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幕府衰亡論
 ◎第十四章
  皇妹降下 及 外交上の困難
   和宮御方御縁組は井伊大老の遺策
   此婚姻に付幕閣の目的に反對の結果を招きたる事情
   外國人暴殺の事情    堀織部正自殺遺書の為造

當今の御妹和宮御方御縁組御弘め被仰出之御下向の次第は來春たるべく以來は和宮様と稱し奉べく候とは、是れ万延元年十一月朔日を以て御三家始め在府諸大名総出仕の席に於て、閣老安藤對馬守より達したる所なりき。此和宮様と稱し奉るは忝くも當今(當今とは其時の主上を稱し奉る當時の用語にて即ち今上と云ふに同義にして、是は先帝孝明天皇を申し奉りたるなり)の御妹宮にして、此御縁組によりて徳川第十四世家茂公の配とならせられ、後に靜寛院宮と呼ばせ玉ひし御方なりき。此達を得て尾州、紀州の兩家は直ちに将軍家へ對顔あつて祝儀を述べられ、閣老久世大和守、參政遠藤但馬守は御縁組御用掛に命ぜられ、京都にては公卿一同へ所司代酒井若狭守の手を経て金一萬五千兩を将軍家より贈與せられて夫々の支度に及ばれ、和宮様御下向に付き當時幕府は内外多事なるに係らず、御迎えのために管理を上京せしめ頻りに圓滑を謀りければ、其翌文久元年十月を以て御發京同十一月十五日江戸着にて先づ清水の御屋形に入らせ玉ひ、同十二月十一日御出輿にて江戸の御本丸に入輿ありて御婚姻の御式めで度く濟ませ玉ひしかば、慶賀の歓呼は江戸城内に響渡りたりき。幕府衰亡の際に天下の一大問題たりし皇妹降下と云へるは即ち此事なり。抑も皇妹皇女の将軍家に嫁し玉ふ事は敢えて其例なきにしもあらず。すでに徳川第七世家繼公の御臺所に立たせ玉はん爲に正徳五年九月廿五日、霊元天皇第十七の皇女八十宮御方には江戸へ御下向あるべき旨を仰出され、翌正徳六年七月には京都御發輿の豫定なりしに、其年の四月晦日に将軍家薨去ありければ八十宮には御下向に相成ざりしと雖も、御臺所たるを以て淨林院殿と稱し奉り、御在世の間は都て幕府より別に御賄ども差上げたりし事ありき。依て井伊大老は其在職の日に於いて深く幕府の爲に将來の事を慮るに、今や天下の患いは尊攘黨が目前の暴擧にあらずして、遂に京都を浸潤し奉りて公武の間を隔離せしむるに在り。此患を豫防せんには公武の間を親密にして讒言離間を施すに地なからしむるに若かず。其爲には皇妹の降嫁を得て主上と将軍家の御間柄は外にしては京都關東、内にしては聟舅の御姻戚とならせ玉はゞ、時々将軍家には上洛もあつて内外の政治すべて圓滑に行はれて京都の干渉も遂に止むに至るべしと思惟したるに付き、陰かに懇意の公卿にも其意を通じて取拵へたる所謂政略婚姻なりき。然るに井伊大老横死の後に至り尊攘論の氣炎は益々熾なるに由り、久世、安藤の兩閣老は井伊大老の遺策を繼承し、兎も角も此婚姻を以て東西の情勢を一変するの外なしと信じたれば、一意に力を竭して其成就せん事を務めたるに、尊攘黨の有志等も亦此婚姻は尊攘主義の實行に不利なるを覺りて百万これを妨げる策を運らし、豈に言論を以てせる而已ならず、苟も皇妹降下を是なりとする人々には暴擧をも加へんずべき脅迫を示したり。當時千草、岩倉の兩卿をば彼輩が恰も幕府の間者の如くに罵たるは他なし、此兩卿が皇妹降下に同意ありしが故なるのみ。されば朝廷に於かせられても此婚姻には二の足を踏ませ玉へるが如き事情無きにしも非ざりしかども、公武親密の爲なり、天下泰平の爲なりと思召し、二つにはこの御降下よりして幕府は朝廷を尊奉するに其篤を加ふべしとも思召し玉ひけるか、遂に群議囂々として之を妨げたるに係らず和宮関東下向とは定まりき。斯くの如くなれば、幕府は當時財政困難の中をも顧みず降嫁の共張を豐にし、贈遺の金帛に吝む所なくて以て歓心を買はんことを勉め、其重臣が京都に於ての應答中にも、此御降嫁さへ御承認あらば将軍家に於ては何事にもあれ勅命を奉じ、攘夷をもなすべし、鎖國をも行うべしと、一時を彌縫せんが爲せんが爲に将來の利害をも思はざる言詞を放て京都を取拵へたるは蓋し其事實なるが如し。扨退て幕府の爲を謀れば、此降嫁は決して不是不利の擧に非ざれば、若し井伊大老をして世を永くして其職にあらしめば、必ずや此降嫁よりして朝廷幕府の間に著しく圓滑の功を見て、幕府の命脈を長くするの効果を得たるべき歟。惜かな安藤、久世の兩老には井伊大老の如き威權も無く、果斷も無く、其上に時勢も亦大老在職の日に同じからざりしを以て、勞多くして効少なきのみか、却て此降嫁の爲に幕府は尊攘黨の怨を深くし、遂に皇妹降下は廢帝の奸策に出る者なりと無實無根の大冤罪を幕府に蒙らしむるに至れり。其事情は後條に至りてこれを詳述して幕府の爲に其冤を雪がざる可からざるなり。而して眼を輾じて外交上を顧みれば、尊攘論の爲に幕府は益々政局の困難に陥つたりき。
百年前仏蘭西革命の際には自由と云へる一語は無限の勢力を有し、苟も自由の爲なりと云へば何等の粗暴も憚なく之を擧行したりき。其如く幕府衰亡の際には尊攘と云ふ一語は無限の勢力を有し、苟も尊攘の爲なりと云へば何等の粗暴も憚なく之を擧行したりき。是天下の人心幕府が開國平和の政略に倦みたると其主權は僭奪に出でゝ正統の王權に非ざるの感を増したるが故とは云へども、實に其粗暴過激にして法令にも道義にも背馳せること、余をして回憶する毎に恐怖嘆息せしめずんばあらざるなり。既に攘夷密勅の如き、當時の公文書を履まれざるを以て幕府憲法に於て諸大小名これを尊奉可からざるの制なるに、天下の学者論者に誰一人あつて之を議する者も無く、却て其實行せられざるを以て幕府の罪なりと論定したり。次には大臣暴殺の如き、其事情の如何に係らず政府の大宰相を殺害せる罪過は決して正義正論の許さゞる所なるに、天下の学者論者に誰一人あつて之を議する者も無く、却て其暴擧を以て日月と光を争へるが如くに稱贊したるを見て、當時の人心如何を證するに餘あるべし。人心正に斯の如くなりしが故に、攘夷と云ふ事は尊王と倶に彼所謂有志輩の眼中には唯一の目的となり、人ありて若し卿等外國人に對し粗暴の擧動を爲さば政府が困難を被る而已ならず、或は其爲に我國と外國との平和は破れて戰爭に及ばんも測り難しと忠告する者あれば、夫こそ我等が尤も冀望する所なれば、我等は尊王の爲には成し得べき程の困難を政府に與へ、尊攘の爲には咎なき外國人をも殺戮して戰爭を招かんと欲する者なりと公言して憚らざるの狀況にてありければ、其外國人に對せる擧動に至りては尤も恐るべき事のみ多かりき。試しに其一二を擧げんに、先づ安政六年六月横濱にて魯西亜の海軍士官三人を暗殺し、其翌萬延元年正月高輪東禪寺なる英吉利公使館にて同館の使丁傳吉を殺害し、同年十二月赤羽に於いて亜米利加公使館書記官ヒュースケンを暗殺したるを初として、或は公使等を路に擁して不禮を加へ、遂に同年に於ては水戸浪士等横濱を襲撃せんと議り、其外横濱、江戸の兩所にて攘夷黨の有志輩が外國人に向かて種々の害惡を加へたる、數ふるに遑あらず、果ては文久元年五月二十八日の夜を以て數十人隊伍を約束し、英國公使館高輪東禪寺を夜襲したる迄に及べり。幕府は此爲に外交上の困難を招き平和を破るに至らんことを恐れ、或は請求に応じて償金を贈り、或は當局の責任官吏を退職せしめ、或は謝狀を送りなどして平和を保維し、横濱にては官吏の外雙刀を帯するものゝ出入を嚴にし、下番と唱えたる邏卒を設けて警備せしめ、江戸にては幕吏の小身中より公使護衞の士を定め、次で旗本中より勇壮の者を擇び別手組と唱えて護衞に充てたるに、其中には我は天下の旗本なり、将軍家の後場前にて討死をこそせめ、偉人の守護たること能はずと慷慨せる者もあり。また譜代の諸大名に命じて公使館の外部を護衛せしめたれば其士の中には却て異人無禮なりとて之を傷け自殺したる者もありて、味方が味方にならず中々油斷の成り難き有様なりき。然のみならず暴徒等の中には横濱貿易を遮斷するの計を運等せる者もありて、輸出入品を賣買する商人を脅迫し、汝等異人と止めざれば天誅に行ふべしと怖かし、往々殺傷を商人に加へたるもありき。安藤閣老が寧ろ老中を殺し、将軍家を弑して内亂を醸すとも、外國人を殺害して外難を買う事を休よと嘆息したるは即ち當時のことにして、其心事の困難なる以て想像すべきなり。
此時に當り外國公使は概ね皆江戸を去りて横濱に退き、外國人身命保護の責任に關して幕府を詰り、外交上の危殆は恰も一髪を以て千鈞を牽けるが如くにして、一歩を誤れば忽ちに砲烟の爲に内外の間を遮絶せらるべき狀勢なりき。幸に安藤閣老が鋭意して自ら外交の衝に當り其善處を務めたると、外國諸公使が我國の事情を察知して平和を維ぐに熱心なりしとに由て、此危機の中を通過せるは實に我國の爲に祝すべき事なりしと雖も、幕府の命運は此爲に其衰亡を促したること吊すべきの事なりと云はざる可からず。是より先米國公使は日本人をして外國の事情を視察せしめんと希ひ、岩瀬肥後守と謀り、曩に安政五年條約談判の時に於て其條約批准は華盛頓に於て交換すべしと定め、岩瀬、永井の諸士は此使命を奉じて赴くの覺悟なりしが、後養君論の事よりして兩士とも井伊大老の意に触れて蟄居を命ぜられたれば、外國奉行新見豊前守、村垣淡路守は正副使に命ぜられ、萬延元年正月を以て米國軍艦に塔じて横濱を出て米國に赴き、同九月を以て帰朝したりき。是れ幕府より使臣を外國に派遣したる嚆矢なれば、米國にて是を優待するに非常の盛擧を以てしたれども、此使節等は歸朝の上にて時勢に阻遏せられて見聞を報道する事も成り難き有様なりき。但し勝麟太郎(後に安房守)小栗豊後守(のちに上野介)の兩名士その外の俊秀が所見を煥發したるは、盖し此行の効果にてありき。
将た外國奉行堀織部正が萬延元年十一月八日の夜を以て自殺したることに付き、當時種々に憶測の説を構へ、甚しきは其安藤對州に與ふる遺書なりとて當時世間に流傳し、近時編緝の史にも加へたる偽書あり。其偽書たるは書中對州が五罪を數へたるもの全く其痕跡無きにて明なり。現に余は當時幕府の小吏にて親しく外交の事に與り、安藤閣老が米使と其邸に應接せる毎に其座末に列なりたるに、曾て書中言ふが如き事なかりき。是等は今日にては少しく外交の事を知るものは一見して眞僞を辨ずるに容易なれども、當時に在りては之を辨ずるものゝ無かりしが爲に、堀織部正の自殺は思はざるの冤罪を安東閣老に與へ、彼の尊攘家をして安東閣老を陥るゝの機會を得せしめたるは實に意外の事なりと云ふべし。但し堀氏自殺の原因は余これを明知せざれども、當日余は西丸外國局に在りしに、外國奉行溝口讃岐守は外より來たりて同列に告げて織部正は唯々頻に對州に向て議論をして居れりと云へり。程なく堀氏も入り來り其同列に暇を告て早く退出せり。其擧動を見て水野筑後守は織部正が擧動平日に異なり、彼れ小心なれば自殺をせねば宜いがと案じたるに、村垣淡路神は然らば今日退出がけに余は彼邸に赴きて面慰すべしと語り合へるを、親しく障子一重を隔てゝ漏れ聞きたり。去れば堀氏が安藤閣老と當日營中に於て激論に及びたるに相違なけれども、其問題は明かに知れず。或は此時孛漏生全權江戸に來たり條約取結の談判中にて、堀氏は村垣氏とともに幕府の全權たり。幕府は初め孛漏生一國と思ひしに孛漏生に附庸せる諸國も自ら此約中に在りと云ふ一段に至りて、安藤閣老は頻に堀氏の不行届を論責したるに付き、堀氏は諸外國の属邦及び附庸國の例を擧げて其不行届に非ざる旨を辨じたれども、安藤閣老是を諾せざりしが故なりとも云日、或は外國人を殺害したる者は堀氏の家来にてありしを以て堀氏は其分疏の詞なかりしが故なりとも云へど、其確説は余が知らざる所なり。
此に外交上の一問題となりたるは、魯西亜軍艦が對馬に繋泊して占守の狀を示したること是なりき。此時に當り英佛兩國同盟の軍を以て支那に攻め入り北京に於て城下の盟をなし、魯西亜も亦同時に満州黒龍江省地方割譲の談判を開き其事漸く帰着するの期に至り、英國は日本の對馬に注目すると聞き魯國は是に先ぜんと欲し、乃ち文久元年二月を以て突然軍艦を對馬に寄せ上陸して陣営を張り占據の狀を示したれば、對馬の領主宗對馬守は驚いて急使を發し此事を幕府に上申したり。幕府は直に小栗豊後守を對馬に遣はして退去の談判を開か背たれども、魯國軍艦は辭を軍艦修繕に托して退かず、對馬の人心爲に恟々たりしが、英國公使は是を聽き東洋艦隊の総督に謀り、特に英國軍艦を對馬に送り退去の旨を懸合はせ、軍艦修繕は英艦にても之を助くべしと云はしめ、聽かざれば事に及ぶべきの狀に至りたれば、魯國軍艦は其言を納れて漸く此年九月に至て對馬をば退去したりき。對馬の地勢東洋問題に於て緊切の要地たるは夙に此時よりして始まれり。


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