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幕府衰亡論
 ◎第十九章
  攘夷期限 及 生麦一件の談判
   攘夷期限の議論
   京都に於ける過激黨の勢力
   長州は過激黨の首領
   英國より生麦一件償金の談判
   英國軍艦の示威 幕閣の内意

徳川第十四世家茂公は文久三年二月十三日を以て江戸を発し、陸路東海道を経て同じき三月四日京都に着して二条の城に入り玉ひぬ。この時に當たり京都の情勢は都て攘夷黨、浮浪激徒の専横に支配せられ、恰も無政府の有様にて有りし事は余が前章に述べたるが如し。まず當時第一の問題たる攘夷論の如き、將軍家上洛の上にて列藩御前会議を以て可否を決すべしと云ふ事にて、幕府は上洛の事を承認したるに、更に一歩を進めて將軍家は其上洛に先ち彌々攘夷決定の趣を諸侯に布告あるべしと迫属たるに、今や又更に一歩を進めて、攘夷實行の期限を上洛に先ちて取極むべしと迫れるに及べり。但し當時余は江戸に在りて京都の實地を知ること能はず、加ふるに京都の内情は幕府に詳知せられざりしを以て仔細には知得ざれども、余が傳聞記憶に據れば、二月十一日正親町、橋本、三条、豐岡、東園、滋野井、錦小路、壬生、四条、正閑寺、姉小路、澤等十三名の有志公卿(即ち浮浪有志輩に同意の公卿なり)は打揃いて關白家に押寄せて攘夷期限の事を論じ、直ぐに關白家と共に參内して論旨を上奏に及び、夫より三条、橋本、豐岡、滋野井、正親町、姉小路、野宮、阿野の八卿は其夜深更を冒して一橋刑部卿の旅館に押寄せ、攘夷期限如何を承るべしとある。一橋卿は攘夷期限は將軍家上洛の上策略を奏聞し、其後關東に歸城あ属て期限布告に及ばるべしと答へられたるに、八卿は中々肯ぜず是非今晩承らんと迫られたり。依て一橋卿は急に松平春嶽(越前)、松平肥後守(會津)、松平容堂(土州)を招きて相談に及れたるに、彼の八卿は將軍家在京は叡慮次第何事に渉らんも知る可からず、其東歸の後を俟て攘夷期限を定めんとは曖昧なり、今夜の評議にて期限一決あるべしとの強談に四候は然らば將軍家着京の日より滯京十日、歸路十日と定め、東歸の上は直に拒絶の談判に及ぶべしと云ふ事にて、漸く其局を結びたりと云へり。抑も京都に於て今度將軍家上洛を促がし玉ひしは何の爲ぞ。大樹をして大小名を率いて上洛し、國家を治め夷戎を攘う事を議せしむと勅らせ玉ひしが大目的にあらずや。其勅墨いまだ乾かざるに、いかに浮浪激徒の扇動に出たればとて、攘夷の儀は先年來の叡慮方今に至るも更に御變動は存せられず、柳営に於いて彌々攘夷決定有之趣に諸大名に布告すべしと勅らせ玉ひしだにあるに、今又其期限を即決せよと迫属たる八卿の所存も所存なれども、之に答えたる一橋卿及び三侯の所存も亦所存なりと云はざる可からず。以て當時京都の大勢は旣に幕府の手を離れたるに係らず、朝廷の思召しの如くにも行われず、到底浮浪激徒の有志家と之に與する公卿の手に在りしを證するに足るべき歟。
斯りけるほどに當時かの攘夷黨の有志浮浪の輩は過激の言論行為を事とし、苟も政治思想の己に異なる者を見れば直に之に附するに奸物國賊の惡名を以てする、猶今日民黨と稱する輩が政治意見を同じくせざる者を見れば之を吏黨民敵黨と呼做すに異ならざりき。爾のみならず之を暗殺し、之を梟首し、復た政令法度の何物たるを顧みず奸物國賊を天誅に行ひたるは、朝廷の御爲なり、人民の節義なりと狂叫して以て愉快なりとするに至れり。其足利累代の木像を斬り其首を三条川原に梟したるが如き、兒戯の凶暴に似たりと雖も、其實を察すれば是を以て暗に將軍家を威迫するの所爲にして、今世に至り奸賊輩出其罪惡足利の右に出づと云々せるに至属ては、幕府が一日たりとも日本の政權を掌握する間は決して恕す可からざるの犯罪にあらずや。然るに當時在京の幕吏幕士は之に對して如何なる處置を施したりし乎。京都町奉行、京都所司代、京都守護職みな衛士捕吏を從えながら朝廷を憚らばまだしもなるが、寧ろ此暴徒を恐れて嚴密の取締まりをもなさず、僅かに詮議の手續を行て其責を塞ぎたるに過ぎず。現に守護職松平肥後守が二月廿一日を以て洛中洛外に沙汰せしめたる告示に、攘夷御一決此節御改革仰出され候に付ては舊弊一新人心協和に無之ては不相成候處近來輦下私に殺害の儀有之畢竟言語壅蔽諸有司不行届の所致と深く恐入候次第に付き上下の情意貫通致し皇國の御爲御不爲に係候儀は勿論内外大小の事と無く善惡とも隠匿いたし候事共憚る筋なく早々可申出候と有るが如き、是れ守護職の獨斷に出たるに非ず、在京幕閣の衆議に出たること分明なるが、是れ果たして政權者の告示と言うべきか。斯る場合に臨みてこそ政治家たる者が果斷敢行をなすべきの時なれば、予成令をも施き保安条例をも行い、夫にて足らずんば京洛中に合圍戒厳令を實施しても治安を保ち、秩序を全くし、暴徒をして紊亂を擅まゝにするに地なからしむること當然の所爲なりとす。若し現時の政治家をして當時の幕閣に存らしめれば、遲くも文久三年二月の初めには洛中復一人の有志輩を残さゞる迄の果斷を行なうに躊躇背ざるべしと信ずるなり。然るに幕閣は在京幕吏をして其果斷を行なはしむること能はずして、此浮浪過激論の熾なるが中に將軍家を上洛せしめたりき。
將軍家家茂公は三月四日京都に着して二条城に入り同き七日參内あらせ玉ひたり。前にも述べたる如く、余は當時未だ京に在らざりしを以て親く其狀況を目擊せざるが故に明言すること能はざれども、窺い得たる所を以て回憶するに、扈従の幕閣は何事も御堪忍遊ばされよと云ふ一言を以て將軍家を諫め、唯々無事に一日も早く御東歸ある様にと望める外に他事なかりしは、疑も無き事實なりき。當時禁中にて將軍家に無上の侮辱を加へたりと風說ありしは、或は浮浪過激輩が誇大の造言に出たりと雖も、上洛を以て將軍家の威權全く地に墜たるを明示するの事實は、是れ亦疑いも無き事實なりと云ふべし。抑も去年島津三郎氏が公武合躰說を將て上京し、尋で大原氏と共に江戸に下り、幕閣を說得して改革を行はしめ、將軍家の上洛を俟て調和の實を擧んと期望したるに、島津氏東下の後に朝廷の議論は再び浮浪の過激黨に動かされて三条氏の勅使東下となり、京都の勢力は全く此黨に歸し加ふるに、生麥一條よりして本國薩摩に外事あらんとするの際なりければ、三郎氏は彼是以て在京するを得ずして歸國ありき。其後は京都の事盡く浮浪の勢力に屬して、自から長州この過激黨の牛耳を執るの狀をなせり。此過激黨は攘夷と尊王を以て兩柱の目的とするを以て、到底幕府を滅さゞれば尊王の實擧らざるを洞察し、漸進黨の公武合躰說と氷炭相容れざるの勢をなせる者なるが故に、明治史より言へば維新の正義黨なれども、幕府史より言へば革命黨なり。即ち倒幕の兵事を以て維新の革命を遂げんと望めるの變亂黨なりと名けんこと、蓋し至當の呼称なりとす。曩に公武合躰說は雄藩にて島津三郎氏これを主唱し、朝廷にて近衛關白これに應ぜられたるを以て、公卿には岩倉、千草の諸卿諸侯には越前、會津、土佐、備前の諸家皆これに同意して事を謀りたるに、今や過激黨の攘夷斷行說は長州父子これが盟主たるの狀を示し、公卿には三条、東久世の諸卿武士には長州一藩および諸藩の有志浮浪輩皆これに属したり。但し其實を窺えば、當時諸藩皆此兩論の間に彷徨せるを以て、薩士にして過激黨に加われるもあり、又長人にして漸進を固執せるも有りしかど、大勢より視れば薩州は其公武合躰論の行はれざるを以て勢力を失ひて京都を去り、長州は攘夷斷行論を以て過激變亂黨の首領となつて在京し、勢力一に其左右する所にありとは認められにき。
されど将軍家上洛に於て廷議の将軍に求むる所は攘夷實行の一事に止まつたれば、幕閣の窮するや益々甚だしかりき。三月十一日を以て攘夷御祈願の御爲に加茂行幸をなさせ給ひ、其御男山八幡宮へ行幸あって其神前に於て攘夷の節刀を将軍家へ賜はる御豫定なりしも、将軍家は病と稱して供奉を辭し玉へる迄に至りき。是れ當時幕閣には侃々諤々、朝廷に對して攘夷の行なう可からざるを奏聞する程の勇気は固より無く、去らばとて攘夷を實行して外國に兵端を開く程の決心もなく、詰まる所が攘夷の勅を奉ずれば外患を招きて國家の禍となるを恐れ、之を奉ぜざれば違勅の罪を名として變亂黨の術中に陥り、幕府の滅亡とならん事を恐れ、依違の模稜手段を以て切迫を免れんとのみ謀つたりき。其苦心も亦憫むべきなり。
初め将軍家上洛に先ちて前段攘夷期限の談判の結果として将軍家の滞京日數を十日間と定め、攘夷期限を口實として其歸府を急ぐの計畫なりしが、英國生麥談判一條よりして俄然其勢いを一變し、延て攘夷實行の形狀に及びたりき。此事情を明らかにするには生麥事件の概要を說くこと緊要なり。去年、すなわち文久二年、島津公が大原卿と共に東下し、八月廿一日に江戸を發し東海道に掛ったるに、此日英國軍艦の士官等横濱を出て生麥を遊歩し不意に島津氏の行列に出遇い、馬に騎ながら其共先を切り無禮に及びたりとて、島津氏の武士は之を憤って切捨てに致したり。神奈川奉行は此變事を聞き、直に役人を派出し、島津氏の跡を追ひ旅宿に至つて解死人云々の掛合いに及びたれども、要領を得ずして虚しく歸り、島津氏は其儘上京したりき。英國公使は白晝其國民にて爾も身分あるものを殺害せられ、其殺害者も島津氏の武士なりと分明に知れたる事なれば、爭でか猶豫すべき。直に幕府に向て解死人を極刑に附すべし、被害者の遺族を救助すべし、英國政府に向て償金を出し謝罪すべしと掛合いたるに、当時幕閣の議は兎も角もあれ償金救助金は迷惑なり、殊に島津氏をして解死人を差し出さしむるは行はれ難き事なるを以て、応諾の返答を違依して虚しく月を送る中に、此掛合いは段々に六かしくなり、今年(文久三年)の初めに至りては軍艦數隻を出し、兵力を以て厳重の談判に及ぶべしとの沙汰もありければ、幕府の外交に關する諸輩は事情の容易ならざるを知り、斯る時こそ将軍家の御在城は必要なれ、京都の事は畢竟國内の事なれば上洛御延引相成るとも苦しからず、外交の事は之に異なりて和戰安危の關する所ろ極めて重大なるを以て是非とも御在城あるべしと切に諫めたりと雖も、幕閣は一には外交を輕視し将軍家御不在の方却て談判のために都合良かるべしと思ひたると、一には京都今日の形狀一日たりとも御上洛を延ばす可らずと思ひたるとにて、現在外患の眼前に迫るを知りつゝ将軍家の上洛を促したりき。然るに英國軍艦は案の如く數隻の艦隊を編成し、二月下旬を期として舳艫相含て横濱に入港し、其二十九日を以て英國代理公使ニール大佐より厳重なる最終掛合書翰を幕府に差出し、(一)生麥暴殺一條に付き幕府は英國政府に謝罪狀を出すべし。償金として十万磅金を出すべし。(二)薩州公は被害者の遺族に一万磅金を出すべし。其凶行者を厳罰すべしと請求し、薩州の掛け合いは英國軍艦自ら之を行ふべきに付き、幕府は幕府だけのことを履行すべし。期するに八日の間を以てす。此期限内に応諾の答なきに於ては英国の請求を拒絶するの證と認めて英國は兵力を以て其履行を求むべしと、攘夷期限は却って彼よりわれに向けて申込たりければ幕府の恐愕一方ならず、江戸市中はスハヤ戦爭始まるぞと動揺し、幕閣は櫛の齒を引く如く早打を以て此事を京都に注進なし、英國公使に向ては尚八日間の猶豫を請ひ、又八日又八日と日延べに繼ぐに日延べを以てし、首を伸ばして将軍家の東歸を俟ち、其間に猶も京都の譴責を恐れ、世論の攻撃を憚りて幕閣は非常警備を告示し人數配り、兵糧手當等を命じて擬勢を張りたるに付き、江戸市中は勿論、武家屋敷に至るまで妻子を立退せ資財を運ぶなど頗る雑沓して、恰も火事塲の如き景色にて、江戸に散在する浮浪の暴徒等は此機に乗じ數十人隊伍を組みて豪富を略奪する事ども有りければ、幕府は諸藩數名に命じて市中を巡邏せしめたり。然れども幕閣は初めよりして攘夷の論に非ず、敢て勝べきの見込みも無ければ攘夷は攘夷、償金は償金、兩條自から別なり。生麥の事たる其曲我に在れば我が請求通りに先ず償金を與へて一旦時局を了し、然る上にて攘夷は改めて之を擧行すべし。兩條を混同して請求を拒み以て戰端を開くに至らば、彼直して我曲となり軍に名なかるべしと云へる說は幕閣の中に在て隠然其勢力在りしが如しと雖も、之を発言するを憚りたり。而して英国公使の慧眼なるや早く此情勢を看破したるを以て、敢えて事を急速に決せず、日延を請へば輙ち應じて其際幕吏に說くに和戦の利害を以てし、徐に時期の熟するを俟ちたりき。


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