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幕府衰亡論
 ◎第二十章
  幕府が威權微弱の情勢
   英國償金談判の結了
   一橋卿東歸辭表
   小笠原閣老西上 將軍家御東歸
   攘夷實行 馬關にて外船砲擊
   鹿児島戰爭

英國手詰めの談判江戸に於いては正に切迫したりければ、留守の閣老等は兎も角も將軍家早々御歸府あるべしと京都へ櫛の齒を引くが如くに急使を發したり。京都に随従したる閣老は是を機会に將軍家を早く江戸に還御なさせ参らせんと謀つたれども、京都の勢力を占めたる過激黨は是ぞ攘夷實行の機会なると勇み立て廷議を動かしたれば、朝廷は將軍家に向て、英夷渡来にて關東の事急なれば防御の爲に大樹歸府あらんこと尤なれども、京都並びに近海の守備警衛等を大樹自ら指揮あるべし。攘夷決戰の折から君臣一和せでは叶ふまじきに由て、大樹は滞京あるべし。英夷の應接は難華港に廻して拒絶の談判あるべし。兵端を開かん節は、大樹自ら出張して萬事を指揮せらるべし。關東防御は然るべき人躰を選びて申付けらるべし。此趣を大樹御請の節は攘夷の首途に直に八幡に行幸あつて神前に於いて節刀を賜らんとする叡慮なりと達せられたりければ、幕閣は内外より迫られ進退維谷たるに付き例の一寸遁れの策にて、滞京の事は御請を爲し、八幡行幸には將軍家供奉せずと内决し、水戸中納言(慶篤卿)を將軍家の目代として東歸せしめたれば、水戸は四月十一日を以て江戸に着せられにき。其數日前閣老小笠原圖書頭も京都より江戸へ歸り來ければ、水戸の歸府を待ち受けしに、幕閣より大小名に觸示して、將軍家は關東御守衛として水戸中納言を下向せしめ、外夷御處置振御委任されたれば、曲直を明らかにして名義を正し、御國威相立候様に取計ふべしと仰出れたり、依て尾張中納言並に郎中へも相談あるべしと達したり。是に於いてか英國談判の重大責任は水戸尾張閣老の肩上に懸つたり。但し曲直を明らかにし名義を正しと云へる文言中には既に償金承諾の微意を示したれども、此時に當り京都より如何なる譴責非難を蒙らんも計り難ければ、水戸と雖ども尾張と雖ども閣老と雖ども、誰か進んで償金相渡すべしと發議し、斷行する事を敢えてせんか、互いに顔と顔を見合わせて痛心の中にその日を送つたる而已なりき。此際、幕閣は猶も諸大名小名に向ては左ながら攘夷の勅諚を尊奉するが如き躰面を粧ひ、英国軍艦渡來の主意曲直を正し名義を明にし、随て鎖港の談判に及ぶ可き間、その談判中は無謀過激の所業なき様にせよ。愈々戰争と相成らば一同に心力を盡し、御國威相立候様に銘々覺悟せよと達し、和するが如く戰うが如く、例の模稜手段を以て一時に籠絡せんと試みたるれども、當時幕府の人士は概ね攘夷の行ふべからざるを悟り、又幕閣實に其念慮に非ざるを洞察したりければ、これを一笑話に附せるに似ず、市民は眞に戰爭の起こるかと恐れて其堵に案ぜざる有様なりき。却説英國公使は初めの程こそ八日に繼ぐに又八日を以てするの猶豫を諾したれ、最早其日延も遲延して五月上旬に至りければ、此上は猶豫致さずと幕府に掛合ひたるに付き、禍機正に目前に切迫したり。兎角する内に小笠原圖書頭は幕閣にて密に相談を極め、乃ち五月八日を以て軍艦に乘つて急に品川を出帆し、其翌九日神奈川に上陸して外國奉行をして英國公使に應接し、生麥殺害の償金拾萬英磅金要求の通り幕府より相渡すべしと承諾の返答を爲し、英国談判を無事に結了せしめたり。此償金承知の事に關しては京都の過激派は云ふに及ばず、世論みな痛く幕閣を非難したれども、若し此時に開戰にも及びたらんには、江戸即ち今の東京、及び横濱其他の諸港は如何なる惨状に懸かり、日本政府は如何なる要求を其上に受け、幕府は遂に過激黨が革命謀略の術中に陥りて其衰亡の運命を促したるも知る可からざるなり。
却説京都にては、過激黨の勢力のために攘夷の氣焰益々熾にして奈何ともすること能はざるの狀況に迫つたりければ、越前(春嶽)は御政事總裁職を辭し、未だ聞届けも無きに突然京都を去て歸國したりければ、是にて愈々幕閣の勢力微弱なるを顯はし、將軍家は四月廿一日攝海の形勢巡視の爲とて京都を京都を發して大坂城に下り玉ひしが、五月十一日再び上洛して二条城に入らせ玉へり。斯くて攘夷の事は其實行を評決すべしとて、一橋刑部卿を江戸に下らしめたり。一橋卿は五月八日を以て江戸に着せられたるが、同十四日を以て後見職を辭せんことを乞晴れたり。其書面なりと世上に傳へるものを見るに、

この度攘夷の聖諭を奉じ東歸仕候は全く勝算有之譯にては無御座無候倫言如汗幕意も亦不可背の故にて關東有志と討死可仕心底に御座候處閣老並に大小の有司同志仕候もの一人も無之臣の胸中禍心を包蔵仕候由横議を生じ衆心不服にて嫌疑に相泥み勅旨貫徹仕候事中々以て不相成候抑關東有志の情實並に宇内の形勢不相察短才無智の身を以て重大の攘夷奉命仕候段不堪恐懼候重々奉對天朝誠に奉恐入候且つ幕意に背き候段重々相不濟儀に御座候依之謹罪を閣下に奉待候出格の御憐憫を以て職掌御免相成候様天朝へ御内奏伏て奉願候誠徨誠頓首

とあり、此辭表の真僞は素より余が知らざる所なりと雖も、當時江戸の大小有司が一橋卿に対して嫌疑を懐きたるは頗る其事實ありき。蓋し將軍家家に供奉して親しく京都の事情を詳かにする在京幕吏は、關東有司を目して国内の情勢に通ぜざる物なりと嘲り合へる中に、一橋卿が將軍家の連枝を以て猶攘夷の勅旨を奉じて東歸せらるゝは其形亦太だ怪しむべし、或は之を利用して將軍家を困難せしめ、己れ取りて代わるの非望を懷けるに非ざるを得んやとの嫌疑は、夙に此時より起り、將軍家家茂公の世を終わるまで此嫌疑は常に一橋卿に附着して、關東有司の脳裏を去らざりしなり。斯りしかば爾来、鎖港拒絶の議は關東有司が是認せざる所なるが上に、其攘夷の元帥たるが一橋卿なれば爭でか之に應ずべき。其狀恰も江戸は江戸と、同じ幕府の評議にても自ら二た分に成りて、是より幕府の政令常に京都、江戸の二途より出るの弊を招きたりき。然れども一橋卿は固より攘夷の実行せらるべきと信ぜし人には非ず。蓋し宇内に通暁するの君と稱すべき價値は十分にありしと雖も、嚮に井伊元老が果斷の方針を執りて幕政を誤りたるに懲り、専ら傍より善處調和の弥縫策を行はれたるが爲に、一旦おのれ責任に當るの地に立てば自ら前言に齟齬するの譏を来すの困難に陥られたるもの歟。
茲に又思はざる邊よりして事起こり益々攘夷の気焰を熾ならしめたるは、長州の攘夷實行なりとぞ。攘夷實行期限は五月十一日と勅諚ありしと雖も其實如何あるべきやと我も人も危ぶみ疑い、成功覚束なしと思い居りたる所に、五月十日米國船が馬關の海峡を通航せるに當り長州の砲台はこれを砲撃してその旨を上奏したりければ、京都の過激黨は大に喜び、叡感不斜の褒詞を賜い、殊に幕府に向かつて米金を恵贈すべしと命じたり。加ふるに彼の英國軍艦は幕府に對するの談判は結了したれども、薩州に対する箇條は未だ談判に掛からざるを以て、鹿児島に回航して直接の應接に及ぶべしと主張し、幕閣頻りに之を防止し薩州に対する箇條も幕府より通達すべしと申入れたれども、英國公使これを聞かず、依つて不得止その意に任せ、実は薩州も親しく英國の懸合に會て見ること後日の爲なるべしと云ふ位なる淺果の了見にて、強て其上は止めざりけり。左れば英國償金の結末と云ひ、英艦薩州回航の件と云ひ、馬關外國砲撃の變と云ひ、鎖港談判の令と云ひ、今は幕府が政略の方針を一定せざる可からざるの時機なれば、殊に依ては京都に於て兵力を以て浮浪の激徒を一掃すべしと幕閣は非常の發奮をなし乃ち小笠原圖書頭は當時幕府有司中にて錚々の聞こえありし水野癡雲、井上信濃守、浅野伊賀守、向山榮五郎の諸人の勧告に従い、数隻の外船を雇ひ入れ之に搭ずるに二大隊の精兵を以てし、五月廿日を以て突然大坂に上陸し、隊伍を整へ、将軍家護衛を名として陸路を進み淀まで赴きたりしに、在京の閣老は幕命と勅命を以て之を淀に要して其入京を差止め、若し聽かずして入京せば何らの時變差起らんも知る可らざれば直に大坂に引歸すべしと命じたるに付、小笠原の一行は心弱くも此説諭に服して數日滞留の後虚しく大坂に引返し、尋で将軍家下阪に當り厳重なる譴責を蒙り、いずれも褫職蟄居に處せられたりき。若し此時差止を聽かずして入京し、過激黨の攻撃に應じて兵を執りて立ちたらんには、幾許も無き浮浪の激黨なり、豫期の如くに一掃し去らんこと其望なきに非ざりしに、小笠原が前に脱兎の勢いにて起こりたるに變わり、後には處女の如く成りて大坂に引返したるは、幕府の爲には深く惜しむべきの機會を失ひたりと云ふべき歟。然れども在京の閣老等が小笠原圖書頭が獨斷を以て償金を差遣たるは朝廷へ對し申訳無之、何とも恐入りたる次第なり。此上は老中歸府應接いたし候、迚も力に及び難ければ大樹自身小田原驛まで相越し奸吏共を罰し、水戸、一橋等を呼寄せ、関東の情實を篤と聞糺し急速攘夷の功を奏すべければ、何分にも大樹自身發向を相願候と、卑怯なる口實を以て朝廷に暇を告げ六月九日に都を發して大坂に下り、海路にて同き十三日に東歸し玉皮脂は、蓋し此兵士上坂の故なりと思はれたり。 然るに長州の馬闞攘夷は其後猶も之を實行し、英、佛、米、蘭四國の船舶みな馬闞砲台の彈丸を其船体に蒙つたれば四國の公使より交々其理由を幕府に詰問し、幕府は頗る其答に困難し、且は國内の情實を語げ、且は内海通航見合の事を乞ひたれども、四國の公使は固く執りて聴かず、依て長州に詰問すれば、奉勅攘夷なりと云ふ一言にて打ち拂われて、復再び之を問ふ事も成らず去とて其儘に捨置ては大事なりと苦慮し、御使番中根一之丞を上使に命じ、幕府の軍艦に乗らしめて長州に遣はし、其砲撃の仔細を聽かしめたるに、長州の藩士等は無慙にも此上使たる中根一之丞を暗殺し、其軍艦までも奪い取らんとして、明らかに幕府に對して反狀を顯したり。然れども幕閣の微弱なる直に長州に向て其罪を問ふ事を成さゞりき。扨又薩州の方面にては、七月八日に至りて英國軍艦と砲戦を始め、鹿児島の砲䑓は打ち破られ、市中は兵火に罹つたれども、英艦も亦多数の砲彈を受け、艦長も戦歿したる程なれば、戰爭は互角にて、英艦は遂に其要領を得ずして横濱に引返したり。但し薩州への請求の金額は其後薩摩の吏人横濱に赴きて談判を遂げ、其金を幕府より借りて英國に相渡し、以て其局を了したりき。然れども此戰爭の爲に薩州の攘夷論は其跡を斂めたれども、幕府が国内の大諸侯に対して統治の實權無き證據は判然と顯はれたりければ、幕府の權威は内外倶に此時よりして著く其衰弱の兆を示し、將に滅亡の運に向浸り。然るに八月に至りて頓に又その勢いを變したり。其事は是を次章に開陳すべし。


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