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幕府衰亡論
 ◎第十五章
  廢帝論の虚説 及 征夷の誤解
   安藤閣老坂下の變
   廢帝論は憶測に出たる虚構の妄説
   京都が尊攘論の中心と成たる事情
   征夷の義を誤解したる事情

幕府が外交上に於て尊攘黨の爲に妨害を蒙れるや正に斯の如くなりき。而して内を顧みれば更に是よりも甚しき困難の情勢に陥り、政府の命令は益々士流の間に行はれず尊攘の二字は天下に敵なしと云ふ勢いに至り、浪人處士等みな尊攘論に關しては京都を笠に着て政府を攻撃し、苟も幕府にして尊攘の大義を尊奉せざるに於ては違勅の罪を匡して幕府を倒すべしと公言して忌諱なきに至れり。それ幕府にして日本政府に非ずんば則ち可なり、その政府たる限りは假ひその政權は鎌倉以來武将僣奪の結果を因襲したるものにもせよ、又は京都より随意に御委任あつて然るにもせよ、徳川第一世家康公が初めて幕府を江戸に開き日本全國に政令を布き國家政治の中心を定められしより二百五十有余年、京都もこれを承認し玉ひ、諸大名は勿論是に臣從し、六十余州敢て違ふ者なき日本政府なり。現に文久二年の勅諚にも國政仍舊委於關東と書かせられ、慶應四年に至りて大政返上と云ふに及びて初めて幕府が中央政府たる事を止めたるを見れば、當時に在て幕府が日本の大政府たり全國の中央政府たるに於て誰か意義を容るゝべき法理あらんや。然るを彼の尊攘黨は國憲を紊乱し國安を妨害して政府を顚覆せんと謀り、これを言論に行爲に顯はして其猖獗を極めたるが故に、幕府がこれを鎭壓するに手段を以てせんと試みたるは實に政府當然の職務なりと云はざる可からず。現に今日朝野の間に在りて老成の政治家と尊重せらるゝ諸氏の中には當時この尊攘黨にてありし人々も鮮なからず、若し此人々をして今日の政治家思想を懷いて當時の政府の上に立たしめば、彼尊攘黨の言動に對して之を默々には附去背ざるべし。然ば政府が尊攘黨に對して鎭壓の手段を施したるは政府的當の行爲なり。唯々井伊大老が過嚴の威權を用ひて其身を失はれたるに懲り、安藤、久世の諸閣老が復た果斷敢爲の政を行ふに躊躇し、徒に彌縫を事として爲に機會を誤り、遂に彼黨をして益々其機に乘ずるを得せしめ益々其志を逞しくするを得せしめたるは、幕府の爲には頗る遺憾とすべき所なり。若し安藤、久世の諸老にして井伊大老の後を承けたるに當り非常の英斷を以て幕府の政治を改革して自新の實効を顯橋、彼の尊攘黨たる浪人處士等が粗暴なる言論行爲を制するに公正なる方法を以てしたらんには、幕府の命脈も猶その衰亡を速やかならしむるには至らざりしならん。然れども此時に際しては其實朽索を以て六馬を繋げるが如き狀況なりければ、政府が彼輩を鎭壓し能はざる而已ならず、政府却て彼輩の爲に鎭壓せらるべき迄に主客の勢を顚倒したるに由り、遂に文久二年正月十五日坂下の變あるに至れり。
坂下の變とは、尊攘黨の暴徒數人にて此日閣老安藤對馬守が登城を坂下門外に待受け暴殺を行ひたりけるが、幸に安藤閣老は頭部に傷を負いて御門内に入り、其共方の武士防戦して其暴徒は盡く討取りたるに由り、安藤閣老は辛く其一命を全くする事を得られたりき。此行兇者たる暴徒が各自に懐中したりと云へる書面に據れば、結局幕府が尊王攘夷の實行を怠りたる過を責めて其罪を安藤閣老に帰し、天に代わりて之を誅すと云へる單純なる当時の當時の尊攘論に過ぎざりき。明治維新史を編するに際しては史家は此暴擧を稱贊するに忠勇義烈の頌辭を以てするかは知らざれども、余が幕府衰亡史を編するには暴徒の行兇と斷案し、此行兇の爲に政府が禍を被れる鮮なからざる中にも廢帝の一案は尤も深き負傷なりと云ふ者なり。彼の暴徒が懐中せる趣意書を閱すれば、其中に、

此度微臣ども申合せ對馬守殿を斬害申候對馬守殿の罪狀逸々枚擧にへず候へども今一端を擧て申すべし此度 皇妹御縁談の義も表向きは從  天朝被下置候様に取繕い公武御合躰の姿を示し候得共實は奸謀威力を以て奉豪奪候も同様の筋に御座候故必定 皇妹を樞機として外夷交易御免の 勅諚を推て申し候手段たる可く候儀相不叶節は竊に 天子の御譲位を奉釀候心底にて旣に和學者に申付廢帝の古例相調へさせられ候始末實に将軍家を不義に引入萬世の後まで惡逆の候様取計ひ候所業にて北条足利にも相越候逆謀は我々ども切齒痛憤の至り可申様も無之候

と明記し、又この前年の冬、堀織部正自殺の時の與安藤對州遺書と題して世間に流布せしめたる僞書の中に、

此四事者犯大義者最甚然而有尚甚於此者竊聞彼妄議廢 天子之事閣下依國學人討索舊典私畫其議豈謂之何哉至於此血涙如雨鐵腸欲裂天下之人慟哭憤怨皆欲食閣下之肉實大逆無道天誅固不容也(書中彼とあるは亞國公使ハルリスを指して云へるものなり)

と造言し、又この後(文久二年十二月の事)三番町にて塙次郎を暗殺したる時の捨札に

塙次郎  此者儀先年逆賊安藤對馬守と同腹いたし兼々御國躰は辨へながら前田健助兩人にて恐多くも謂なく舊記を取り調べ候段大逆の至り依之昨晩三番町に於て天罰を加降るものなり。

と書きたりしと云へり。此外、此年安藤を罰したる公文にこそ其事なけれ、當時安藤閣老が廢帝の古例を取り調べさせたりと云へる説は、京都にても民間にても頻に尊攘黨が喋々せる所なりき。然るに彼堀田織部正の遺書と云へるものは全く僞造の書たる事余が前章に述べたる如くなれば、固より證據としては半文錢の價直なきものたるに、彼の暴徒等が安藤閣老を刺殺せんと企てたる趣意の重要は此廢帝に在りしが如くなるに係らず、何處よりして安藤閣老に是の如き事ありしを窺い知つたる乎。余は當時幕府に於て夢にだに去る密議ありとは聞も知らざりき。加之、維新の後に至り其時幕議の機密に與り知つたる顕官等に會せる度毎に此事を討求したれども、皆盡く存知なき趣の外に答えは無りき。先ず事躰より考えても、當時幕府の内閣が京都の干渉を恐れ専ら彌縫の策のみを事とし、孜々として奉承するに遑なかりし有様を見ても、廢帝など云へる非常果斷を要する計略を思い巡らすべき様も無く、又閣老參政に夫程の人物は一人も無かりき。次には良しや安藤閣老が其考案ありしにもせよ,其取調べは秘密の上に秘密を要するものなるに、内閣には尤も疎遠な和學者の塙、前田が如きに斯る大事の取調べを命ずべき理由もなし。旣に本論の冒頭第一に述べたる如く、幕府が泰平打續きて文学を奨勵したるの結果は漢學の興隆となりて、王覇の辨と云ひ正統の論と云ひ天下の學者間に喧しくなり渡りたると、将軍家の修身教育に尊王の事を第一に置きたる等にて、幕府が京都を尊崇するは年に其厚きを加へ、殊には癸丑、丙寅以來外國の事起てより一層も二層も京都の歓心を保維するを第一策としたる幕閣なれば、廢帝なんどゝ云へる斷然たる計策は幕閣が思ひも及ばざる所たりしは論を待たずして明らかなり。若し安藤閣老にして事諧はざれば廢帝と云へる程の大果斷家にてありしならんには、物の見事に井伊大老の後を承て幕府の權威を繋ぎ天下をして粛然たらしむる事は成し得たりしならん。然らば即ち是を一言すれば、幕閣には會て廢帝の例を取調べしめたる事なし。是ありと云へるは尊攘家の憶測に出でゝ実は買被たる者なり。
斯る大事を憶測に出でたると云日、無根の造言なりと云ふこと今日より見れば或は有りうべからざる事の如くに見ゆれども、上下懸隔して閣議更に世間に知れ難かりし武門封建の時代には敢えて希らしからぬ事にて、憶測に出でたる造言訛傳の流布は縷々世間に起こり、爲に事實の眞相を誤れるもの一にして足らざりしなり。廢帝の説の如きも又即ち此に外ならざりしのみ、當時の幕閣は微弱なりと雖ども斯る尊王の大節を失ひたる内閣には非ざりき。否々。寧ろ廢帝の如き大膽不敵の計策を思ひ立つ程の果斷執政家は一人も無かりしなり。然るを是を察知せずして豈に當時に於いてせるのみならず今日に至るまでも、文久の初年には幕閣に廢帝の議ありとて、暴徒の趣意書又は堀織部正の爲造遺書を證とするが如きは誤謬の甚だしきものにて、幕閣に冤罪を被らしむるも又甚しからずや。
却説攘夷論の熱度は井伊大老の死後より益々昇昂の勢いを進め、曩には攘夷論の本尊は水戸の老公にて其心中は即ち京都たるの狀況に進化したり。左れば東西諸藩の有志輩は或は君侯の内命に由理、又は脱藩して浮浪の身となりて京都に集まり、其外浪人、処士、百姓、町人、儒者、醫者、神主、坊主の輩に至るまで誰彼の別なく尊攘黨は自ら期せずして京都に會したれば、京都にては禁中に奉仕する公卿の中にて稍氣力あつて時勢に慷慨せる人々は固より尊攘の志を懐けるを以て内よりして相應じて尊攘黨の有志輩に聲援したりければ、其初こそ名を托して忍び忍びに謀つたれ、後には公然と主意目的を顕はし、禁中にて別に國事掛の一衙門を設け有爲の公卿その局に當り、凡そ京都に來れる尊攘黨有志輩は奇人とか云ふ如き名目にて此に集まつたりければ、同じ禁中ながらも關白、納言、議奏、傳奏の官員派と此國事掛の有志派とは自から二つに分かれ、其實況を窺へば、國事掛の有爲公卿は當時世上に浮浪と呼做したる尊攘黨有志輩の勢力に左右せられ、禁中官員派の評議も亦この國事掛の勢力に揺攪せらるゝが如し(是江戸より京都を憶想したる所見)。此の如き情勢なりければ京都の尊攘論は益々進て愈々激しく、遂には皇妹降下の時に至り、将軍家は十年を期して攘夷の實効を奏し征夷の實を擧ぐべしと承諾の約束を京都にて爲たりと云ふに及べり。余が前章に述べたる如く、斯る一寸逃れの遁辭は幕閣の諸老も發言したるに相違なかるべきなり。但し此際よりして慶應の末に至るまで、京師も幕府も尊攘黨も開國黨も擧げてその名義に惑ひたるは、征夷大将軍の職名の征夷と云ふ二字にてありき。京師にて征夷大将軍とあるに鎖攘を行はざるは如何と責むれば、幕府にても實に征夷の二字に對し申し譯これ無く候と謝し開國黨の爲に征夷は如何々々と詰められて恐入たりと困却したるは不思議千万と云ふべし。抑も征夷大将軍の職は田村麿に初まつたるにせよ誰に初まつたるにせよ、頼朝卿に此職名を與へられてより代々幕府の職名とは成つたるが、其夷とは何者を指して云ひたる語なる歟。我國にては古よりして會て海外の諸國を夷と呼びたる事も無く、田村麿若くは頼朝の時代にも我國の爲に征伐すべき外國は會て是あらざりしに非ずや。但し當時蝦夷人(即ち今のアイノ人種)は蝦夷より奧羽關東の諸國に居住して王化に従はず、動もすれば強暴を逞くして國司の命令に反き治安を妨害したる事ありしを以て、是を蝦夷とも東夷とも名け其鎮定の武将に與ふるに征夷将軍の名を以てせられたり。是太宰府を初めとして九州、山陰諸國は三韓来襲の衝に當れども征夷の職名を用ひられざる所以にして、若し頼朝をして當時鎌倉に居らざらしめば決して征夷大将軍には任ぜられざりしならん。然るを万延文久に至り攘夷の文字を新たに用ひたるが爲に忽に征夷の夷の字と攘夷の夷の字とを同意同質のものゝ如くに解釋し、征蝦夷大将軍は即ち攘外夷大将軍なりと附會し、征夷大将軍には初より毫釐の關係も無き外夷攘斥を以て其當職なりと責めたるは怪しむべきの極なりとす。但し是は幕府をして攘夷を實行せしめんが爲に牽強附會したると云へば其理あるに似たれども、幕府が自ら征夷の字に驚きて辨解に苦しみたるに至っては尤も怪しむべき事なりと云ふべし。幕閣皆無學無術なりしとも斯ばかりの故事を知らざる者のみならんや。而して之を陳辯する事をも成さず、甘んじて攘夷を持って征夷将軍の當任の如くに思ひたるは他なし、當時京都の威勢に恐怖して然れるのみ。亦以て幕府が攘夷の一段に於ては終始狼狽周章したるの一端を窺に足るべきか。請ふ、是よりして攘夷問題の爲に幕府の改革を促し、愈々其衰亡を招きたる事情を開陳すべし。


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