國の全権が聯合政略は此時になりて或いは現行條約よりは一層も二層も我に不利なる草案を提出したるならん。尊攘黨の精神は金鐡を透すべきも、其砲彈は船舷を透すこと能わざるが爲に、開戰せば一敗地に塗れしならん。春秋城下の盟を耻づと吾輩が幕府に向て攻撃したる詞は、却て彼輩これを實驗するの不幸に陥りしんらん。之を約言すれば日本は其爲に内亂外患同時に起こるの禍亂に遭ふは免れざるの勢にてありしならん。是に由りて之を觀れば、條約調印に勅許を經ざりしは仮令ひ幕府の過にせよ(幕府政躰より論ずれば敢えて過とは斷定すべからずと雖も)、其專斷は即ち日本をして外患の戰亂に罹らしめざるの大功ありしは疑いもなき事實なりしに、当時の尊攘論者が英佛條約談判の穏に結了したるを見て、扨こそ幕府は外夷の虛喝に威嚇せられたれと憶斷し、其功を見て其罪をと誤認し、益々幕府の外交處置を憎惡したるは慨嘆すべきの時勢なりき。

斯の如く尊攘黨は、(一)幕府は勅許を經ずして條約を擅に調印し朝廷に対して不臣の實を表したり。(二)幕府は幕府は外夷の虛喝に威嚇せられて外國の請求に應じ日本國の躰面を辱めたり。(三)幕府は朝廷より水戸に下されたる密勅を妨げ有志の諸侯有司志士仁人を刑戮して暴惡の政を施せり、(四)幕府は外夷の使臣を寵遇し外夷の商賣等に利益の貪餐を專にせしめ日本の疲弊を顧みざる者なりと、實際の事情は毫も之を觀察せず、思考せず、徒らに單純なる理論を捏造して交々幕府を攻撃するを事とせるや、今日の書生年輩が政府の処置を非難するに比ぶれば更に數等の甚だしきを加へ、安政六年の夏に到りてはついに腕力を以て尊攘を實行するの決意を促す迄に進みたりき。

然れども彼尊攘黨をして開港の時よりして此観念を深くせしめたるも又敢えて其故なしとせざるなり。試みに彼等が胸中を洞察して之を言わんに、彼らは常に思へらく、外國人は夷狄なり、然るに其夷狄の使臣なるものは傲然江戸に來り壮大なる寺院を旅館と定めて之に止宿し、國主大名にも比適すべき供連を率ゐ閣老と対等の地位に立ち、日本帝國の威勢をも恐れず放言横議して憚る所なし。而して幕府の閣老有司は戰々恐々ととして之を尊敬し、剰さへ大和魂ある武士をして其爲に倣はしめんとす。無禮も亦甚と云ふべし。我ら神州の爲豈この恥辱を傍観するに忍びんやとは、是れ尊攘黨が當時府下に駐箚の外國公使を見るの観念にてぞありける。次に又横濱の貿易場を見れば彼らは思らく、此開港塲に來住するものは外夷の商人なり。然るに此夷商は巨大の邸宅を新築し、許多の奴婢を抱へ、雙刀を挿める武士有司に對して敬禮をも表せず、我が神州の農工商を眼下に見降し、彼が玩弄驕奢の物品を高價もて我に鬻ぎ我が日用の生糸茶銅を廉價もて買ふは、是我國を疲弊せしむるの陰謀なり。我等神州の爲に豈この禍害を座視すべけんやとは、是れ尊攘黨が横濱貿易の状況を見たるの観念にてぞありける。尤も開港の當初より幕府滅亡に至る迄の外國貿易輸出入差引は常に輸出に餘籯ありしは、余が親しく目撃して疑ひを容れざる所なれば(但し幕府及び諸藩が陸海軍の爲に船艦銃砲機關を買入れ、又は外國へ使節留學生等を出したる爲に費したる費用は此外なり)、二百有餘年の鎖国を開いて遽に貿易を行いたりとて敢えて忽に全國の人民に疲弊を感ぜしむる程の事は無るべきに似たれども、實際に於ては百般の物價此時より俄然騰貴したる爲に、天下を擧げて其罪を開港に歸したりき。此に其然る所以を略叙せんに、初め安政二三年の間に於て下田及び長崎にて亞、魯、蘭三國の船艦が日本物品を買入れるに臨みては、従来長崎にて荷蘭貿易の爲に定めたる芳醇に従ひ、墨是金貨は金貨と、銀貨は銀貨と同種同量を以て引替ふべしとある條約の明文に從ひ、幕府は開港一カ年間は外國貨幣を日本金銀に引替ふるの義務を有したり。然るに日本に於ては往古より金銀の間に定まりたる釣合は無りしと雖も、慶長の頃には凡金一と銀十にして、其文政の初に鑄造二朱銀即ち南鐐は其八片を以て小判一兩に換ふるの制なりければ、凡金一銀十四に當りしかと記憶せり。然るを幕府は財政困難を一時彌縫せんとて一分銀を鑄造したり。其一分銀は南鐐一片(即ち二朱銀)よりも軽量なるに由り、金銀の釣合いは大いに一変して金一銀六になりて以て開講の時に及びたり。故に洋金一弗を以て我金貨に交換すれば小判三十兩に足らざれども、洋金一弗を我一分銀に交換すれば七十七兩三分に餘るの不都合を現出したり。幕府は之を救わんが爲に水野筑後守、高橋美作守などが建議を採用し、更に南鐐二朱銀を鑄造し故意に其量目を増し、南鐐二片を以て洋銀一弗と同量たらしめ、以て洋銀四弗と金一兩とを同位に置かんと計畫し(即ち洋銀一弗は一分の價)鑄造の南鐐を通用に出したれども、惜かな其鑄造の員數は盡く流通の一分銀を引換るに足らざるが爲と一分銀の流通を禁止すること能はざりしが爲に外國公使の議論に破られて僅かに十日計りにて廃止となり、洋銀と一分銀とを交換することに定まり、洋銀一弗は三分の通用となりたるに付き、外商の利に鋭きや洋銀を一分銀に交換し、其一分銀を以て我金貨を買い入れて輸出すれば、即ち百弗を以て三百五十弗餘の金地金を買得の實ありて、我國の金貨は此時を以て外國に流出せる、水の卑に付くが如くなりき。幕府は其容易ならざる禍たるを覚り、急に外國公使に協議し、前には南鐐再鑄を以て我銀を引下んと試みしに引變て今度は小判の量を減じ其形を小さくして金を引上げ、以て凡金一銀十四と釣合となし、外國の金銀貨に對して其平均を保つ事となしたり(安政六年に金貨を改鑄し、次に其翌萬延元年に改鑄したる、俗に所謂豆小判即ち是なり)。斯の如く金貨改鑄にて其量を減じたるに由り、物價も随って騰貴したるは實に理の當然なれば毫も怪しむに足らざるに、尊攘論者は更に此事情を知らざりければ一途に物價騰貴は外国貿易の罪なりと臆斷し、また我生糸の盛んに輸出して絹織物の値を騰貴したるを國家の大害なりと臆斷し、到底輸出を見ては我國必要の物品を奪ひ去らるゝと悲憤し、輸入を見ては我國必要の金銀を奪ひ去らるると慷慨し、鎖港して以て貿易を禁じざれば此禍を救ふこと能はずと斷案をば下したるなり。

此迷想は尊攘黨に限らず物價騰貴に囂々せる土民は皆その罪を貿易に歸したるを以て、随て益々幕府を怨嗟するの念を一般に熾ならしめたり。是に加ふるに京都の大獄は非常の激動を尊攘黨に與へたれば、尊攘黨は(今日の政治黨派の如く主義、綱領、規約、黨則を定めて結合したるものには非ざれども)期せずして其志を同くし、開港の初よりして横濱に於ても江戸に於ても外国人を暗殺するに従事し、幕府の戒嚴その怠を覗て頻に殘忍無道の暴刃を外國人の身上に降し、其爲に幕府をして外交上困難の地位に陥らしめたりき。而して彼輩が此の暴擧を以て快なりとし、一外國人を殺せば輙ち恰も攘夷の實行に一歩を進むるが如くに信じたるは、無智の故なりとは云へ訝るべきの心底なりき。

幕府は外國に對して其來住の外民を保護する能はず、現に英国公使館の門前にて(高輪東禅寺)其館の雇人を殺害したるも其行凶者を逮捕するを得ざりし程なれば、頗る其威信を外に失ふに及びたれば、井伊大老は更に其斷行の度を進め大いに幕府の威力を内に皇張せんと謀りたるに、其翌年萬延元年三月三日を以て暴徒の為に斃されて幕府の衰亡に向て一大期を與へたり。其事は次章に開陳すべし。

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