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幕府衰亡論
 ◎第十六章
  攘夷問題
   攘夷は實際問題たり
   攘夷は尊王と合し開国は佐幕とつらなれる事情
   尊攘は進歩佐幕は保守
   長井雅樂
   浮浪の勢力
   薩長二藩の方向

攘夷論の直接に實際問題と成たるは文久二年より熾なるが如し。既に余が前論に縷々詳陳せる如く、抑も攘夷即ち異國船打拂の議は夙に幕府が文政年間に議決して國内に布告せし所なりければ、癸丑甲寅の際全國士流の議論は皆攘夷に傾きたりしを、纔に當時幕閣の評議を以て和平の方向には定めたりき。是れ幕府が士流の輿望に背きたる第一着なり。而して幕府が當初の口實とせる所は我國目下海防の兵備の全からざるを以て一時の權宜に由て暫く和議を許すのみ。其備の整頓を速にして以て攘夷の目的を達せんこと幕府の本意なりと云へるに在りしが、爾来数年間、幕府は表面上にて兵備の事を令達したれども其整備の實も擧がらず、外國との交際は益々信密に赴くの狀ありて、遂に外國使臣江戸城に於て將軍家に謁見し、和親貿易の條約を取り結ぶ迄に至りき。これ幕府が士流の輿望に背きたる第二着なり。次に幕閣は井伊大老の計ひとして諸強藩諸有志者が望を屬したる一橋刑部卿を退け、年少の紀州家を以て將軍家の御養君に立て、天下の人をして愈々攘夷の實行に其望を絶つに至らしめたりき。これ幕府が士流の望に背きたる第三着なり。これと同時に條約は京都において頗る叡慮を惱まされ、列藩の評議を盡くして言上すべしと勅せられたるに係らず、幕閣は専斷を以て條約に調印し、宿次奉書を以てこれを上奏するに止め、大に全國の有志者のこれ幕府が士流の望に背きたる第四着なり。攘夷論は此時よりして益々尊王論と聯貫して密勅となり、陰謀となりて幕府を論責する所あらんとせしに、幕閣は嚴に此獄を治め甚だ過酷に渉りたりき。これ幕府が士流の望に背きたる第五着なり。此五件は何れも皆幕閣に於いては多少其事由ありて斯の如くなせるを要するの事情は余が前章に開陳せしが如くなりしと雖も、其事情の天下に明白ならざりしが故に、幕府が着々士流の望に背きたるの跡は顕然として復た之を挽回すること能はざるに至れり。
是よりして後は井伊大老の横死に引續きて幕閣の政略には毅然たる定見なく、京都の勢力は尊攘有志輩の気焔にて其威光を増し、皇妹降下の時を以て幕府は十年を期して攘夷の實効を立て征夷の職を全うすべしと空漠たる誓いを立てるまでに及びたりき。熟々當時の情勢を顧みれば、此の攘夷を唱えたるものは進歩派にして彼の開國を唱えたる保守派に反對せる者なるが故に、即ち進歩と保守との爭いたるの事實を此時よりして示したる者なり。此の説を聞く者は必ず余を以て故意に奇言を吐く者なりと云ふべきが、請ふ余をして説を畢らしめよ。彼の開國攘夷の兩主義と尊王佐幕の兩主義とは、元來其目的を別にするを以て敢て関係なき異性の主義なりと雖も、攘夷は必ず尊王と合流し開国は自ら佐幕と聯衝するの勢に分かれたるに由り、攘夷黨は王室を助けて幕府の政權を殺がんと望み、是に反して幕府を佐くるもの開國を是とするの狀をなせり。扨て何故に攘夷が尊王と合縦すれば進歩派なりやと云へば、此尊攘黨は尊攘主義を以て封建門閥の社會を打破り新天地を我日本に作り出さんと望みたるが故なり。抑も幕府封建の制度を鞏固にして百般の事物を規矩の中に置き、貴賎上下を格式の間に拘束して嚴に社會の秩序を定めて以て二百有餘年の久に及びたるが爲に官職秩禄みな世傳して動く所なく、英才明智の人物ありと雖も其驥足を展ばすの地を得ること能わずして空しく槽櫪に伏し、徒に紈袴長袖の輩をして社會の上流に威福を恣にせしめたり。左れば何にもあれ苟も事變あるに逢はば大に気勢を吐て我平素の鬱抑を伸ばさんと希ふは當然の事にして、所謂希亊好功の士は封建の世に多しとは即ち是なり。この輩にして攘夷は功名を達するの機なりと思はゞ攘夷をも唱えん、尊王は栄達を計るの地なりと思はゞ尊王をも唱えんこと決して怪しむに足らざるなり。況や其平生の教育は概ね尊王攘夷に在りしに於いてをや。当時幕府の名士水野筑後守が眞に攘夷説を盲信する輩は恐るるに足らず、攘夷を名として尊王を説き其志を伸ばさんと欲するもの恐るべきなりと云ひしは眞相を看破せるの名言なりと云ふべし。試みにこの尊攘黨は如何なる種類の人物より成立たる乎を視よ。先ず開國論の本城たる幕府にては。開國説は纔に閣老参政幷に當路有司の間に行はるゝ而已にして、其非職の輩に到ては攘夷説を執りて以て幕閣の政略に反對せる者も少からざりき。次に諸藩の國内に於ては、其家老頭人等の政治に關係せる役人は大抵幕命を尊奉して開鎖は其令に従うべしと議したれども、その他は概ね皆寧ろ幕令に背くも攘夷すべしと藩議に反対せる者の多かりしに非ずや。其外諸國の浪人處士の如きみな世に容れられずして轗軻せる輩は概ね攘夷説を喜びて、一人として開國説を云ふもの無かりき。故に京都に於てさへ攝關議傳の官員派には開鎖は幕府に委するの議ありしも、これを論破して其意の如くならしめざりしは非職若くは薄禄の公卿にてありき。これを約言すれば、攘夷論は薄禄非職の士流に盛んにして厚禄奉職の上流に鮮かりしは、是れ京都及び諸藩の間に於て文久元年頃の狀況なりき。
然るに文久元年の秋頃よりして、諸國より出京したる攘夷黨は公卿の攘夷黨と合躰して其勢力を得たるに由理、京都の権威は全く攘夷黨の左右する所となるに及びたれば、彼の諸藩の士籍を脱したるもの及び其他の有志者は、皆浮浪の名稱の下に一括して専ら過激の政論を主張し、其勢いは延べて關東に及び、禍機一たび壊裂せば底止する所を知らざるの危に瀕したりき。而して幕府は益々是を處するに苦しみ殆ど策の出るを知らざるに當り、此時よりして時勢を左右するの機軸と成りたるは薩州、長州の二藩なりとす。原來長州は其昔關ヶ原の戰に敗れ、徳川氏の爲に其領地を削られ、長防兩國に狭められしこと闔藩の遺恨なるが上に元就以来朝廷に對して尊崇の志を存するの家柄なりければ、尊王倒幕は自から闔藩上下の意向なりしが如し。加ふるに嘉永、安政の間に士流に気概を有するもの輩出したるに由り、其藩廳の議論は溫和なるに係らず尊王攘夷を主唱するもの續々として顕晴れ、京都と長防との間に氣脈を通じて事を謀りたれば、文久元年の冬に至りては京都の攘夷論は長州人隠然其牛耳を執りて自ら浮浪の盟主たるの勢を成せり。然るに長州の役人に永井雅樂と云へる者ありて其藩主を説き幕府に建議して云く、今日の急務は公武合體の基本を立つるに在り開鎖和戰は時の宣に随うべし、守株膠柱の議を執る可らずと云々したり。幕閣は此建議を見て恰も死中に一活路を得たるの思いを成し、閣老評議の上にて文久二年(二月頃と覺ゆ)永井雅樂を招き其意見を聞きたるに、永井は尊王佐幕の目的を説き、まず京都を遊説して朝廷と幕府の間を信密にし政令一途に出るの基礎を定めて以て天下に令せば攘夷論を撲滅すること難からず、長州良くその任に當るべしと雄弁を振て論じたれば、幕閣は大いに其説を嘉し、然らば公武調和の任を托すべしとて永井雅樂を上京せしめ暗に其成功を期望したり。然るに長州藩廳の國論は此時既に過激黨その勝を制して攘夷論に一變し、永井が持論は其排斥するところと成れるを以て翻然其前議を棄て、剰さへ永井を捕らえて長州に下し自裁せしめたりき「當時幕閣が長州の爲に欺かれたりと云へるは即ち此事情を知らざるに出でたるなり)。是よりして長州の國論は斷然たる奉勅攘夷に一定し、幕府にして攘夷の勅を奉ぜざるに於いては幕府を仆すも可なりと云ふまでに決したれば、京都の過激黨は愈々其勢力を得て廷議を決斷せしめたり。其勢力の激烈なるは此年二月の勅諚を見て其如何を知るに足るべし。其勅諚の文に曰く、

夷狄月ニ猖獗御國威日ニ逡巡ノ儀深ク宸襟ヲ惱マセラレ段々關東ヘ往復有之終ニ七八ヶ年乃至十ヶ年ノ内ニハ是非トモ應接征討何レニモ必ズ拒絶ニ及ブベキ旨言上依之暫ク御猶豫有之武備充実海軍調練ハ勿論第一皇國一心一同ニ不相成候テハ蠻夷壓倒シ難キ儀ニテ候間先ズ闔國中一和ノ基源立度キ叡慮ニ付キ願之通皇妹大樹ニ配偶セラレ公武合躰ヲ宇内ニ表セラレ候テ深重ノ聖慮ヲ遐邇ニ布告シ海内協和シ御國威更張ノ機會ヲ失ハザル様屹度遠略ヲ廻ラサレ候儀思召サレ候事

右の勅諚に見えたる夷狄猖獗とは何等の事實を指して斯くは認められたる乎、七八ヶ年乃至十ヶ年の内には拒絶すべしと幕府が言上したるは其實行果たして望み得らるべき事なる乎、是等は今日より見れば疑問を俟たずして辨じ易き事なりと雖も、最早此時の勢に迫りては幕府は唯々諾々して之を承はり、朝廷に對して是非特質を辨解するの力もなく、漸く依違の間に一日の安を偸むの外に策略はなかりしなり。
斯る中に閣老の列にて稍々氣力ありて外交困難の衝に當りたる安藤氏は、正月十五日坂下御門外にてて負傷したる後、三月廿六日を以て初めて登城したれども、この人を幕閣に置きては京都の攻撃浮浪の議論愈々激しかるべしとて、幕府は四月十一日を以て其職を免じたれば、幕閣に於て事を執るの人は久世氏一人となりて其安危も復明日を保すこと能はざるの有様なりき。是に於てか幕府は勉めて京都の歡心を買ひ一時を彌縫せんと謀り、此年五月を以て尾張大納言違一橋刑部卿、松平春嶽の途上を許し、尋で久世、内藤二老を免職せしめたれども、徒に幕府の衰弱を示したるに止まりて更に些少の功も見えざりき。
茲にまた薩州にては此前より其士流の間には尊攘論も行われたれども、藩廳は依然として時勢の變動を傍観したりけるが、薩州藩侯の實父島津三郎氏(即ち久光公)は江戸に参府せんとて國を發したりと聞き、京阪の間に集りたる過激黨は速了にもこの人を戴きて攘夷の首領になさんと望み、着阪を待受けたりしに島津氏は此浮浪の激論を擯斥し、伏見にて其藩士の過激黨を取鎮めたるよりして、此一挙の爲に聊か過激黨の気勢を挫きたりき。是より先京都にても、攘夷論を主張せる浮浪の過激なるを制するに苦しみ、廷議も稍々之を厭はれたる折柄なりければ、島津氏は忽ちに廷議の依て重を置く所となりて、直に輦下鎮静の爲に京都滞在を命ぜられたり。而して幕府に於ては島津氏が此擧動を見て同じく依頼の念を懐き、其出府を俟て謀らんと考へし人もありしが、幕閣の中には又却って此人決して油斷なるまじき人物なりと既に猜疑の念を挟みたる人もありしが如し。然るに此時京都に於いては曩に閣老上京の事を命じたれども、久世氏は依違して状況せざるに由り、勅使を江戸へ下向せしむるの廷議を定められ、長州の世子は此勅使を補佐する爲に先だちて江戸にくだられたりしに、恰もその後に島津氏上京ありければ、廷議は薩長両藩をして勅使を補佐せしむる事に決し、乃ち島津氏は勅使大原左衛門督と共に京都を發し、六月七日を以て江戸に着したり。而して長州の世子は勅使が江戸着に係らず、其前日を以て急に江戸を發して上京したり、是を見て薩長既に確執に及べり、是れ幕府が其鷸蚌の爭に漁夫の利を占むべき時期なりと考へ却って其相協はざるを喜びたるが如苦なりしは、以て幕府の此際に定見の持する所なかりしを知るべきなり。


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