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幕府衰亡論
 ◎第十七章
  幕府政躰の第二變革    勅使下向 治國三策
   幕閣が朝意尊奉の事情
   幕政の改革は京都の干渉命令たる事情
   幕政改革の失策

勅使大原左衛門督重徳は文久二年六月七日を以て島津三郎と共に江戸に着し、例に依て傳奏屋敷に入り、同じく十日を以て登城をなし、將軍家茂公に對顔ありき。この勅使の要領は当時世間に傳播せる治國三策勅諚に明瞭なれば、余は讀者の爲に之を左に揭ぐべし。但しこの勅諚の文章は當時有志家の僞作なりと云へる説も或る一部には行はれたれども、其正たると僞たるとを問はず要領の將に是の如くなりしは余が疑を容れざる所なり。其勅諚に曰く、


朕惟方今國勢夷戎恣猖獗幕府失措置天下騒然萬民將陥塗炭朕深憂之仰耻祖宗俯愧蒼生而幕吏奏曰近來國民不協和是以不能擧膺懲之師願降下皇妹於大樹則公武一和而天下戮力掃攘夷故許其所請焉而幕吏連署曰十年以内必攘夷朕甚嘉之抽誠祈神以俟其成功昨臘和宮入關東也使千種少將岩倉少將論天下大赦之事且告曰國勢仍舊大概委於關東至如外夷之事則國家一大重事也係其國躰者咸問朕而後或使二三外藩臣預聞夷戎之處置幕吏對曰宸意事甚重大難遽擧行請暫猶豫既而列藩有献謀議者薩長二藩殊親來奏事且山陽南海之忠士既蜂起密奏言幕吏奸徒日多正義委地而蔑王家睦夷戎物賃潰濫國用乏耗萬民困弊之極始至受夷戎之管轄不日而可知也冀擧旌旗奉鸞輿於函嶺誅幕府之奸吏或曰爲除天下浸潤遊惰之弊誅京師之奸徒又曰不顧幕府下攘夷之令於五畿七道之諸藩如其衆議畢雖出干忠誠愛國之至情事甚激烈使喩薩長輩鎭壓其他召幕老久世大和守往復歴日未告唯諾而先行昨臘所喩之大赦猶弱何失之有但幕吏因循偸安撫馭失術如是則國家傾覆可立而待也朕日憂懼焉所謂偸一日之安忘百年之患聖賢之遺訓可鑑矣當内修文徳外備武衛斷然建攘夷之功於是斟酌衆議執守中道欲使徳川與先祖之功業張天下之綱紀因策三事其一曰欲令大樹率大小名上洛議治國家攘夷戎上慰 祖神之宸怒下從議臣之歸嚮啓萬民和育之基此天下於泰山之安 其二曰依豐太閤之古典使沿海之五藩五國稱する五大老爲咨决国政防禦夷戎之處置則環海之武備堅固確然必有掃攘夷戎之功 其三曰一橋刑部卿援大樹越前前中将任大老職補佐幕府内外政當不受左袵之辱此萬人之望恐不違朕意决干此三事是故下使於關東蓋使幕府選三事之一以行也是以周詢群臣群臣無忌憚各啓决丹心宜奏讜言

此勅諚は京都にて公家衆に御下問に相成りたる趣意なりと聞こえたるが、如何にも文躰より拝見すれば其儀なりと恐察せらるゝなり。扨前章に述べたる如く、是より先き京都の廷義は官員派の保守と有志派の進歩の二論に別れ、保守の勢力は文久元年の頃には頗る微弱に陥り、復た廷義を左右するに足るの権威なく、眞の権威は全く有志派の進歩改革黨に歸したるが、此改革黨の内また二派に分かれ、其一は過激派、其二は斬進派となりたるが如し。この過激派の源泉は有志輩にして、堂上の気力ある諸卿はこれに同意し、三条中納言(実美公)を初めとして西三条、東久世、壬生、錦小路の如き当時の国事係と所謂浮浪輩とに由て組織せられ、其目的とする所は断然攘夷の大計を定めて幕府に令し、奉ぜざれば幕府を征伐すべしと云ふにありて、即ち攘夷討幕論なり。然るに斬新派は之に反して、其目的は幕府を匡正して尊攘の趣意を尊奉せしむべしと云ふに在りて、即ち攘夷佐幕論なり。既に岩倉、千草の両少将の如き、当時過激派の為には幕党なり奸党なりなどゝ疾視せられたるも、畢竟岩倉少将(具視公)は其始斬進主義にて過激派の変革を喜ばす、力の及ばん程は幕府を匡正して其任を竭さしめ、以て尊攘の実を全くせんと望まれたるに付き、皇妹降下の議に関して之を賛成して尽力せられたりしが故なるのみ。然れども幕府にては更に匡正の実も挙らず、京都にては過激派頻りに其勢力を得たりければ、文久二年春夏の交には斬進派は京都に容れられずして廷議は概ね過激派の左右する所となりて、其実は朝廷にては此過激派の激論には少々持余しの情勢なりける処に島津三郎氏の上京にて、氏は斬進派の目的を有するに会ひ、加ふるに其勢力は以て過激派の団結を挫くに足りしかば、廷議は再び斬進派の分有する所となりて、権衡を保持するの状を呈したり。去れば此間の有様を在京幕吏の目より観察すれば、一方に於ては親王家にては有栖川宮、堂上にては三条其余国事掛の諸卿、有志にては薩長及び其他の諸藩士并に諸浪人は過激派の倒幕論にして暗に長州に依頼するが如く、又一方に於ては親王家にては獅子王宮、堂上にては近衛、岩倉、千草の諸卿は斬進派の佐幕論にして薩州実に其中心なるが如くに見えたりき。故に在京幕吏は島津三郎氏が大原勅使に従て東下せば氏を鄭重に待遇あるべしと幕閣に注意したれども、幕閣は江戸に在りて此の事情を知らざるが為に既に島津三郎氏を以て毛利氏の衝に当りて猗角を保たしめんと望みながら、其実氏に向かつても亦猜忌の念を挟みたるは幕閣の不明に原由するに相違なきも、蓋し形迹の上に於て此念の起こりたるも亦逃れ難き勢なりしが如し。其故如何となれば幕府にては廷議の実情を知らずと雖も、抑も将軍家上洛の事は長州の持論にして、長州の嫡子(元徳公)が東下ありしも専ら是等の為なりと信じたる所に、今や朝廷は幕府への下勅の事に関して復た独り長州のみに依らで薩州をも相與に当たらしめ、現に三郎氏東下あるに到りたれば、長州は是を不快なりとして大原勅使の江戸着と同時に長州嫡子俄に帰国の途に就きたるなりとは憶測し、又将軍家上洛の事は三郎氏は幕府の為に不可なりとして、其弁を謀るに似ず五大老の一人となりて政治の実権を掌握するは其宿望なるが故に、朝廷をして第二の個条を求めしめたりと憶測したるが故なるべき歟。
大原勅使は島津三郎氏と共に東下して、将軍家は此三ヶ条の其一を選て実行すべしと達したり。是れ実に京都関東間の最終談判にして、幕府もし此三箇条を盡く尊奉せずと断言せば、即ち平和は破れて戦争と変ずるの他は無き究極の場合たりき。然らば即ち幕府の地位より言ふ時は断然この勅命を謝絶する乎、若しくは服従しての二法に出ざれば大に其決心を定むべきの時期なり。幕府は既に日本の実権たること国政は旧に依て大樹に御委任と明言ありしにて明白なるが上に、実際二百余年間の中央政府なるに、外交の事は朝裁を仰ぐべし、諸大名を率ゐて上洛なして議定すべしと京都より指図せられ、遂に五大老を置け、一橋越前を後見総裁にせよと迄に干渉せられては、幕府たるもの悪ぞ政府の実権を保つを得べけんや。是れ表面にこそ顕れね、其実は幕府はを返上すべしと云ふの要求に異ならざるなり。其地位は大に相違するを以て固より比較すべきには非ざれども、若し健保確定の君主国に於いて、喩ば議院より外交談判は一々議員の承認を問ふべし、内閣は議院に出頭して国是を議定すべしと要求せられなば、其政府は何と答ふべき乎。憲法違背の要求なり。聞くこと能はずと覆牒し強いて其要求を主張せば、断然議院を解散するか、閉鎖するは論を俟たざるの処置なるべし。当時幕府は立憲君主国の政府にもあらず、京都また議院に異なれども、実権政府が其憲法制定以外の干渉を受くるの勢いに至りては、自ら此比喩に相似たる所なきに非ざるなり。是に由て之を観れば、幕府は当時この勅令に会して真に徳川政府の実を存せんと欲せばこの要求を謝絶するの一策有しのみ。其為に違勅の罪を得て朝敵とならば夫までの事なりと覚悟し、場合に由ては実力を用いても一時は急激派の威勢を鎮圧し、然る後に徐に京都及び諸大名と会議を開き、幕府憲法の改正を行うの覚悟あらざる可からざりき。幕府の為に謀るに、此万疊の重囲に陥りて死中に生をむるの一活路は此外には無かりしぞかし。然るを当時の幕閣は怯懦孱弱にして、井伊大老の薨後は斯る大手段を試み行るの執政なかりければ、此唯一の謝絶策を採る事を得ずして却て他の服従策を取ったりき。此服従策を取りし程ならば、さらに幕府の為に謀れば、寧ろ慶応三年十月を俟たずして此時に於いて斯の如くにては幕府は政府の実を全くすること能はざるを以て謹んで大政を朝廷に返上仕候と打て出るに若らざりしなり。此立憲国にて議院の不意に乗じて内閣総辞表の策を行うと一般にて、危険は極めて危険なれども、若し文久二年六月大原勅使東下の時に将軍辞表大政返上と云ひ出したならば、当時は朝廷及び有志に其準備なきを以て返上承知とも答え難く、又諸大名に議論あって承知もさせ参らせざるは必定なりしなり。然る時は却って幕府の為に頗る利益を得る所ありしならんに、幕閣は既に謝絶策を採るの果断も無く、服従策に於いても同じく此果断なくして、徒らに第一第三の箇条を謹んで敬承したりき。故に徳川第一世家康公が天下を取ったるは関ヶ原にあらずして小牧山の戦に存りと云ふが如く、余は徳川氏の幕府が天下を失いたるは第十五世慶喜公の大政奉還の時にあらずして第十四世家茂公が文久二年勅答の時に在りしと云ふものなり。是に於てか幕府の衰亡は大に長足を以て其気運を進めたり。
扨も大原勅使は屢々登城して勅諚の旨を伝へ、島津三郎氏も一橋、越前及び閣老にも面談して時事を論じたるに由り、幕府は右の勅諚三ヶ条を(或は曰く、五大老を置くの条は勅諚には之を載せられず、京都御警衛の為に播州の海岸防御を厳にし京都に守護を置くべしとの議なりと。此蓋し実に近し)盡く敬諾し、先ず将軍家は来年を以て上洛すべしと答えたり。然るに此上洛の事は島津三郎氏の意見にては上洛尚早と論じ、他の個条を敬諾の上は上洛は他日に譲り時期を見て行はるべしと、幕府に忠告ありしと、久光公の日記には見えたるが、何故に幕府はこの忠告を納れざりしか。当時幕閣の秘密評議は余これを知らずと雖も、既に上洛は長州の持論と云い、大原勅使も第一に之を促されたれば、或いは将軍上洛あらば時勢其為に一変して幕府の利運たるべしと論ぜし輩もありて、幕閣は恐懼の余りに之に由りて万一を僥倖するの念に出たるもの歟。次に幕閣は其初は一橋及び越前をして政府の機軸を操らしむる事に付き、多少拒絶の議論もありしが如くなりしかども、ついに承服して、此年七月八日を以て一橋卿を原に服し、今度叡慮を以て仰進せられ候に付き、御後見仰出さる、越前春嶽には同じく今度叡慮を以て卬進せられ候に付き、御政事総裁職仰付けらるゝと、将軍家の御前にて達せられたり。夫れ一橋卿を補佐に任じ、春嶽氏を総裁に任ぜら類るゝは素より不可無し。然れども叡慮を以て仰進せられ候に付きとは抑も亦何事ぞ。幕閣は是を以て一方にては京都の歓心を買ひ、一方にては幕府内部の異論を制するの為なりしと雖も、明らかに京都の干渉命令を奉ずるを示す幕府の幕府たる所果たして安くに有りし歟。次に又幕閣は松平肥後守(会津公)を新たに京都守護職に任じ、松平越中守(桑名公)を所司代に任じ、次に井伊、間部、久世、安藤を追罰して其封地を削り、堀田、酒井(右京大夫)、脇坂松平(玄蕃頭)、松平(伯耆守)、水野の諸侯を罰し、并に幕吏の要職にありし松平出雲守、大久保越中守、松平式部小輔、駒井山城守、石谷因幡守、池田播磨守、岡部土佐守、久貝近江守、浅野伊賀守等を罰する各差等ありき(是は此年十一月の事なり)。其罪状は種々なり氏と雖も、或は奉対京都宸襟を悩ませらるゝ様の取計を成したりと云ひ、或いは奉対朝廷不正の取計有之と云ひ、因循遅緩の取計有之と云ひ、或いは井伊掃部頭の意を受て吟味一件に御制典を紛乱したりと云ひ、井伊掃部頭に阿諛したりと云ひ、井伊掃部頭横死の節奉欺上聴候と云いたれば、其罰文の奇異なる、徳川政府に於ては前代未聞の罰文にてありき。以て幕府の制典是に至りて大に頽敗したるの兆を顕はしたりき。
斯て幕府にては板倉周防守、水野和泉守、小笠原図書頭の諸老執政となり、春嶽氏総裁にて行はれたる幕府の改革は如何なる事なりし乎と見れば、諸向より執政への贈物を止め、大名火消を廃し、御茶壺の上下を簡易にし、文書の煩縟を省き、評定所の誓詞を廃し月次御礼を止め、衣服の制度を略し、大小名の共連を省きたる等にてありけるが、詰まる所は陳腐の旧套を襲ひたる改革にして観るに足るべきもの無きが上に、幕府の政略には尤も緊要なりける武家の秩序、典例、格式、礼儀は是れが為に一時に破毀せられたる故に、将軍家の尊厳は此時よりして大に其威光を墜されたること争う可からざるの事実なりき。此改革の中に就いても、最も幕府が諸大名を検制するの利器たる参勤交代の期を緩め、常々在国在邑せしめ、其江戸屋敷に置きて将軍家に人質たらしめたる妻子を国許に移す事を許したるは、驚くべきの改革にてありき。蓋し諸大名が其妻子を江戸に置ける事は、寛永年間島津氏が幕府に弐無きを表せしに初まりて、諸大名の義務たりしに、幕府の末路諸侯観望二心あるの日に至りて之を放還したるは何ぞや、思うに幕閣は是れを以て且はその寛大を示し、且は反せんと欲するものは反せよと云ひたる家光将軍の故事に傚はんとの意なりしかは知らざれども、これ虎を描かんとして猫を描きたるよりも浅ましき猿知恵にて、果して其為に幕府は諸大臣を検束するの利器を自ら棄て、却て他日其為に傷けられたる種子を播きたり。要するに文久二年勅使下向の改革は其初や幕府の衰亡を挽回するの為に出て大に其衰亡を促すの結果たりしものと云ふべきなり。


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