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幕府衰亡論
 ◎第十八章
  攘夷勅使 及 将軍家御上洛
   京都再び過激黨の勢力に歸す
   攘夷決定布告の要求
   幕府に一定の政略なき事情
   将軍家御上洛の軽擧

大原勅使が島津三郎氏と共に江戸に臨めるや、幕府は前章に述べたる如く唯々諾々、戦々恐々として其要求を領承し、既に其三ヶ条の内にて将軍上洛の事を諾し、来春を以て實行すべしと約し、一橋卿後見春嶽氏總裁の事を諾して直ちに之を實行したり(攝海防御の事その要求の一ヶ条にてあらば三ヶ条とも盡く實行したるなり)。此時に當たりてや幕府は驚愕狼狽して措置の出る所を知らず、唯々京都の命ずる所は實行し得べきと否とを問はず之を領承して以て一時の安を偸み、此急場さえ凌げば後は又どうか成であろうと云ふ其日送りの工夫に過ぎざるなり。又何ぞ其處置の幕府をして衰亡を促さしむるに至るを怪しまんや。既に久光日記の云ふ所に據れば、島津三郎(即ち久光公)は三ヶ条の中にて、一橋越前の件を實行すれば足れり、将軍の上洛は尚早しと忠告したることあり。
又攘夷の行われざるは明白なれば、勅諚たりとも之を盲聽するは不可なり、宜しく其利害是非を詳らかに論陳すべしと論陳すべしと忠告したる由なれども、幕府は其可なるを知るも之を行うの勇気なくして右の結果に至りしなれば、大原勅使は豫期したるよりは満足なる勝利を得て、島津氏と共に文久二年七月二十一日を以て江戸を發し、意気揚々として京都に歸られたり(此時島津氏の家来が生麥にて英人を殺害して遂に外交上の大葛藤を惹起したるは、後章に至りて之を述ぶべし。)
斯くて幕閣は幕府に不利なる改革も更に顧る所なく之を行なひ、明年二月将軍家上洛の事を公布し此条にては京都に於ても必ず満足なるべしと憶測したるに、其憶測の外なりしは實に案外にてありき。抑も島津氏が此年状況の時に於て懐抱したる意見は公武合體論にて、即ち其前に長州の長井雅楽が懐抱したると同意見なり。只々長井は長州一藩を制御するの實力なく、加ふるに多少其の間に名利栄達の念ありしを以て敗れ、島津氏は門高貴にして一藩を左右し、加ふるに兵力を以て臨みたりしを以て差異ありしのみ。然れども其成は蓋し一時の事にして、島津氏が大原氏と共に京都を發して江戸に来たれるや、その後にて京都の議論は直に一變して再び過激派の勝利となって更に其甚しきを加えたり。此時京都の状況を顧みれば、明治史より云ふ時は尊王義徒の雲集せる所、幕府史より云ふ時はより捕逃浮浪の嘯せる所にして、其尊皇攘夷の四字貴重するは近時の壮士、書生輩が自由民権の四字に於けるよりも甚しく、苟も尊攘の爲には何等の事も行ひて可なり。尊攘は全能勢力を有する者なりと信じ、國憲を紊亂し、政治を誹議し、官吏を侮辱し、良民を脅迫し、杭上を煽動し、治安を妨害せる一としてせざる所なく、左しも清淨安楽なる洛中にて暴殺暗殺の鮮血を流して京師を汚すに至るも恬として懼るゝ所なく、而して所司代、町奉行は其中央政府たる幕府が京都を恐るゝ意を躰して敢て之を制すること能はざりければ、恰も無政府の有様にてありき。那破倫大帝が巴里市民暴動の事を論じて、若し余をして路易王たらしめば、保安条例を以て以て此輩を京都三里以外に駆逐し洛中の警察を厳にし、足らざれば陸軍をして合圍戒厳令を布かしむるは決して躊躇せざる所なるべし。然るに幕府は斯の如き斷固たる方策は夢にだも思ひ寄らず、徒に退守姑息の愚計に汲々たりしを以て京都の朝議は過激派の占有に歸し再び三条中納言(實美公)、姉小路少将を勅使に命じて江戸に東下せしめられたり。 此勅使は十一月を以て江戸に着し、此月二十七日を以て将軍家茂公に對顔して攘夷の勅を傳えたり。其の勅に曰く。

攘夷ノ儀ハ先年来ノ 叡慮方今ニ至ルモ更ニ御變動ハ在ラセラレズ柳営ニ於テ追々變革新政ヲ施行シ 叡慮尊奉ニ相成候条 叡慮斜ナラズ在ラセラル然ル處天下の人民攘夷に一定無之候テハ人心一致ニモ至リ難ク且万一國難ノ程モ如何ト 叡慮ヲ悩マセラレ候間柳営ニ於テ弥々攘夷決定有之趣ニ諸大名ニ布告有之様 思召サレ策略ノ次第ハ武将ノ職掌ニ候間早速詳審ニ衆議候テ至當ノ公論決定有之醜夷拒絶ノ期限ヲモ 奏聞ヲ遂ラレ候様 御沙汰之事

此勅諚と曩に大原氏が齎したる勅諚と撞着せざるや否やは、思考を俟たずして明白なり。彼勅諚には

大樹ヲシテ大小名ヲ率テ上洛シ國家ヲ治メ夷狄ヲ攘フコトヲ議セシメ上ハ祖神ノ宸怒ヲ慰メ下ハ議臣ノ歸嚮ニ従ヒ万民和育ノ基ヲ啓キ天下を泰山ノ安ニ比セント欲ス

と宣はせたるに非ずや。然らば即ち攘夷の事たる、仮令ひ朝廷の思食にもせよ(その實は浮浪過激派の思食たるは明らかなれども)、夷狄を攘う事を議するは将軍家上洛あっての上の事なり。これ實に京都より勅使を以て将軍家上洛を促されたる目的なり。然るをその勅諚の墨は未だ乾かざるに、今度は幕府に於いて弥々攘夷決定の趣を諸大名に布告せよとは如何なる趣意と解釈すべき乎。将軍家が諸大名を率いて上洛し、御前會議にて群議に及ばゝ、愈々叡慮の如く攘夷せよと定まる乎・但しは攘夷は不可なるが故に叡慮を翻させ玉ふように奏聞する乎未だ相分からざるに先ず攘夷決定を布告せよとは何ぞや。是れ他なし、京都の議は既に急激派の勢力に動かされて再び一變したるを以て、さらに百尺竿頭一歩を進めて将軍上洛に先立ちて攘夷決定の確諾を戄取るべしと云うに外ならざりしのみ。去れば當時幕閣に於ては、京都は将軍家上洛の上諸大名の群議にて非攘夷を定議するやも計り難しと懸念あるに由り、更にこの勅使を發せられたる者なるべし。然る時は幕府は非攘夷に關しては猶諸侯の群議に恃むべき所ありと考へたる人もあり。又或は大原氏の勅使にて幕府の承諾を取りながら猶夫に満足せずして、此攘夷布告の勅使を下されたるは是れ薩州も長州も急激派も斬新論も到底同穴の狐狸なれば孰れも幕府の敵なりと考へたる人もありしが如し。當時京都の事情を明察せざるを以て是の如き愚考ありしは敢て咎むるに足らざれども、此場合に迫っては幕府は唯諾否の二ツを決するの一義あるのみ。然るを此勅使に對しても亦敢えて諾とも非とも明答すること無く、勅使の趣委細畏まり奉り候いずれ将軍上洛の上にて……と、大晦日に借金の斷りを云ふが如き一寸逃れの口上にて相済ましたるなり。復惡ぞ其口上の他日に於いて延引ならぬ證據となるを顧みるに遑あらんや。
幕府が京都を恐るゝの故を以て其政敵たる攘夷論に對して些少の抵抗力なき此極に至りたれば、彼の浮浪過激の擧動は此時漸く京都より江戸に傳染し来り、加ふるに攘夷熱發生地たる水戸の有志輩は期せずして之に応じ相合してしきりに攘夷の實行を聲言し、或は其尖峰たらん事を望み、或は幕府の官吏を脅迫し、或は外國貿易に従事せる商賈を威嚇し、或は外國人を切害せんと企て、或は新築公使館を焼き、或は無辜の徒を殺戮し、或は天誅と名けて異議の輩を私に梟首し、其亂暴狼藉なる殆ど江戸市中をして京都に比しき無政府の地たらしめんとするに至れり。尊攘の恐るべき此の如くに夫れ残酷無慚にてありしかども、幕府は逮捕掃攘を十分に斷行すること能わずして、わずかに警察の力に頼りて目前の保安をなせしに過ぎざりしを以て、幕府衰亡の時機は益々この時に迫ったり。
斯て松平肥後守(會津)は京都守護職となりて上京し、次いで一橋卿は大阪警衛の爲に江戸を發し、幕府は倉皇の間にこの年を送りて、翌れば文久三年正月に将軍留守中の事を府令し、二月十三日を以て江戸を發鴐あって東海道より陸路上洛の途に就かせ玉ひたり。此時に當り、横浜には英國軍艦十餘艘軸艪を列して繋泊し、生麥一条の談判方に破裂せんとするの勢にて、将軍家の在江戸は最も緊要なる時たるに係らず、幕閣は外交談判は軽し京都論議は重しと考えたる乎、英國の葛藤を知りながら之を秘して将軍家の上洛をなさしめたり。而して将軍家が軍艦にて海路大阪に至り夫より上洛と豫定せしを變じて東海と改められたるも、實は海上にて英國軍艦に将軍家の通航を抑留せられん乎と懸念せしが故なりき。将軍家は此時齢僅かに弱冠なり。幕府の處置この人に向て其是非を責め參すべき事やある。将軍家を補佐し奉る幕閣が細大と無く其責めに當たるは勿論の事なるに、當時の幕閣は此上洛に關して如何なる意見を懐きたる乎、如何なる目的を定めたる乎と問はんに、余が観察する所にては其實何等の意見も無く、何等の目的も無く、空々寂々にてありしが如し。
時勢正に此時に至れる以上は、幕府は國家の安危存亡を重とし、其爲には開國を以て唯一國是なりと信ずるに付き、攘夷の一儀は勅諚たりとも尊奉いたすこと罷成らず、若し攘夷を名として内治外交を妨害する者あらば、幕府は政府たるの権力を以て之を鎭壓すべし、其爲には至當なりと思惟する所を施行すべし、此段上奏仕候と、内閣大臣が政府の決心を議院に示すが如く幕府の定論を明言する乎、然らずば、幕府は外交の事に關しては諸事都て朝廷の思召を尊奉仕り候、既に飽までも攘夷被遊度 叡慮に御座候はゞ謹んで承諾仕候間、是より攘夷實行仕り可申候と明言して、真に攘夷の無策を實行する乎、二者その一を擇びて之に其志を決せざ可からずの時期にてありき。然るに幕閣は第一の決心は固より無く、去とて第二の決心も無く、何とかして當座遁れに一時を彌縫せんとのみ謀りたるを以て、ついに将軍家をして何等の準備も無くして此和戦順逆の境に臨ましめたり。幕末の賢吏小栗上野介は會て幕閣を評して曰く、一言以て國を滅ぼすべきものありや、どうか成ろうと云ふ一言是なり、幕府が滅亡したるは此一言なりと云ひたる事あり。又岩瀬肥後守は、幕府の評議には可成丈の字を厳禁すべし、幕府の失敗は實に此三字に胚胎するぞと云ひたる事ありき。此二格言は余が親しく其人に聞たる所なりしが、當時年少未だ其意を解すること能はざりしに、今にして顧想すれば實に然り、幕閣が恃める所はどうか成ろうと云ふにありて、其行ふ所は可成丈云々するに在りき。而して将軍家上洛に當たりて、一大問題たる攘夷に付いて幕府の定見を確立せざりしも亦これに因したるのみ。斯の如きが故に、将軍家衰亡の上洛なりけるに、幕府の輩は猶これを察せずして、往事慶長、元和、寛永年間に家康、秀忠、家光の三将軍が上洛ありしに比し、甚しきは寛永の上洛に同じき結果を望める輩もありき。彼の寛永の上洛は日本の政権を徳川家に掌握し、朝廷をしてこれを認可せしめたる憲法制定の上洛なり。諸侯は皆将軍の臣下たる實を天下に示したる勝利示威の上洛なりしに、二百余年を過ぎたる文久三年の上洛は、将軍は主権者なれども最上主権は朝廷に在りと云ふ事を顕せる降伏の上洛なり。外交の國是に關しては幕府は京都(寧ろ浮浪)の意に反對するを得ざるの實を示したる示弱の上洛なり。往事は上洛を以て幕府の名實を益々鞏固ならしめ、今日は上洛を以て其名實を併せ失ふに至れるも亦宣なる哉。


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