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幕府衰亡論
 ◎第廿一章
  廷議 過激党の失勢
   京都癸亥八月の變革
   温和黨其勢を恢復して過激黨を退けたる事情
   攘夷親征取消の勅諚
   將軍家再度上洛の決議
   鎖港談判 鎖港使節に付幕府失策の事情

將軍家は其權威を失いたるが結果にて京都を去りて江戸に歸られたり。薩州は島津三郎氏曩に其志を得ずして歸國し、有志數輩その藩邸に留守せるのみなり。京都の廷議は全く過激黨の有に歸したり。長州に於て馬闞の砲撃は頻に攘夷の氣焔を熾ならしめたり。京都の廷臣は今や過激黨の多數に制せられ、六月下旬に至りては九条前闞白を初として、久我、千草、岩倉、坊城、廣橋、姉小路、中山、正親町等の公卿、殿上人及び地下に至るまで温和黨の人々はさらに嚴重なる罰に處せられ、目するに奸人を以てせられたり。京都に於いて纔に幕府の爲に一縷の命脈を繋げるは、會津が守護職代として洛中に在るのみなり。是れ實に文久三年七八月の現狀にてありき。然るに八月に至りて俄然この現狀を一變し、一夜の中に過激黨を退けて廷議を再び温和黨の手に復したるは、幕府に取りては實に以外の僥倖にてありき。この事變たる専ら京都の事にして幕府には直接の關繋なきに似たれども、延べて及ぼす所の大なるを以て、余は其の概略を叙せざる可からず。聞くが如くなれば、是より先近衛前闞白は竊に過激黨の擧動の粗暴に流るゝを患ひ、密使を薩州に送り三郎氏の上京を促されしかども、當時三郎氏は其説の時輩に納られざるを察し、且は英艦來襲の警報に接したれば上京に暇なく、只その内意を在京藩士に傳へ、緩急竭す所參拝あつて、伊勢に渡らせ玉ひ神宮御參拝あらせ玉ふべき旨を議し、其實攘夷を名として先づ幕府征伐の實を行い、其上にて攘夷の事に及ばせらるゝべしと内議し、即ち彼黨が本來の持説たる倒幕攘夷の眞相を露はし、其議漸く熟して遂に攘夷御親征の勅諚を公に布告あるに至れり。是実に陛下の思食知らせ給はざるの事にして、即ち矯勅の所爲なりとは後にぞ相知れたる。此攘夷御親征の勅諚を出されたるは内實幕府御征伐の宸意なりと知れ聞こえたれば、廷議は過激黨の論に歸したるに瀬戸、皇族、公卿、諸藩の方々爭でか斯る輕舉を傍觀してあるべき。中にも會津藩士等は薩州藩士等と内議して最早今日にては天下の御爲に此過激黨の詭論を壓せざる可からずと覺悟を定め、また皇族たる中川宮にて此事由々しき御大事なり、篤と叡慮を窺い奉らざる可からずと屹度思い定められて、密に參内あつて上奏ありけるに、果して眞正の叡念にては是なき旨の仰せを承はらせ玉ひしかば、温和黨は斷然其計畫を密議したり。然れども事遽に起こりたるを以て過激黨は未だ之を諜知するに遑なきに、早くも八月十七日の夜に及びて内廷の議を决せられ、其夜半に至り、皇族には中川宮、攝籙には近衛殿、二条殿、武家には松平肥後守(守護職會津)、稲葉長門守(所司代)、其外温和黨の公卿、殿上人、諸大名、藩士等俄に參内あつて僉議を定められしかば、十八日の暁より御所の九門は諸藩の武士兵具を以て厳重に固め、中にも會津、薩摩の藩士は此時なりと命名必死の覺悟を極めて、スワと云はゞ打て立んと構えたり。過激黨の本據たる長州藩邸に於ては此狀を聞き、事こそあれと人数を整え、同じく打て出んと用意したりと云へり。斯て十八日の早朝になりたれば、關白殿、議奏、傳奏並びに國事掛りの公卿其外とも盡く參内を止められ、次には是迄界門、御門の警衛を長州に仰付置かれしが、御免に相成を以て即刻引拂申すべしと達せられたり。長州藩氏は其理由を承らざる間は御請に及び難しと陳じたれども、其上のみならず長州藩士の在京を禁ぜらるゝを以て京都を引拂ふべしとの厳重なる御沙汰を蒙つたれば、左しも昨日までは朝廷の御覺へ尤も愛度て尊攘の中心と見做されたる長州も、所謂寐耳に水の心地して思いの外の勅堪を蒙りたれば、これぞ全く薩州、会津の奸計に陥ったるなると憤怒し、あはや剣光砲烟の間に相見えんずる勢なりしが、幸ひ其老職が思慮ある計らいを以て勅を奉じ堺門を引渡し、直に發足して藩士一同みな國許に引戻したり。而して世に七卿都落とて、三条、西三条、東久世、壬生、四条、錦小路、澤の七卿が勅堪を蒙り、長州藩士と共に忍びて西下ありしは即ち此時の事なりき。かゝりしかば、凡そ過激黨の人々を以て組織したる國事掛理、御親兵掛りは皆參内を止められ、廷外に出されたるを以て、過激黨の計畫は忽に一擧に破碎せられて、廷議は都て温和黨が勅を奉じて決する所に歸したれば、同日の勅諚を以て、夷狄御親征の議に付き未だ機會に之なき叡慮の處宸意を矯め候ふ御沙汰の趣き公行に相成たる段は全く思食に在らせられず追て御親征あらせらるべく候間まづ此旨更で仰出さるべく候最も攘夷に於ては叡慮は少しも替らせられず候へども御親征は暫く御延引仰出され候事と布告せしめ玉へり。是迄は一途に攘夷御実行の御催促ありしが上に御親征までもと明らさまに仰出されしものが、一朝に斯く御變更あるべき理由はある可からず。曩に攘夷御親征と仰出されたるが矯勅の令なるか、但しは今の御延引と仰出されたるが矯勅にやあるべき、恐れながら眞僞の程の分明ならざるは如何と、各々疑惑に及びたりければ、再び宸翰を諸藩に下され是迄は彼是眞僞不分明の儀有之候へども昨十八日以後申出候儀は眞實の朕が存意に候間此邊諸藩一同心得違無之様の事と示させ給ひ、次で是迄諸藩士並浮浪人等諸家へ立入異論を唱へ候より叡慮を悩し候次第の儀有之候間以來右様の儀無之様取締仰出され候事又諸藩士堂上諸家へ立入候事以來は各藩にて役人人數相定め名前を傳奏へ差出置き其他の輩は猥に立入有之間敷と仰出され候事と達せられたり。是に於ては過激黨は益々憤懣して、十八日の勅諚を以て矯勅反覆の綸旨なりと議じ、浮浪暴論の禁を以て正義を鉗するの所爲なりと論じ、憤懣に繼ぐに誹謗を以てしたれども、廷議は厳然として爲に動されざりき。
島津三郎氏は勅を得て決然薩摩を發して上京したり。氏が調和説たる公武合体の宿論は今日に於いて其期を發したるに由り、氏は幕府に使を送り、此機决して失う可からず、將軍家には速に再度の御上洛あるべしと忠告し、公卿に對ては、今春將軍上洛の時の如くに猥に幕府を輕蔑あるべからず、幕府に委ぬるに至當の権威を以てし以て皇國の安寧を謀り朝廷の尊榮を保たせ給ふべし、是今日の得策なりと忠告したりければ、公卿も固より此忠告を納れたれば、幕府も亦大に島津氏の盡力を悦び、現に生麥事件に付ては島津氏の爲に幕府が非常なる外交困難に陥ったる事をも容易く打忘れて幕議を决し、將軍家は再び上洛あるべき豫定なりと広告したり。却説過激黨の憤懣はついに忍耐する事を得ずして破裂して東西の暴擧となれり。東は此年九月、中山侍従(脱走公卿)を首領として大和の五条に兵を擧げ、幕府の御代官を殺して勤王の旗を揚げたり。西は但馬の生野にて澤主水正(西走七卿 の内)を奉じて、是も御代官を攻めて同じく勤王の旗を揚上したり。然れども此兩擧は東西その期合せず、加ふるに烏合の過激黨にして其數も僅少なりければ、忽に幕府より命じたる近傍諸藩の爲に追討せられ、旬日を經ずして敗績して静謐に復したりき。但し此兩擧は當時に於てこそ左までの影響なき様に見えたれ、今日よりして深く時勢の變移を察すれば、幕府は此爲に頗る重傷を被りたりと云はざる可からず。世上の人心この敗績を憫れむの情は即ち他日倒幕の決意を作興したるものなり。尊皇攘夷の名義を以てすれば、幕府に抗適するに兵力を以てするも世論はこれを咎めざるの實證を示したるものなりき。然らば即ち倒幕の大火團は此一小暴動これが燐寸の導火となつて後日に爆發せりと云ふべき歟。却説幕府は京都へ對して申譯の爲に先づ九月より横濱鎖港の談判を開きたれども、外國公使は此談判に應ぜざるを以て隠然と談判中止の姿になし置き、將軍家の上洛に由て廷議を一變すべしと期したれば十月を以て紀州公に大阪守衛を命じ、松平大和守を擧て御政事総裁職に任じ、一橋中納言をして將軍家に先だちて上京せしめたり。此時に當つて幕府の爲に一大問題たるは攘夷論あるのみ。其攘夷論は、京都にて過激黨が退けられたに由て大に氣勢を挫かれたり。天皇陛下攘夷御親征の勅は矯勅なりと公布せられたり。曩に攘夷勅使として闞東下向を仰承はれたる有栖川宮は、紀尾兩候の請に依り御猶豫を公達せられて、攘夷実行は暫く延期と相成りたり。其後十月に至りては、此度闞東に於いて鎖港の談判に及び候旨言上有之候間攘夷の儀は總て幕府の指揮を得輕擧暴發の事無之様諸藩家来末々まで示聞せらるべき事との勅喩を下し賜はつたり。而して事情を察すれば、攘夷は専ら彼過激黨が熱心主唱せる所たるに拘らず、其心底の秘奥を叩けば攘夷は其假にして倒幕こそ其實にてあるなれ。勿論彼輩多數の中には眞に攘夷一途と思込みたる者も尠からずと雖も、其牛耳を執て勢力を左右せる重立たる人物は概ね竊に攘夷の不可行を覺つたる輩なり。唯幕府を自滅せしむるの急所たるを以て之を主唱せる輩なり。而して温和黨の公卿、諸藩は如何と顧みれば、敢て開國に付ては甚しき意義あるに非ず、島津三郎氏の如きも鹿児島の一戰に外患の不利なるを知り得たるの人なり。土佐、越前、筑前、肥前の諸強藩も亦内實非攘夷論たるは幕府が窺い得たる所なりき。去れば此時を以て幕府も斷然たる國是を定め、外交拒絶は我國の不利なり、攘夷决して行う可からず、諸港决して鎖す可からず、宇内の形勢は云々なり、天下の大勢は云々なりと、正々堂々の議論を以て直徃せば、条約勅許は遅まきながらも此機會を以て乞請るを得て幕府の命脈を保つ可かりしなり。然るに惜かな、幕閣は惴々焉としてわずかに生息を聊するのみ目的として、左せる果斷敢爲の氣象は疾の昔に消滅し去て其痕跡をも殘さず、或いは幕府有司中の冒險者流が鎖港の要求は行はるべしと放言し、或いは飄然来遊の外國希功者が拒絶の談判必ずしも其望みなきに非ずと建議するを恃に思ひ、且は京都への申譯且は切迫の時勢を延ばすの方便なりと愚にも考へて、鎖港談判の使節を歐州に發遣したり。其後一橋中納言上京あって島津三郎氏に面會の節にも(久光公日記の言ふ所によれば)、三郎氏は攘夷鎖港の行はる可からざるを知らば幕府は宜しく十分に其旨を奏上あるべし、鎖港談判の使節を發遣して以て内を欺き侮を外に招くは國家の不利なれば、宜しく呼戻し玉ふべしと迄に忠告せられしかども、時機已に後れたりとて其忠告を採用せざれずして、猶ほ混然たる無縫の結果を萬一に希望したるは、豈幕府が惜しむべきの機會を失ひたるものに非ずや。


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