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幕府衰亡論
 ◎第十三章
  井伊大老を暴殺したる凶行
   其處分に付いて幕府の失躰
   水戸老公の薨去
   攘夷論の氣焔

万延元年三月三日は如何なる日ぞや。輔弼の大老は暴徒の凶手に斃れて、幕府の運命は之よりして大いに傾きたりき。抑徳川第一世家康公が天正十八年を以て初めて江戸に居城を定め玉ひてより、正に二百七十年代を累ぬること十四世、日本の政權を幕府に掌握し、世界に比類なき永き歳月の間常に泰平を保ち、将軍家の繁栄は隅田川の水と共に窮まりなかるべしと信じたりしに、大老職が櫻田の變に遭はれたるが爲にたちまちに其衰亡を促したること實に豫想の外なりと云ふべし。
櫻田の變は世間其事を記すもの多きを以て余は敢て其事を叙せず、又これを叙するに忍びざるなり。彼の凶行者たる暴徒は概ね水戸の脱藩浪士等にして、幕府の御大老たる井伊掃部頭を暴殺に及びたる趣旨は、専ら(一)井伊大老が勅命を待たず擅ままに外國條約を調印せしめたる事、(二)江戸に外国公使を居留せしめ、貿易の爲に三港を開きたること、(三)水戸に降ろされたる密勅の事よりして尊攘の志士を逮捕し是を嚴刑に處したる事、(四)公家諸侯幕吏の正義家を連累なりとして罰した事等に原因せるは、暴徒が携行したる趣意書の如くなりと雖も、要するに水戸の老公を禁固し一橋刑部卿を将軍家に立たざりし事は、彼輩の怨を買いたるの価値ありしは疑も無き事實なり。蓋し井伊大老は徳川氏末路の豪傑にして果斷敢爲すの氣象に富み、幕府の安危を以て己の一身に任じ群議を排し世論を顧みず。天下のためには斯の如くならざれば不可也と信ずれば生命を犠牲にするも是を斷行したる事、實に一大政治家の大宰相たるに耻ぢざるの人なれば、余はこの人を推して幕府の名相の其一に數ふる事を躊躇せずと雖も、其事績を見れば、剛愎事を用ひ信任せる輩は概ね其人に非ず。幕府多事の日に際して年長賢明の公子を棄て幼弱の儲君を立て、家門諸侯幕吏にして有爲の人物を退け、傲慢にして専斷を喜び、己が意に愜はざる有司を排斥し、國事犯を處するに厳科を以てせるの事實は、其過も亦鮮なからざりき。去れば幼君を擁して大政を左右する者なりと當時の世論に責められたるは、辨ずるに辭なかるべき歟。
余が井伊大老を殺害せる人々に向て暴徒の名を下したることに付き、爰に一言せざる可からず。蓋し此刺客は原來井伊氏其人に對して寸毫の恨みあるに非ず、而して白晝之に向て刃を刺し、その身を殺して顧みざりしものは偏に政治上の趣意たるに外ならざることもちろんなり。殊に此人々は明治維新の爲には功労ありし者とあつて、啻に其罪を免されし而已ならず忠臣の内に數へられ、現に明治歴史にては其行為を以て天晴の振舞なりと認められつる程なれば、暴徒の名を下すこと決して有るべからずと詰責する論者もあるべし。然り、余も亦其然るを知るなり。然れども今や幕府の爲に其歴史を編し、幕府の爲に其衰亡を論ずるに當りては、史家の眼中に明治政府あるべからず。又明治政府の今日あるが爲に其見識を左右すべからず。自己の一身を幕府の内に置き、徹頭徹尾幕府になりて觀察せざれば即ち其眞相を得るに難く、随て又直筆直論の正鵠に達するを得ざるものなり。是故に明治維新史を編するに臨ては、此櫻田の刺客を義士となりとも忠臣となりとも、正義忠烈天地鬼神を感動せしむるとなりとも自由に賞賛せよ。幕府衰亡史を編するに臨みては現に政府の大宰相を殺害した輩なれば、暴徒なり凶行者なりと斷じて直筆すること是れ史家の當然なりとす。例えば明治史を編纂するの史家が、赤坂喰違いに於て岩倉公を傷づけたる輩を何と名くる乎、紀尾井坂にて大久保公を害したる輩を何と名くる乎、京都にて英國公使の參朝を途に待て亂妨を加へたる輩の如き、近くは露國皇太子に傷を負はせ參らせたる者の如きを何と名くる乎。暴徒の名を下せるに非ずや。然らば即ち明治政府の參議たる大久保侯を紀尾井坂に殺したると、幕府の御大老たる井伊侯を櫻田に殺したると何の差異かある。明治政府の右大臣たる岩倉公を喰違いに傷づたると、幕府の御老中たる安藤侯を坂下に傷づたると何の差異かある。史家の眼中には素より同一なるのみ。然るを其一は之を暴徒視しながら、却て其一を正義視せんとは是永劫無限際ある可からざる事なり。依發て余は幕府衰亡史を編するには桜田阪下の凶行は云ふも皿なり。京都、江戸其外に於いて幕府の官吏を殺害し、若くは脅迫したるもの、天誅を名として暴殺、暗殺をなしたるもの、外国人に向て是を殺害し、負傷せしめ、以て外患を醸さんと謀れるもの、外國公使館を放火したるもの、外國公使館を襲撃したる者の如き、明治史が何等の賞賛を與ふとも、余は幕府史に於ては斷じて之を暴徒なりと名け、暴擧なりと名けざるを得ず。然のみならず、畢竟當時の攘夷家が徳川政府に拮抗し、徳川政府の外交内治に妨害を逞しく輩をば、其行爲の法律に觸るゝも國憲を紊乱するも問はずして忠烈の美擧なりと賛し、明治維新の後に於ても之を賞譽したること、實は暗々に國事犯罪の暴擧を慫惥したるの跡とせずと迄に論ぜんと欲するなり。
却説幕府が櫻田の變に遭て是を處するを見るに、實に抱腹に耐へざるほどの事にてありき。此日や所謂上已の式日にて、諸大小名は皆将軍家へ拝賀の爲に登城したりける所に此變事の注進ありたりければ、城内は上を下へと湧くが如き騒動にて、井伊邸内の武士は水戸こそ當の敵なりイデ打て出て水戸邸に押寄すべしと、唯今にも兵具を携へ人数を繰出さんずる状況なりと聞え、又井伊の藩士は主人殺害せられたる上は一藩改易たるべきに付死物狂いに働くべき決心なりと聞こえたれば、幕府の官吏は之を鎮撫するに心を痛め、閣老參政三奉行大小目付の評議を以て急に御目付を井伊邸に出張せしめて藩士の暴挙を制し、井伊藩士よりは掃部頭殺害せられ其元を失いたりと有躰に届出んと云へるを論し、途中にて狼藉者に出會い怪我したるに由り歸宅仕候と虚妄の届書を出さしめ、将軍家よりは侍醫を遣はし醫薬を賜はりて存命の躰面を繕ろひ以發て一時を瞞着し、以て人心を鎭静せんと計りたれども、雪中とは云へ白昼の凶行諸人みな目撃したる事なれば誰か斯る手段にて瞞着せらるべき、此広報に接して朝野上下心あるも心なきも皆幕府の愚を嗤はざる者は無かりき。
幕府の爲に謀らんには此時に當りては尤も果斷剛毅の處分を要すべきに、余が前にも述べたる如く當時幕吏の有力者は御養君論の事よりして大抵は皆遠ざけられて當路にあらず、偶々當路にありける者も井伊大老に心服せしに非ざりしかば、今や大老の變死を見て之を悲痛せざる而已ならず、甚だしきは快事の如くに思ひたる輩もありき。故に世間にて尊攘説を喜べる者等が幕府の大宰相橫死の變に遭て恰も愉快の事の如くに傳説し、是よりして幕政更張の機會あるべしと思做したるはしたるは、今日より回顧すれば意外の想なるも當時に在りては正しく是の如くにて在りしは、幕府運命の衰亡する時とは云へ驚愕に耐へざるの有様なりき。斯くて井伊大老横死の後は、幕閣にて専ら事を執りて威權ありしは閣老の久世大和守、安藤對馬守の二候にてありし(久世氏が再び閣老に任ぜられしは此年閏三月朔日なりき)。久世閣老は事務に慣れたりと云ふ迄にて左までの識見ありとは聞得ざりしが、安藤閣老に至りては是また一個の政治家たりしは疑ふ可からざるところなりき。現に此老が外交困難の衝に當りて是を處辨せるの才幹を見て、其然るを證するに足るべきなり。斯て幕府は櫻田行凶の暴徒を國典に處すべき旨を以て井伊藩士を鎮撫し、其子息に與フルに遺領を以てし専ら彌縫策をのみ行いたれば、従來幕府の制度として大名旗本を問はず斯の如き不覚悟より橫死を遂げたる者は其禄を没収して家名斷絶たること祖先よりの憲法たるに拘らず、井伊家を其儘に相續せしめたること世論の囂々批判する所となりて、其爲に幕府の憲法復尊奉するに足らずと云ふの觀念を大小名に起こさしめたりき。
是よりして幕府の政權は久世、安藤二老の手に歸したるに、幾も無くして水戸老公は此年八月十九日を以て薨去せられたれば、幕府は其喪を發せざるに先つて永蟄居を許し、次で尾張前中納言及び一橋刑部卿の謹慎をも免じたりき。此老公の薨去は幕府に取りては其衰亡を促したるの不幸なしとせず。抑も老公の心事行為に關しては論ずべき跡も敢て鮮やかなからずと雖も、此人一世の豪傑にして尊攘の本尊たると同時に幕府の存立は常に其望む所たりしを以てこの人さへ其壽を永くせば幕府の命脉は未だ速やかに絶へざるべく、又水戸藩士等が老公の鼓舞作興の爲に動もすれば攘夷に過激の擧動を成したれども、老公の力を以て之を鎮壓するを得て将軍家をして俄に其大權を失はしむる程の事には及ばざりしならんに、老公が一旦世を捨てられたるが爲に尊王も攘夷も其勢を暴熾して収集す可からざるに至れり。是を要するに老公は尊攘を以て一時の士気を鼓舞するの望を懐き其主唱者とは成たれども、是を以て幕府を衰亡せしむるの念慮は會て無かりき。然れども鼓舞するに力餘て是を檢束するに力足らざるが故に、己も亦騎虎の勢に迫られて其胸底の深奥を實施すること能はざりしもの歟。事情こそ全く異なれ、西郷隆盛翁が明治十年に於けると同様の地位に立てりと評せんも亦不可なかるべき歟。然らば即ち老公の心事は大に史家の察すべき所なるべし。老公既に薨ぜられたれば水戸の尊攘熱は誰あって是を沈降せしむる者なく、凡そ此藩士にて時勢に梗概する輩は老公の遺志なりと唱えて、先ず眼前に攘夷の實効を奏せんと揚言して志士を嘯聚し、或いは横濱を襲撃せんと企て、或いは攘夷の先鋒たらん事を乞ひ、其爲に水戸侯は幕府と共に憂苦して鎮撫に心を勞したれども其命令は彼輩の間に行はるべくも見えず。且つ此時よりして京都も江戸も攘夷熱の流行にて、苟も攘夷と云はざれば武士の風下にも置かれざるが如くに認められたるを以て、心事の如何を問はず諸大名も亦幕府に向て攘夷を建白するもありて、現に井伊氏の彦根藩の如き一藩連署して上位の先鋒を願ひたるたるにて、当時の人心を知るに餘りあるべし。斯の如きが故に人心恟々として安ぜず。外國人を敵視して往々殺害を加へ襲撃を謀ること頻なりければ、幕府は之を鎮静するに困難し、是よりして人心不折合の用語は外交上の一問題となるに及べり。此事は次に譲りて、是より皇妹御降下の事を次章に述ぶべし。

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